※バレンタイン企画
逆に聞こう。何処からそれを調達してきたというのか。
Nは茶色いラグビーボールのようなものを数個、抱えていた。
アーモンドを大きくしたようなそれを、現物で見たのは初めてのことで、私は思わず「それ、何?」と尋ねてしまう。
瞬間、「信じられない!」と非難するかのように驚きを見せたNに、信じられないのはそちらの方だ、と反論したくなってしまった。
「トウコ、キミはバレンタインデーを知らないのかい?」
「知っているわよ。明日でしょう?」
こいつ、私を馬鹿にしているのか。
箱入りのNならまだしも、私にはそれなりの常識がある。バレンタインが何なのかも勿論知っているし、全世界の女の子が浮き立つその日が明日に迫っていることも知っている。
しかしその事実と、目の前でその怪しげな物体を抱えているNとの整合性がつかずに私は首を捻る。
しかしそれも、次のNの一言で解決した。
「キミのためにチョコの原料を持ってきたというのに、その言い方はないんじゃないかな」
チョコの、原料。
私はNの抱えているその物体をまじまじと見つめた。
「これ、カカオなの?」
「そうだよ。チョコはカカオから出来るんだろう?この間、黒い箱の中の人間がそう言っていたんだ」
……色々と突っ込みたいところはあるが、一つずつ片付けていこう。
先ず、Nの言う「黒い箱の中の人間」とは、テレビのことだ。おそらく昨日の夕食で流れていたバレンタイン特集の内容を指しているのだろう。
イッシュを騒がせたあの事件から数か月、再会したNは驚く程に痩せ細っていて、見かねた私が自宅に彼を引き込んだのだ。
生活力のない彼が、一人で生きていける筈もない。私は慈悲深いわけではなかったが、流石に知人が野垂れ死にする過程を見過ごせるほど冷淡でもなかった。
そして、私とNとの奇妙な同居生活は、今もこうして続いている。
Nの常識の無さにはいつも驚かされているのだが、今回のこれも例に漏れず、彼の極度の世間知らずが引き起こしたものであったらしい。
「つまり、Nは私に、このカカオからチョコレートを作れと言っているのね」
「だって、それがバレンタインデーというものじゃないのかい?」
Nの無垢な表情は危険だ。
その曇りのない目で真っ直ぐに尋ねられると、間違っているのはこちらの方なのではないかと一瞬でも疑ってしまいそうになる。
そんな筈はないのに。常識を知らない、世間を知らないNが、私よりもまっとうな答えを持ち合わせていたことなんて、ただも一度もなかったのに。
そこまで考えて私は、その物体を目にした瞬間からずっと気になっていたことを思いきって尋ねてみることにした。
まさか万引きしてきた、という訳ではあるまい。
一度、市場の野菜を、会計を済ませずにNがそのまま持ってきてしまった時には血の気が引いた。万引きという自覚がないだけにその行動はとても恐ろしいものがあった。
あれ以来、勝手に店先のものを持ってくるなと言い聞かせてからは、そんな騒動もなくなったと思っていたのに。
「N、このカカオを何処で調達してきたの?」
「イッシュの外れにカカオマス、という粉を作る工場があるらしいんだ。そこから譲ってもらったよ」
……そういえば、そんな工場が出来たことを、つい先日のテレビが紹介していたような気がする。
私は取り敢えず、Nが無自覚の万引きをやらかしていないことに安堵し、それから少しだけ楽しくなって、Nの手を引いた。
「直ぐに案内して」
「え?」
「これを返しに行くわよ。ついでに、このカカオからどうやってチョコレートが作られているのか見せてもらうの。楽しそうでしょう?」
*
工場の職員は、私が謝罪と共に返したカカオを笑顔で受け取り、気前よく私達を工場の中へと案内してくれた。
どうやら、私達のような見学者のための通路、工場のいたるところに用意されているらしい。
「今は幼稚園の子供達が見学しているから、一緒にご見学ください」と背中を押され、私達はガラス張りの通路から、眼下に見える機械の数々を眺めた。
「すごーい!」「機械がいっぱい!」という園児の歓声があちこちで上がる。
そんな4歳か5歳の子供に混じって、180cmの高身長であるNが一緒に通路の下に広がる機械を見ている様子はとてもおかしい。
私は思わず笑ってしまったが、Nは機械に夢中で気付いていないようだった。
見学者用の通路には、カカオからチョコレートが作られる過程を描いたパネルが用意されていた。
カカオ豆を焙炒し、豆を砕いて皮などを取り除いた後、更に細かく砕くことによってカカオマスが作られるらしい。
そのカカオマスにミルクや砂糖、ココアバターなどを混ぜてよく練り上げ、温度を調節して滑らかになったところで型へと流し込む。
冷凍コンベアに乗せて乾かし、包装したら板チョコの出来上がり。
私も大体の過程は知っていたが、こうして実際の機械を眼下に据えるとその感動もひとしおである。
Nを見上げると、彼はあまりの衝撃に言葉を失い、立ち尽くしていた。園児達が「お兄ちゃん、見えない!」と、彼の背中をつついている。
私は彼等に「ごめんね」と謝罪をしながらNをぐいと引っ張り、園児に景観を譲った。
「……トウコ」
「何?」
「チョコレートは素晴らしいね!」
目を輝かせてそんなことをいうNがおかしくて、しかしその曇りのない目が少しだけ羨ましくて、私は笑った。
そうね、と相槌を打ちながら、私は彼の手を引き通路を抜ける。
私が彼のような目をすることは、きっともう、ないのだろう。そんな目をしていた時代を、私はとうの昔にやり過ごしてしまっていたからだ。
それなのにこの男は、私よりも年上でありながら、その瞳にキラキラとした輝きを宿して、私に笑いかけている。
それがどうしようもなくおかしかった。どうしようもなく嬉しかった。
工場を出ようとすると、職員に呼び止められ、簡単なアンケートを受けさせられた。
「何を書けばいいんだい?」と尋ねるNに、「感じたことをそのまま書けばいいわ」と伝えれば、彼はそのアンケート用紙に大きく「チョコレートは素晴らしい」と書いていた。
その愚直さに益々おかしくなって私は笑った。彼との時間は飽きる気がしない。
きっとこれからもこんな日々は続くだろうと確信できたし、そのことにうんざりしたりはしない。
つまりはそうした距離に私達はいたのだろう。
アンケートに答えてくれたお礼として、板チョコを1枚ずつ渡してくれた。
工場を出た私は、Nの分の板チョコをさっと取り上げて自分の鞄に仕舞う。「何をするんだ!ボクの分じゃないか!」と騒ぐNをなだめながら私はまた笑った。
「N、明日は何の日?」
「え、……バレンタインデーじゃないのかい?」
「そうよ。だから私がこの板チョコを、もっと美味しいものにしてあげる」
だから、明日まで待っていなさい。
そう言うと、Nは少しだけ考え込む素振りをした後で、とんでもないことを私に尋ねたのだ。
「トウコはその「もっと美味しいもの」を誰にあげるんだい?」
私はとうとう大声で笑い出してしまった。ああおかしい、私が、Nが、滑稽で堪らない。
私は何をやっているんだろう、というやるせない気持ちと、この人が愛しい、という温かい気持ちがぐるぐると渦を巻く。
その澄んだ目に指を突き付け、私は笑いながら口を開いた。
「あんた以外に誰がいるのよ」
彼はその目を見開いて沈黙し、その直後、ふわりと笑ってみせた。
「そっか」と少しだけ上擦った声で頷く彼の頭を軽く叩いてやりたかったが、私の背では届きそうになかったため、背中に流れたその緑の長髪をくいっと引っ張る。
折角だから、明日、ガトーショコラを作る過程を、こいつにも見てもらおう。きっと「ガトーショコラは素晴らしいね!」と言ってくれるに違いないから。
2015.2.14