紅い魚の履いた靴

※50万ヒット感謝企画、参考曲「岸を離れる日」

あまりにも清楚な桃色の、女の子特有のふわふわとした生地で出来たドレスを身に纏っていた。そのすぐ傍には、高いヒールのついた紅色の靴があった。
川の直ぐ近くに重ねて置かれたその靴は、少し強い風が吹くだけでバランスを崩し、左右とも川の方へと落ちてしまいそうだった。
そうして素足を晒した彼女は、二本の白いそれを、膝より少し下の辺りまで川の水に浸していた。
ちゃぷ、ちゃぷと、規則正しく泳ぐように動かしながら、目を閉じたまま、青年の知らない歌をあまりにも穏やかに歌っていた。

その姿で「彼女である」と判断するのは、この上なく難しいことであるように思われた。
思われたが、それだけだった。難しくとも、青年はその姿が、自分の焦がれ続けた少女の形をしていることに気付いている。
気付いているから、いつものように彼女に近付き、傍に屈んでから彼女の名前を呼ぶ。

トキちゃん」

青年の歩み寄る足音は、おそらく少女のヒレが立てる水音が掻き消してしまっていたのだろう。
目を閉じていたのだから、川に映る青年の姿を見つけることができる筈もなかったのだろう。
そうして突如として聞こえてきたその声に、少女はぱちりと目を見開き、しかし二本のヒレは「泳ぎを止めれば死んでしまう」かのように動かし続けながら、こちらを見た。
そして、青年は瞠目する。

「あら、ダイゴさん。ごきげんよう」

少女が、笑っていない。ただそれだけのことに青年の胸は大きく掻き乱された。酷く狼狽していたが、それを隠すように「こんにちは」と微笑んで挨拶を返した。
こちらの微笑みにはいつだって、それ以上の華やかさと陽気さをもってして返してくれる筈の彼女は、しかし彼のそうした微笑みに、困ったように眉を下げるだけだった。
彼女の表情や態度はそれこそ二十面相のようにコロコロとその形を変えたけれど、それでも、いつだって彼女は笑っていた。
ある時は至極楽しそうに、ある時はふわふわとした穏やかな、またある時は悪戯を思い付いた子供のような、あるいは皮肉めいた、そんな「無数の笑み」を持っていた。
けれど今の彼女の表情は、そうした無数の笑みの外に在った。そのことに、少女をよく知っていた筈の青年は驚き、困惑したのだ。

キミが笑っていないところを、初めて見た気がするよ。
そんな筈はない、彼女だって四六時中笑っている筈がない。けれどそう思わずにはいられなかった。それ程に今の彼女は「彼女」らしい表情をしていなかったのだ。
普通の女の子なら歓喜して然るべきな、美しいドレスやイヤリングを身に纏わせたこの格好は、しかしこの少女を笑顔にするだけの力を持ち合わせてはいなかったらしい。
そうした歓喜や幸福の情とは対極の位置に今の彼女が在ることを、この銀髪の青年は察し始めていた。しかしその原因に思い至ることは、まだ、できなかった。

けれどそうした青年の思案に反して、少女はクスクスと、少しばかりいつもの陽気な調子を取り戻したかのように肩を震わせて笑ってみせた。

「どうしたんだい?」

「よく、私だって解りましたね」

つい数分前の、彼女を見つけた瞬間の青年の心を読んだかのように、彼女は肩を竦めてそう答える。
ああ、この表情は、このような姿をした自分を見つけられたことによる驚きのそれだったのかと、
そう答えを出して納得しようとしたけれど、やはり何かが違うように思われてならなかった。それだけではないような気がしてならなかったのだ。

「今の私は、赤いバンダナも着けていないし、履き慣れたスニーカーもないし、いつもの赤い服だって着ていないのに」

「別にボクは、キミのいつも着ている服や持ち物、髪型でキミを判断している訳じゃないんだよ」

「違うわ、そうじゃないの。だって今、私が私であるための全てが、此処にはただの一つもないでしょう?」

青年は、どうにもこの少女の言わんとしていることが理解できなかった。
身に着けているものが変わったからといって、彼女を彼女だと見抜けない筈がない。
確かに女性のお洒落による変貌は目を見張るものがあるけれど、それでも全くの別人になってしまうなんて、普通は、起こり得ないことだ。
けれどそんな「あり得ない」ことは、この、二十の顔を持つ少女にとっては現実の、それもごく身近でありふれたことであるのかもしれないと、少しだけ思い、頭を抱える。

「確かに、珍しい格好をしているな、とは思ったよ」

「……あはは、そうでしょう?どうかしら、似合っている?」

「ああ、とても綺麗だよ。でも君らしくはないね」

その瞬間、少女は勢いよく立ち上がった。ばしゃ、と大きな音を立てて二本のヒレは陸に上がった。
そうしてこちらへと伸びてきた両腕は、しかしあらん限りの力で青年を押し倒したのだ。
わ、と声を上げて後ろの草むらに倒れ込む。なんてことをしてくれたんだという悪態は、しかし特に抵抗なく飲み込まれ、喉を滑らかにするりと伝って、消えた。

クスクスと笑いながら、少女は青年の隣にころんと寝転がる。ああ、そんな格好で地面に倒れては汚れてしまうよと、しかし彼は口にしなかった。
彼はただ口を閉ざして、頬を擦れる草の匂いや、直ぐ隣から聞こえる鈴のような笑い声、彼女のドレスの裾が不規則に作る不思議な波、それら全てを、拾い上げていたのだ。
たっぷりの長い時間を置いて、「ごめんね」と口にした謝罪の言葉に、少女は「何のことかしら?」と尋ねた。

「気を悪くしたかな、と思って。でも本当に綺麗なんだよ。とても似合っている。ただ、ボクの記憶に馴染む姿をしていない、というだけで」

「でも、貴方はこの姿でも私を私だと言ってくださるのね」

「だって、キミは此処にいるじゃないか」

笑い声だけは至極楽しそうにクスクスと震わせながら、「本当に?」と、頭上の空を睨むように目を細めてそう尋ね返す。
「本当に?」というそのたった一言、確認を乞うように笑いながら付け足されたたった一言は、しかし青年には酷く恐ろしいもののように感じられたのだ。
まるで、此処にいるのは君ではないような言い方をするのだね。
そう言おうとしたけれど、それも飲み込んだ。喋らない青年の代わりに、少女はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

「だって今、私が私であるための全ては、何も、此処にはない筈なのに」

目を細める少女の横顔は、「そんなことはあり得ない」と解っていたけれど、どうにも「泣き出しそうだ」と思えてしまったのだ。

「お見合いがあったのかい?」と尋ねれば「いいえ」と笑った。「それじゃあ、パーティに出席してきたのかな」と確認を取ったけれど、これにも首を振った。
「旅を辞めたくなったのかい?」と悪戯っぽく口にすれば、「そんな筈がないと知っている筈なのに、酷いわ」と拗ねたように、けれど楽しそうに言い返してきた。
彼は自らの頭で推測し得るあらゆることを尋ねたけれど、そのどれにも少女は首を振った。違うのだと、青年の質問が悉く空振りすることを楽しんでいるかのように、笑っていた。
降参の姿勢を見せるかのように沈黙した青年に、少女は、予め用意していたのだろうと思わせるような流暢さで、その言葉を告げる。

「私は何処に行ってしまったのか、探していたの。でも私が見つけるより先に、貴方に見つけられてしまったわ、ダイゴさん」

おかしなことを言う、と思った。その瞬間、酷く大人びたこの少女が、本当に、幼く脆い「少女」の姿をしているように見えたのだ。

君の二十面相は、君の確固たるアイデンティティではなかったのかい?
君はそうして他者を悉く煙に巻きながら、誰もが自分の本当の姿を知らないことを楽しんでいたのではないのかい?
君は「知られないこと」「見つけられないこと」こそに、安定と安心を見出していた子ではなかったのかい?
だから、こうしてドレス姿に化けた「お上品」な君をボクが見つけてしまったことに、ボクがそうした二十の顔の更に奥から君を見つけ出すことが叶ってしまったことに、
君は焦りこそすれ、そんな風に泣きそうになりながら、至極嬉しそうに笑ったりするようなことは、決してあってはならないのではなかったのかい?

それとも、君は、寂しくなってしまったのかい?

「……髪を切ってみようかしら。男の子みたいに、とても短くするの」

「それでも、ボクは君を見つけるだろうね」

「それじゃあ、足を切ってしまおうかしら」

「いいのかい?そんなことをすると、君はボクから逃げられなくなってしまうよ」

彼女の心が迷っていることに青年は気付いていた。何らかの要因で弱っている、疲れているのだと察していた。
けれど、だからといってこの場で取り得るイニシアティブを振りかざす気持ちなど更々なかった。
寧ろ彼女が自分にこの場の主導権を譲っている今だからこそ、彼はその、自らが優位に立ち得る権利を受け取る訳にはいかなかったのだ。
何故なら青年の目的は、この少女を傷付けるところになかったからである。彼女の弱さに付け込んで彼女を手に入れようなどとは到底、思えなかったからである。

彼の心はおそらく、その姿よりもずっと幼い形をしていたのだろう。ただ真摯で、必死だったのだろう。
その誠実な色を汲み取ったらしい少女は、睨みつけていた空へと徐に手を伸ばし、声を上げて笑い始める。いつもの、彼女らしい笑い声だった。

「……変なの。私が私でなくなってしまっても、貴方は私を探すのね。そんな私でも、傍に置いておきたいと思ってくださるのね」

「だってボクは、君の持っているものを好きになった訳でも、君の見せる姿の一つを好きになった訳でもないからね。それはどうでもいいことなんだよ、トキちゃん」

強い風が吹いた。
ぽちゃん、と何かが落ちる音がして、思わず身体を起こせば、川辺に置かれていた赤い靴がゆっくりと川を流れていくところだった。

「人を愛するってそういうことだと思ったのだけれど、違うのかな」

2016.3.6
すえさん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

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