※バレンタイン企画
「水は恋の味」の続きかもしれない
男はとある人物に呼び出されていた。
冬の冷たい風が男の肌を突き刺す。基本的に寒さを苦手とする彼は、多すぎる程の防寒具を着込んでいたのだが、それでも寒い。
時間前行動が習慣になっているとはいえ、今日ばかりは少し遅れてもよかったのではないだろうか。
そう思ったが、一回り以上も年下の少女を待たせる訳にはいかないと思い、こうして寒さに身を震わせながら、ミナモシティの灯台の下で待っているという訳だ。
「マツブサさん!」
弾けるような明るい声は、この冬空に何処までも似合わない。
だからこそ、それは心地良い異質さを持って男の鼓膜を震わせた。
男は振り返り、手を振りながら駆けてくる少女を視界に収め、僅かに微笑む。厚着をしすぎている男とは対照的に、少女は相変わらずの薄着だった。
「お待たせしてしまってごめんなさい。寒かったでしょう?」
「いや、構わんよ。それに君は時間通りだ。早めに着くのは私の性分だから、気にしなくてもいい」
マツブサはそう言って、少女の頭をそっと撫でた。
ふわりと微笑んだ彼女は灯台の裏へと回り込み、ベンチへと腰掛ける。西風が強く吹くこの場所で、東に面したこの場所は風を遮り、寒さをかなり和らげてくれた。
彼女は鞄から小さな箱を取り出した。ワインレッドのリボンがかけられた、灰色のシンプルな平たい箱だった。
この中身が何なのか、思い当たらない程に男は鈍感な訳でもなかった。しかし少女の口から確実な情報を得るまで、思い上がることはできないのもまた事実だった。
「はい、どうぞ」
「……私に?」
「嫌いじゃなければ、受け取ってください」
その言葉に思わず男は苦笑した。
「嫌いじゃなければ」という言葉が指しているものが、この場合、二通り考えられたからだ。
少女がその言葉に含ませたのは、勿論「チョコレートが嫌いじゃなければ」だろう。今日という日に少女が男を呼び出した、その理由を、男はきちんと把握していたからだ。
けれどその言葉だけなら「私のことが嫌いじゃなければ」とも取ることができるのだ。この場合、どのように返答するべきなのだろうか。
男は少しだけ悩んだが、少女の方もその言葉の持つ意味に気付いたらしい。あ、と小さく声をあげてから、慌てたように付け足す。
「いや、その、甘いものの話です!ほら、大人の男性って甘いものとか食べないのかな、と思って。だから好きじゃなければその、私がちゃんと責任を持って処分しますから。
あ、えっと、もし甘いものが好きでも、私のことが嫌いでしたら無理に受け取なくても、」
「勿論、頂こう」
男はそっと手を伸ばして、その小箱を受け取った。
当惑したように言葉を失う少女に「受け取ってはいけなかったかな?」と尋ねれば、我に返ったように首をふるふると振った。
「私は甘いものも、君のことも、嫌いではない。だから受け取った。……何か問題があったかな、トキちゃん」
その言葉に、少女の頬が赤く染まった。まるで男が自分を嫌いではなかったという事実を、喜んでいるかのような態度だった。
男は少しだけ当惑する。彼は去年のクリスマスに、他でもないこの少女と夕食を取ったのだ。しかもそれはマツブサからの申し出であった。
プレゼントの渡し合いこそしなかったが、クリスマスという特別な日に、女性を夕食に誘うというその意図を、この少女は解っていると思っていた。
けれど、どうやら違ったらしい。そしてきっと、その理由は男と同じようなものなのだろう。
「推測」をするのは容易い。けれどそれを「確信」に変えるには物証が少しだけ足りない。
男も少女も、今まで、決定的な言葉を伝えないままに過ごしてきたのだ。恋人のように振る舞いながら、二人の関係に名前はまだなかった。
バレンタインデーにわざわざ呼び出し、このような箱を渡す意味を、男は勿論、理解している。
だからといって、彼女が自分をどう思っているかということについては、まだ確信を抱くことができずにいたのだ。
しかし、男はそれでもいいと思っていた。だから男はそれ以上をまだ、望まない。
少女に「逃げ道」を残しながら、他の男が踏み入る隙を封じるように、彼女との時間を重ね続けている。
もしこの、名前のない関係が終わる時が来るとすれば、それはきっと、少女が自分を見限った時のことだ。
男の覚悟なら、もうとっくにできていたのだ。この不安定な関係は、少女の未来を案じるがために敷いた予防線に過ぎない。
「今、開けても?」
「どうぞ」
男はワインレッドのリボンに指をかけた。
クリスマスの時、赤ワインを「マツブサさんの色」と言って笑った少女の声を思い出す。
まさか、それでこの色のリボンを選んだのだろうか。男は気になったが、それを自分から尋ねてしまうのはどうにも憚られた。
箱の中には、丸いチョコレートが6つ入っていた。「ボンボンショコラ」という名のチョコレートらしい。
店頭で売っているかのような滑らかな光沢を持つそのチョコを一つ取り上げ、まじまじと見つめる。
黒いチョコレートの表面には、ホワイトチョコが細い線で大きく波打つようにかけられていた。
「よく出来ている。自分で作ったのか?」
「勿論です、義理ならまだしも、マツブサさんに市販のものを渡したりはしません」
その言葉に男の心臓は少しだけ跳ねる。あまりにも直球すぎる発言が、男の鼓膜を揺らし、男の心に当惑を与える。
それは沈黙という形でこの場に現れたのだが、しかしその沈黙を破ったのは、朗らかな少女の声だった。
「だから、もしそのチョコが美味しくなかったとしても、この世のものとは思えないくらいに酷い味だったとしても、責任を持って食べてくださいね、マツブサさん」
男は思わず笑った。「では、そうしよう」と頷いて、その小さなチョコを口に運ぶ。
「味見をしていないので、美味しいかどうかは分かりませんよ」と彼女は慌てて付け足した。その言葉に若干の違和感を覚える。
料理に味見は欠かせないものである筈だが、それを、しかも「義理ではない」チョコの味見を怠ったことがどうにも不自然な気がしたのだ。
しかしその疑問は、男がそのチョコレートを口の中で噛んだ瞬間に了解した。口の中に広がるアルコールの、痺れるような舌触りに男は驚く。
「……」
「ふふ、びっくりしましたか?ウイスキーボンボンなんですよ」
その小さなチョコの中には、ウイスキーが入っていたのだ。凝った作りになっているそのチョコレートボンボンに男は素直に感心する。
よく咀嚼し、口の中で溶かしてから丁寧に飲み込み、期待と不安で目を泳がせる少女に微笑む。
「先程も言ったが、よく出来ている。とても美味しいよ」
ぱっと花を咲かせるように笑った彼女は、この6粒のチョコレート以上のものを男に贈ったことになったのだと、果たして気付いているのだろうか。
よかった、よかったです。食べられない味になっていたらどうしようかと思いました。
安堵と歓喜の声音でそんなことを繰り返しながら、彼女は笑っている。この笑顔には引力がある。
男は2つ目のチョコを口に運び、ゆっくりと咀嚼しながらふと、思い立ったように3つ目のチョコを少女に差し出す。
「大人が飲酒を勧めるのもよくないが、これくらいなら大丈夫だろう。食べてみないかね?
もしも君の具合が悪くなったら、回復するまで一緒に此処に居よう」
少女はその目を見開いて沈黙したが、やがて笑って首を振り、断りの意を示した。
好奇心が旺盛な少女が、この誘いを断ったことがとても意外だった。しかしその理由は、次の少女の言葉で直ぐに氷解する。
「私、初めて飲むお酒はマツブサさんの色のワインって決めているんです」
「!」
「マツブサさん。私が大人になったら、とっても綺麗な赤いワインをご馳走してくださいね」
いつかの言葉に重ねたその懇願に、男は僅かに微笑んで頷いた。
ニットを少しだけ伸ばすようにして首元に風を送る。先程まで寒さに震えていたのが嘘のように、火照りすら覚え始めていた。
2015.2.14