美しさなら捨ててきた

「君がなかなか振り向いてくれないものだから、ダイゴが拗ねているよ」

「それは文句かしら?それにしては、随分と上機嫌な笑顔で仰るのね」

「そりゃあそうさ、あの御曹司様の困り果てた顔なんて滅多に見られるものじゃないからね。あいつから相談を受けるというのは、なかなかに気分のいいものだよ」

ルネシティの大樹の下、少女はこれから昼寝でも始めるかのように寝転がっていた。
ミクリは彼女が時折、この大樹の近くにやって来ることを知っていた。
彼女のポケモンであるプラスルとボール遊びをしたり、ポフレを食べさせたりして一頻り遊んだ後で、今のように木漏れ日の下に転がり、眠る。
その、おおよそお嬢様らしくない行動にミクリは最初こそ驚いたものの、何度か顔を合わせることにより、それが少女の個性であり魅力なのだと思えるようになっていた。
おそらくは、ダイゴもそこに目を留めたのだろう。

「ダイゴのことを嫌いな訳ではないのだろう?一度くらい、彼の方を振り返ってやってもいいんじゃないかな」

そう、ミクリがこの場所を訪れたのは、彼女と言葉を重ねるためでは決してない。そもそもこの少女を想っているのはミクリではなく、彼の友人だ。
9歳も年下の少女に惚れ込む御曹司の姿は、少なからずミクリに衝撃を与えていた。
勿論、その様子を見るのはとても楽しいものだったけれど、ミクリとて、困り果てている友人に手を貸せない程に非情な人間ではない。
しかし、ミクリが投じたその一手に、少女は木漏れ日を見上げたままとんでもないことを紡ぐ。

「あの人が私を好きなのは、私が彼に靡かないからです」

「……どういうことかな?」

「きっと彼は、望めば何でも手に入れることができたのでしょうね。彼に出会った女性の殆どは、彼に好印象を抱いていたのではないですか?」

その通りだ。ダイゴに惚れ込む女性は数多くいれど、彼を嫌うような発言をする女性を、ミクリは今まで見たことがなかった。
だからこそ、ダイゴが手に入れることのできないこのお嬢様の存在が、ある種の特異さをもってミクリの目に焼き付いていたのだ。

「きっと、自分のアプローチをかわされたことなんか一度もなかったんでしょうね。だから少し、意地になっているんです」

その考察は、9歳も年上である男性へのものとは思えない程に幼稚で単純なもので、ある種、彼を侮蔑する響きすら持っていた。
しかしそれこそがダイゴの心理背景なのだと確信してしまえる程には、彼女の声音には説得力があったのだ。
肩を竦めて苦笑するミクリに、クスクスと鈴を鳴らすような笑みを零しながら少女は再び口を開く。

「あの人は、自分から逃げ続ける私が好きなんだと思います」

しかし次の考察が、ミクリにも思うところのあるものだったため、彼は思わず息を飲んで沈黙してしまった。
彼女の言い分は、とてもよく解る。きっとダイゴにとって、望んだものが手に入らないというのは初めての経験だったのだろう。
ダイゴは決して強欲な人間ではないが、それでも自らの欲しいものは全て与えられる程度には裕福な生まれだったし、自らにもその欲しいものを手に入れるだけの力があった。
しかしそんな彼が、一人の少女に執着している。どうにかして靡かせたいと必死になっている。

それは彼が少女を手に入れることができずにいるからだ。

その、あまりにも簡潔で的確な指摘にミクリは驚きを通り越して感心していた。
成る程、ダイゴは少女のこうした、聡すぎるところにも惹かれたのかもしれないと思いながら、彼女の次の言葉に耳を傾ける。

「きっと彼は私を手に入れたと同時に私への興味を失うわ。だからこのままでいいんです」

「……へえ、そうかい」

「私、あの人に興味を持っていてもらいたいの。あの人に見限られてしまうことが、とても恐ろしいのよ。だから彼から逃げ続けているの。卑怯でしょう?」

恐怖など少しも抱いていないような笑みを湛え、少女はさらりとそんなことを紡ぐ。
この少女は巧みな言葉遣いと仕草で、自分の本音を煙に巻くのがとても得意だ。
故にその、大袈裟すぎる言葉が少女の嘘だったのか、それとも本音だったのか、彼女の知り合いでしかないミクリには判別することができない。
だからこそ、その言葉に相槌を打つしかなかったのだ。そうか、キミはダイゴに見限られることが怖いのだねと、繰り返せばその言葉にも少しだけ真実味が増した気がした。

それにしても、とミクリはこの少女とあの友人を思い、静かに溜め息を吐いた。
もうとっくに二人の思いは同じところへと向かっているのに、少女の懸念が彼等の恋路の成就を妨げている。
しかしその懸念を「気にすることはない」と一蹴することはできなかった。そうするだけの情報をミクリはあの友人から得ていなかったからだ。
根拠のない励ましをする気は毛頭なかったし、そもそも彼女はそうした「成就しない」関係すら楽しんでいるように見えたからだ。
それが彼女の虚勢だったのか、ミクリには知る術などないけれど。

「不毛な恋だね」と思わず呟けば、「あら、貴方は喜んでくださると思っていました」と、いつもの笑い声と共に返ってくる。

「どうして?」

「だってミクリさん、美しいものがお好きなんでしょう?交わることをしない私達の想いはそれなりに美しいものだと思ったのですが、違いましたか?」

あっけらかんとそんなことを言い捨てた少女に、今度はミクリが声を上げて笑う番だった。
ああ、この少女は報われない自身の恋路に、あろうことかそうした美を見出そうとしているのだと、気付いた瞬間、ミクリの背中を冷たいものが伝った。
彼の笑みはそのぞっとする心地を誤魔化すためのものだった。
……キミはまだ16歳だというのに、少し大人になりすぎているよ。もう少し、愚直になってもいいんじゃないかな。ダイゴのように、とまでは言わないけれど。

「確かに片恋は美しいというけれど、友人の恋路にまでそうした美しさを求めたりはしないよ。美しくなくてもいいから、幸せであれと願ってしまうものさ」

「あら、ダイゴさんはもう十分に幸せだと思いますよ。だってこんなに真っ直ぐに自分のことを考えてくれるお友達がいるんですもの」

いいなあ、と呟いた彼女の言葉はおそらく本心だったのだろう。
そうした感嘆の溜め息に混ぜて吐き出される言葉くらいは、完全に信用しきってもいい気がしたのだ。

ミクリは一個人として、少女のことを高く評価していた。
ポケモントレーナーとして類稀なる才能を発揮していた彼女は、その大きすぎる力を、ホウエン地方や世界を救うために躊躇いなく振るった。
たった16歳にしてそれだけのことをやってのけた一人の少女を、ミクリは好ましく思っていた。しかし、それだけだった。
この少女に恋慕めいた感情を抱くには、ミクリと彼女との力の差はあまりにも開き過ぎていたのだ。
それにミクリ自身も、彼女の力や美しさを認めていたとはいえ、そこに抗えない程の魅力を見出すことはなかった。
……いや、正確には見出す前に、彼の友人から相談を持ち掛けられてしまったためにその機会を失った、と言った方が正しいのだけれど。

『ミクリ、知っているかい?人は誰かを好きになると愚かになるんだ。あまりにも幼稚で、傲慢で、自分が情けなくなってしまうくらいなんだよ。』

口当たりのいいカクテルをぐいっと飲み干して彼が零したその言葉を、ミクリは鮮明に覚えていた。
そんな珍しすぎる弱音を吐くダイゴの姿をミクリは楽しんでいた。しかし同時に、なんとしてでも彼の恋路を叶えなければと思ったのだ。
そのための協力なら惜しまないつもりでいた。だからこそ、ミクリはこの場所を訪れたのだ。

キミは信じられないかもしれないけれど、ダイゴが誰かを好きになったのは、これが初めてなんだよ。
彼はそうした、とても純情で愚直で幼稚な人間なんだ。
そんな彼が、こんなにも必死になって手に入れようとしているキミという存在を、手に入れたその瞬間に興味を失い、手放してしまうと本気で思っているのかい?

それら全ての言葉を飲み込んで、ミクリは微笑んだ。

「キミの気持ちはよく解った。要するにキミは確信が欲しいわけだ。
自分がダイゴの方へと振り向いても、彼に見限られないという確信を得たい。今はそれがないから逃げ続けている。違うかい?」

「ふふ、その通りだと言ったら、貴方は私に確信を下さるの?」

「いや、その確信をキミに差し出すのはダイゴの役目だ。……ところで、キミは赤色が好きだったね」

唐突な質問に少女は首を傾げたけれど、「ええ、好きです」と陽に溶けるような笑顔で返事を告げた。
その言葉に嘘がないと判断したミクリは、少女に別れを告げて大樹から遠ざかる。
さて、この情報は友人の背中を押すだけの力を持っているのだろうか。少なくとも、落胆されるようなことにはならない筈だ。

「まったく、キミ達には困ったものだよ」

そんな「困った」人達に関わろうと決めたのも、彼等の背中を押すために此処へやって来たのも、他でもないミクリ自身なのだから仕方ない。
さて、彼等の恋路は何処へ向かうのだろう。それを間近で見届けるのも悪くない気がした。

2015.8.22

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