指先の糖度

※カカオ工場の続き

カカオからチョコレートが作られているという事実を知ったこの王様は、あろうことかその原料であるカカオの実を抱えて、私の眼前に突き付けた。
これでチョコレートを作るのだろう?と首を捻って紡いだ彼を、イッシュにあるチョコレート工場に連れていき、カカオから板チョコができるまでの工程を見せた。
翌日、工場から貰った2枚の板チョコから作ったガトーショコラを、とても嬉しそうに食べてくれた。
「ガトーショコラは素晴らしいね!」と、私の想像に一字も違わぬ音を紡いで笑った彼は、それ以来、チョコレートの使われているお菓子を好んで食べるようになった。

けれど流石は王様といったところか、常識は知らないけれど育ちは桁違いに良い彼は、そうした嗜好品を、文字通り「嗜むように」毎日、少しずつ食べていった。
例えばそれは、銀紙に包まれた小さなチョコレートを3つ程だったり、チョコレートがコーティングされたビスケットを5枚程だったりするのだ。
小さなお菓子を、必ず素数個だけ手に取って、食べる。そんな彼の向かいに座り、私も適当にそのお菓子を摘まむ。

『チョコレートを食べると、この辺が温かくなるんだ。これはそういう効能のある食品なのかい?』

唐突にそんなことを言って、長い指で自分の心臓が宿る部分を指し、首をこてんと捻ってみせたことがある。
果たしてそのような効能があるとするならば、それは「エンドルフィン」なる脳内で分泌される物質に由来する感情なのであろう。
そんな風に小難しいことを説くことは簡単にできた。けれど私はそうしなかった。代わりに大人が子供に吐くような、馬鹿げた夢と希望の言葉を紡いでみせたのだ。

『そうよ。だから悲しい時にこれを食べると、ちょっとだけ元気になれるわ。』

そんな言葉を平気な顔で口にして、私は笑った。
願わくば、こんな甘味に頼らなければならない程の悲しみが、もう十分すぎる程に悲しみ続けたであろう彼を襲うことの無いようにと祈りながら。

あれから数か月が経った。Nのチョコレート嗜好はまだ続いている。
今週はどんなチョコレート菓子を買ってくるのだろうと、壁に掛けられた時計に目を移そうとしたその瞬間に、玄関のドアが開く音がした。
大きな手に提げた小さなビニール袋、それに手を差し入れて、Nは一つの小箱を取り出して私に見せてくれる。

「ああ、そういえばそんなお菓子もあったな」と思わず苦笑してしまった。
プリッツェルの周りにチョコレートを薄くコーティングした、棒状のお菓子。私にも馴染みの深いその嗜好品を、しかしあろうことかこいつが見つけてきたことに少しだけ驚く。

つい数か月前まで、一人で買い物もできなかったのにね。
そんな風に思いながら、しかし私はもう、Nがそのお菓子の会計を済ませることなくそのまま持ち出してきたのではないか、などとは疑わない。
彼は既に、人としての常識を身に付けていた。ぎこちなくではあるが、人に溶け込むことを覚え始めていた。だから何も不安に思うことなどなかったのだ。

けれど、世に何百と出されているチョコレート菓子の中で、何故この青年がこのお菓子を選んだのだろう。その理由を私は計りあぐねていた。
まさかこの小箱の縦と横の長さに黄金率を見つけたとかいうとんでもない理由じゃないでしょうね。
そう思ったが、しかしNの口から出てきたのは至極まともな、それでいてどこまでも彼らしい理由だった。

「プリッツェルの全てにチョコレートが付いていると、手が汚れてしまうじゃないか」

「……まあ、そうね」

「このお菓子はボク等がチョコレートで手を汚すことをよしとしていないんだ。素晴らしいことだよ。これを「気遣い」というのだろう?」

私の教え込んだ「気遣い」という単語とその意味をアウトプットして、少しだけ得意気に微笑んだその青年に、
私は彼よりもずっと得意気な、それでいて少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて、おそらくNが知らないであろうことを、いつものように教えてみる。

「そもそも、何処を持っても指にチョコレートが付かないように、筒状にした生地の中にチョコレートを流し込んでいるお菓子もあるのよ」

「なんだって!?」

新大陸を発見した瞬間のような驚きを端正な顔に貼り付けて、彼はその場に硬直した。色素の薄い目が零れ落ちてしまうのではないかと思う程に大きく見開かれている。
こいつの世界は、たかがチョコレート菓子を介してまたしても大きく広がっていく。それがどうにも楽しい。どうにも、嬉しくて堪らない。

「またそのお菓子も買ってきてあげる。ほら、そのチョコレート菓子、食べるために買って来たんでしょう?開けないの?」

そう促せば、固まっていたNが「ああ、そうだね」と我に返ったように大きく頷いて、小箱にそっと指を掛けた。
前に小箱に入ったお菓子を買った時は、その箱の開け方が解らずに手で思い切り破き壊していたが、今日はそんなこともなく、ちゃんと開けられたようである。
中に入っている袋の開け方だって、もうこいつは覚えている。だから私は手を出さない。
未知なるお菓子の封を開ける瞬間の高揚を、私は想像することしかできないけれど、それでもそれがNにとって神聖、かつ高尚な行為であることくらいは察することができる。
だからこいつが困り果てるまでは、手を出さない。私はただ、彼が道に迷った時にだけそっとその背を押すだけ。きっと、いつだってそうなのだろう。

そうして、その隣に私がいればいいと思う。私の進む方角と、Nの進む方角が同じであればいいと思う。きっと、それだけだったのだろう。

長く細い指で、その一本を摘まみ、袋から取り出したNは、しかしあろうことかその一本を私の眼前に差し出してみせる。
はて、どういうことだろう。私の口はそのまま疑問の言葉を紡いだ。

「どうしたのよ、あんたが欲しくて買ってきたんでしょう?」

「気遣いをしてくれるこのお菓子に肖って、ボクも気遣いをしてみようと思ったんだ」

これで合っているかい?と至極真面目に尋ねるものだから、いよいよおかしくなって声を上げて笑ってしまった。
困ったように眉を下げるNに首を振る。違う、違うわ、そういうことじゃないの。あんたの気遣いが間違っているから笑ったのでは決してないのよ。

「ありがとう。それじゃあ貰うわ、いただきます」

もう随分と前にNに教えた食事の挨拶を口にして、手すら伸ばすのが億劫だったのでそのまま差し出されたチョコの部分をぱくりと加えた。
「うん、美味しいわよ」と紡いで、けれどやはりおかしくて唇が弧を描く。
「口に食べ物を入れたまま喋ってはいけないよ」と珍しくNに指摘され、そうだったわね、と益々笑った。

私はチョコレート菓子が好きだし、ダイエットなんていう代物もしていない。だからNのその気遣いに、何の抵抗もなく甘んじることができる。
けれど、仮にチョコレートが嫌いだったとしても、もしくはダイエット中だったとしても、それでも私はこいつの気遣いを嬉しいと思うだろう。彼に、甘んじてしまうのだろう。
「ボクが好きなものだからきっとキミも好きである筈だ」という、酷く傲慢な確信の下に為された、その初々しくてあどけない「気遣い」は、しかし私をほの甘い気持ちにさせた。
たった今、口にくわえていたところから溶けて、舌をくすぐっているこのチョコレートの甘さより、ずっと、どうしようもなく甘かった。甘すぎたのだ。

私もその袋から一本を取り出して、Nの眼前に持っていけば、彼は少しだけ照れたように笑い、先程の私と同じようにぱくりと口にくわえてみせた。
暫くその一本を堪能していた彼は、ゆっくりと下の上でチョコレートを溶かし、プリッツェルをぽりぽりと噛んで飲み込んだ後で、満足したように頷いた。

「悲しくはないけれど、それでも、甘くてまろやかで美味しいね」

「そりゃあ、悲しい時と嬉しい時で味覚まで変わってしまう訳じゃないもの」

そうして今度は自ら、袋の中の一本を引き抜いて口に運んだNは、しかし小さく首を捻って沈黙してしまった。
ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、その袋の口をこちらへと向ける。どうしたのよと尋ねれば、彼は困ったように眉を下げた。

「どうやらボクの味覚はおかしいらしい」

「……急にどうしたのよ」

「だって味が違うんだ。キミがこちらに向けてくれたものを食べる方が、ずっと美味しいんだよ」

その言葉に気が動転した私は、あろうことかNの差し出した袋の中央を強く握り締め、中のチョコレート菓子の大半をぽっきり折ってしまった。
なんてことをするんだい、と憤慨したNに、「怒りたいのはこっちの方よ」と喉まで出掛かっていたその言葉を、舌に残っていたほの甘さと一緒に飲み込んだ。

2015.11.11
ポッキーの日

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