カカオに酩酊

※50万ヒット感謝企画、題材「バレンタイン」

少し、ほんの少し考えれば解ることだったのに、そうした傷付くだけの心構えをせずに足を踏み出してしまったのだから、全く愚かだと言わざるを得ないのだろう。
研究所の3階には、私が提げている紙袋と同じ香りが、これ以上ない程に強く漂っていた。
甘く、ほろ苦いカカオの香りだ。一度溶かしてその芳香を十二分に醸し出すことに成功した、あまりにも解りやすい恋の香りだ。そう判断することなど容易にできた。
私の想いなど、その多すぎるチョコレートの山に埋もれるだけの代物なのだと、その無数にある恋心から彼が私だけを選ぶ道理などありはしないのだと、
残酷な現実を突きつけられたようで、私はその場から動くことができなかった。

「あれ、シェリーじゃないか。どうしたんだい?」

けれど私が動くことをしなくとも、エレベータの到着音は本棚を挟んだ向こう側の彼に聞こえていたらしく、
カーペットを踏む柔らかな靴音と共に姿を現した博士は、いつもの笑顔で私の名前を呼び、歩幅を少しだけ大きくして駆け寄って来てくれた。

「こ、こんにちは」

「こんにちは。ごめんね、散らかっていて。片付けが追い付かなかったものだから」

そう告げた彼の背後に積み上げられた、赤やピンクの包みに小箱、紙袋の類は、あまりにも鮮やかに私の目を穿っていた。
私の目を見て話しかけてくれる彼の顔を、私が見ることなどできる筈もなかった。
私は彼の向こうにある、彼への想いが詰まった何もかもを見ていたのだから。見て、そして絶望していたのだから。

「今日はどうしたんだい?」

「あ、えっと……」

「そうだ!もし時間があるなら休憩に付き合ってくれないかな」

ね、と促すように首を傾げて微笑む彼に頷きながら、それでも私は彼の顔を見ることができない。
好きであった、大好きであった筈のこの人に、私はどうしようもなく理不尽な不満を抱き始めていた。

けれど彼はそうした私の心を読まない。読んでくれる筈がない。私は伝えようとしていないのだから、伝わる筈がない。
それでよかった筈なのに、気付いてほしいと願ってしまう。馬鹿げた思考が私の頭を埋め尽くし、悉く私を愚かにしていく。

彼は助手のデクシオさんに「誰か来たら取り込み中だと言っておいてね」と告げて、私をソファに座らせた。
甘い匂いの充満するこの空間で、私は息を止めたくなった。気持ちが悪くなった。泣き出してしまいたかった。
けれどそれら全てが許されざる行為であると、解っていたから私はぎこちない笑顔で、彼の差し出すココアを受け取った。

「君が来てくれて助かったよ。今日は朝から人が耐えなくてね、疲れていたんだ」

その言葉で、彼に、あの可愛い紙袋や小箱に込められた想いを受け取る意思が全くないのだということが解った。解ってしまった。
私はこれ以上ない程に安心し、そしてこれ以上ない程に絶望していた。
私のチョコレートなど彼にとってはそうした「心労」を重ねさせる一つの要因でしかないのだと解ってしまったからだ。

彼は私を嫌っていようとも疎んでいようとも、「ボクのために作ってくれてありがとう」と、優しい笑顔で受け取ってくれるのだろう。
そうして私の贈り物は、他の女の子達のプレゼントと同様に彼を「疲れさせて」いくのだろう。
彼に拒まれるのは私だけではないのだという安堵と、私も同じように拒まれるのだという絶望。此処に足を踏み入れたことを後悔させるに足る感情など、この二つで十分だった。

「可愛い紙袋だね。どうしたの?」

けれど彼は私の愚かな、彼への想いを形にした甘い包みを看過しない。優しい声音で為されたその指摘は、私にぐさりととどめを刺した。
どうしてそんなことを言うのだろう、と思った。
今日、あんな風に研究室の一角に山積みとなる程のチョコレートを受け取って来たこの人なら、
私が今日というこの日に持ってきたそれが、今までと全く同じものであるのだと、気付かない筈がないだろうに。
意地悪な人だと思った。私は私が大好きだったこの人を憎む準備を整え始めていた。

私は黙って小さな紙袋を、テーブルの向こうで微笑む彼に押し付けた。

この人がもっと最低な人であればいいのにと思う。この人が皆に嫌われ、嗤われ、疎まれるような、どうしようもない人であればよかったのにと思ってしまう。
そうであれば、こんな風にみっともない自分を曝け出す必要などなかった。多くの綺麗な女の子達に醜く嫉妬する必要だってきっとなかった。
彼の僅かに示された「素敵なところ」に気が付くのが、私だけであればいいと願ってしまう。私だけであってほしい。私だけがいい。
けれどそのような都合のいいことが、起こる筈もない。

「……本当に、解らないんですか?」

やっとのことでそう告げた私の、右手に抱えていたココア入りのマグカップがぽちゃん、と不自然な音を立てた。
それはきっと、私がみっともなく零した感情の欠片が甘い香りに溶ける音だ。不格好な涙がチョコレート色の波紋を立てる音だったのだ。
解っていたから私は慌ててマグカップを置き、乱暴に目元を拭った。
プラターヌ博士は私の先程の言葉にではなく、その動作にこそ驚いたようで、慌てて立ち上がり、身を乗り出して私の手を掴んだ。

「ああ、そんな風に目を擦っちゃいけないよ」

これで拭いて、と差し出されたハンカチにも、チョコレートの甘い香りが付いていて、私は思わずそれを拒み、掌でパチンと叩き落とした。
けれど彼はそうした、悉く生意気な態度を取る私に機嫌を損ねることはしなかった。
ただ驚いたように、それでいて困惑したように、ごめんね、どうしたの、と繰り返すだけだったのだ。
私はいよいよ言葉を発することができなくなる程に本格的に泣き出して、その嗚咽でもって彼を、本当は何も悪くなどない筈の彼を叱責した。

貴方は狡い人だ。私はそんな貴方を好きになってしまった。貴方を好きになるとはこういうことなのだと、気付かないまま、恋に溺れた私が悪いのだ。私がいけなかったのだ。

「……ねえシェリー、君の心を読んであげたいけれど、ボクはそういう器用なことができないんだ。だから聞かせてくれないかな。
ボクが君を傷付けるような言葉を言ったのであれば謝らなくちゃいけないし、そうでなくても君が泣くことのないようにしてあげたいから」

そう言って、彼は再びハンカチを私の目元に押し当てる。腫れ物に触っているかのように、その、私よりも少しばかり大きな手はぎこちなく、私の頬に触れては離れていく。
その手を払い除けることはもうできなかった。そんな風に彼へのささやかな抵抗を見せる気力などとうに失われていた。
そう、この不毛な恋は私を疲れさせ過ぎていた。嘘を吐く気力さえなかったのだろう。だから、こんなことを言ってしまったのだろう。

「貴方を好きにならなきゃよかった」

吐き出してから、しまったと思った。
こんなみっともない、告白めいた吐露をするつもりなど微塵もなかったのに。ただバレンタインのイベントに便乗して、ささやかな想いを示すことができればそれでよかったのに。
そうした鬱屈した後悔をぐるぐると巡らせていた私は、目の前で彼の顔色が激変したことに気が付かなかった。
もう一度乱暴に目元を拭って、帰りますと告げてから立ち上がろうとしてようやく、私は彼の顔を見るに至ったのだ。

「……」

「ちょっと待って、シェリー

手で顔の大半を隠しているけれど、その隙間から見える頬や、隠しきれていない耳の色は、彼が色白であることを忘れさせる程に赤く染まっていた。
私は自分が先程まで泣いていたことも忘れて、呆気に取られたようにその、真っ赤な彼を見ていた。

「……ああ、そっか。そうなんだね。やっぱりボクが君を泣かせてしまっていたんだね」

まるで私の泣き顔を引き取ったかのように、泣き出しそうに眉を歪めてごめんね、ごめんねと繰り返している。
私は動くことができなかった。彼の顔色が意味するところに、自分のことで精一杯だった私は気付くことが遅れてしまっていたからだ。
この人はどうしてこんなにも必死に私を引き止めているのだろう。どうして顔を赤くしているのだろうと、鈍い頭でそんな、そんなあまりにも愚かなことを考えていたのだ。

シェリー、お願いだ、ボクを嫌いにならないで」

この、あまりにもみっともない言葉たちの応酬が、私と彼にとっての告白だったのだと、
この甘い香りが充満する空間において私達の想いは、限りなく情けない形で交わるに至ったのだと、私が気付くのはもう少し、後の話だ。

2016.3.27
ひかるさん、素敵な題材のご提供、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

© 2024 雨袱紗