正気の天秤

※あまり明るい話じゃない

「ねえ、フラワーショップに寄りたいわ。いい?」

青年の服の裾をくいと引っ張るでも、上目づかいをしてみせるでもなく、ただ足を止め、明後日の方を向いている。
カイナシティの潮風を心地良くその頬に受けながら、少女はぽつりとそんなことを零す。
その「いい?」という言葉が、他でもない自分に向けられたものであると、銀髪の青年は確信することができずにいた。
少女は青年を見ない。少女は青年の隣を歩かない。この時間をデート、と呼ぶには、その距離はあまりにも遠く、その視線はあまりにもねじれていた。

「花を買うのかい?」

「そうよ。男の人がお花屋さんなんて、入りたくないかしら?」

ようやく振り返った少女は、しかし健気に困ったような表情をしてみせたりはしない。
貴方が入らないのなら私一人で向かうわ、とでも言いたげな、気丈で奔放で、それでいてどこまでも冷淡な笑みを湛えている。
その笑みがあまりにも深すぎて、ダイゴは息を飲む。呼吸の仕方を忘れそうになった青年を、少女がクスクスと嗤う。

いつだって笑顔を絶やさず、大抵のことは「造作もないわ」という一言と共にさらりとやってのけてしまう彼女に、しかしダイゴは「完璧」の烙印を押すことができずにいた。
けれど、彼女のことを「年相応の不安定な少女」だと見るには、彼女はあまりにも成長しすぎていた。
ある時は完璧な少女であり、模範的なポケモントレーナーである。
しかしまたある時には幼子のように奔放に走り回り、またある時には自身を、もっと崇高な存在であるかのように思い上がった傲慢で尊大な振る舞いをする。
彼女には一体、幾つの顔があるというのだろう。

『二十面相のようだね。どれが本当の彼女なのか、私には見当もつかない。』

ジムリーダーを務めるその友人は、ダイゴにそう告げたことがある。
『ダイゴ、君が彼女と向き合い続けることは、君にいい結果をもたらさないと思うよ。』
それが友人の忠告だと知っていながら、それでも彼はこの少女に関わることを止めなかった。
何故なら、少女がそうした幾つもの顔を曝け出すことのできる相手は本当に限られていて、自身がそのうちの一人であることを、ダイゴは自覚していたからである。

「ボクは構わないよ。それじゃあ行こうか」

「ありがとう」

柔らかく笑って、少女はダイゴの数歩先を歩く。隣に並ぶことを少女は許さない。それでもよかった。構わなかった。

だって、此処でボクが逃げてしまったら、一体、誰が彼女の全てと向き合ってくれるというんだ。彼女は誰に自身の全てを知ってもらえるというんだ。
普段は人畜無害そうな笑みを湛えて、それでいてその柔和な笑顔で全てのものを拒み、何者をも近付かせないようにしているあの彼女に、誰が踏み入ることを許されるというんだ。

そんな風に思ってしまう青年もまた、彼女と同じように思い上がっていたのだろう。
けれど、思い上がった青年は思い上がった者として、相応しい覚悟を身に付けようと思っていたのだ。
陽気、快活、けれど冷淡で残酷、それでいてどこまでも不安定。そうした彼女の何もかもを知っても、その過程で何が起きたとしても、彼女を見限らないと誓っていたのだ。

「花占いを必ず「好き」で終えられる方法があるのよ。ご存知?」

だから、カイナシティのフラワーショップで少女が綺麗な赤い薔薇の花を一本だけ購入した時も、「そういう気分だったの」とダイゴを見上げて笑った時も、
会計を済ませてフラワーショップを出た途端、その花弁を指で摘まんで一枚ずつ千切り始めた時も、
ダイゴは何も言わずに彼女のそうした行為の全てを認めなければいけなかったのだ。笑って、許さなければいけなかったのだ。
そして彼は悉くぎこちない態度ではあったが、彼女のそうした行為を否定する言葉の一切を紡ぐことなく、微笑むことができた。よかった、と、自分自身に安堵していたのだ。

そう、衝撃を受けている場合ではない。寧ろこれはそうした、彼女の曝け出された不安定な部分から、彼女の何かしらを理解することのできる貴重な機会なのだ。
だからダイゴが取るべきは、彼女の、あまりにも常軌を逸した行動に息を飲んで沈黙し、ぎこちない笑みを浮かべることではなく、
寧ろ彼女の弾むような言葉の節々から、彼女の底に潜む感情の種類を特定し、彼女の理解に努めることなのだと、頭では理解していた。
けれど、美しい少女が美しい花を少しずつ殺していくその様は、青年にとってあまりにも衝撃的で、その衝撃が、冷静に思考を巡らせる余裕を完全に奪ってしまっていた。
ただぎこちない笑みで相槌を打つことしか、できなかったのだ。

その花を持って大通りに出た瞬間、微塵の躊躇いも見せることなく、寧ろ初めからこうするつもりだったのだというような自然さで花弁を千切り始めた少女に、
ああ、やはりこの美しすぎる少女は自分の予測に収まりきらないところへと行ってしまっているのだと、青年はいよいよ、確信せざるを得なくなってしまった。
駄目だ、と思った。自分にはこの少女を理解することなどできやしない。彼女は走りすぎている。もう自分では、追いつけない。

一枚を指で摘まんでは空高く掲げ、海の風に乗せて遠くへ飛ばしている。カイナの大通りに一枚、また一枚と赤が飛ぶ。
アスファルトに落ちたその鮮烈な色は、人の血のようにさえ見えた。手首を切っている、ように見えたのだ。
けれど彼女は刃物を持ってはいない。確かにあの薔薇は酷く美しいけれど、あの花は少女ではない。少女は、あの薔薇を自分に見立てて殺している訳では決してない。

「好き」「嫌い」と、子守唄のようにゆっくりとした声音で呟きながら、至極楽しそうに少女は花弁を千切っていく。
幼子がするようなその花占いが、誰を想って行われているものなのかを青年は知らない。自分のことだと自惚れるには、自分と彼女との距離はまだ遠すぎるような気がした。

少女はダイゴを見ない。少女は彼の隣を歩かない。
何故なら少女は青年のずっと前を走っているからである。青年が追いつくことのできる可能性など、微塵も残されていなかったからである。
けれど、それでも。

「いや、知らないな。そんな方法があるのかい?」

「ええ、あるわ。「嫌い」で終わりそうな時だけ、茎も数に入れてしまえばいいのよ」

そう言い終えると同時に彼女は足を止め、振り向いた。大輪であった筈の薔薇、その花弁はもう一枚しか残っていなかった。
彼女はそれを笑顔のままに千切って風に飛ばし、その手で棘のある茎をぎゅっと握り締める。
あ、とダイゴは思わず声を上げた。薔薇は棘を持つ植物だ。持っているだけならともかく、そんな風に強く握り締めては、鋭利な棘が刺さってしまう。
けれど彼女は全く痛がる様子を見せなかった。寧ろ至上の平安を手に入れたかのような穏やかな笑みを浮かべ、小さく、首を傾げる。
「ね?」と、確認するように紡がれた声音に被せるように、ダイゴは「痛くないのかい?」と尋ねていた。

「あはは、勿論痛いわ。でも本当に欲しいものなら、自分で掴まなくちゃ。運命に身を任せるなんて、臆病者のすることよ」

「……そうかい」

「私は勇敢だから、棘を掴むことなんか造作もないの」

そう付け足した少女が掴もうとしている運命が茨の道の先にあるなら、自分が先回りしてその棘を抜いてあげたいと思った。
けれど、青年のそんな傲慢が許されない程に、この少女は聡明で勇敢で、愚かで、青年のずっと先を駆けていた。彼女は、走りすぎていたのだ。
ダイゴはきっと、この少女に追いつけないのだろう。今までもそうだったのだから、きっとこれからもそうなのだろう。
彼女は走りすぎていた。彼女の疾走は、きっとこれからも止まらない。

『ダイゴ、君が彼女と向き合い続けることは、君にいい結果をもたらさないと思うよ。』
友人の言葉が彼の脳裏を掠めた。けれど彼は静かに首を振り、ごめんよ、と音に出すことなくその友人に謝った。

ボクを案じてくれてありがとう。けれどミクリ、ボクは諦められそうにない。
だって、本当に欲しいものなら、棘があったとしても自分で掴まなければいけないと、彼女がそう言ったんだ。

トキちゃん。ボクは君が何処へ行こうと構わない。君がどんな風であったとしても、何をしても、何が起きても、ボクは変わらない」

「……ふふ、急にどうしたの?」

「だからお願いだ、今日のように振り返ってくれ。後ろにちゃんとボクがいることを、君の目で確認していてほしい」

ボクを置いて行かないでくれ、という言葉は、最後の矜持と共に飲み込んだ。
彼女はクスクスと肩を揺らして笑った。手折られた薔薇の茎をそっと手放せば、今度は花弁ではなく本当の鮮血が彼女の手の平を濡らしていた。
慌ててポケットからハンカチを取り出し、その血を拭おうとして伸べた手を、しかし少女は血の付いていない方の手で強く掴んだ。

「ええ、解ったわ。必ず振り返るから、だから私が振り返った時に、ダイゴさん、貴方は必ず私を見ていてね。私がどんな風であったとしても、何をしても、何が起きても」

「!」

もし此処で、彼女の手から血が流れていなければ、ダイゴはその言葉の意味について冷静に考えることができたのだろう。
ダイゴの発言を引き取って被せるように紡がれたその懇願が、何を意味しているのか、決して愚鈍ではないダイゴが思い至ることは容易だったのだろう。

「……分かった、約束しよう」

けれどダイゴはその言葉について思考することをしなかった。そうするだけの余裕を、彼女の指と手の平の血が完全に奪ってしまっていたからだ。
代わりに誓いの言葉を紡いで、今度こそ、指先から滴り落ちる血をハンカチで拭った。
彼女は暫く茫然と立ち尽くしていたけれど、やがて血の滴る親指の先を、ハンカチの白い部分に押し当てて、「ほら、薔薇の花弁」と戯言を転がす。
そうだね、と今度こそ自然な相槌を打ちながら、ダイゴは何故だか安堵していた。その安堵を微笑みの形で吐き出すと同時に、彼女が手放した薔薇の茎を強く踏みつけた。

2015.12.8
相手の天秤にある正気の一部が失われたら、釣り合いを取るためにこちらも正気を手放さなければならない。

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