ジャスミンの失声

※ED後

アローラ地方のニャースの毛並みは「ベルベット」にしばしば例えられるらしい。
彼等の毛はとても柔らかい。すばしっこいその身体を抱きかかえることに成功したとしても、すぐにつるりと取り落としてしまう程の滑らかさだった。
だからきっと、その「ベルベット」だって、とても滑らかで上品な肌触りをしているのだろうと思う。彼等のように、キラキラした魅力的な存在なのだろうと思う。

もっとも、彼等の毛並みをベルベットに例えられても、私にはそのベルベットが何かを知らないのだから、「そうなんですね」と納得したように頷いて微笑むしかない。
そんなことを知らずとも、アローラ地方のニャースはふわふわで心地いいのだから、私のそうした無知を悲観する必要は、あまりない。

「ねえちゃん、あんた、ベルベットが何か、本当は解ってねえんだろう?」

けれどこのおじさんにそう指摘されてしまうと、にわかに私の無知が恥ずかしいことのように思われて、顔が少しばかり火照った。
彼はそんな私の表情の変化を暫く見ていたけれど、やがて溜め息すら吐かずに目を伏せた。彼の膝の上に一匹のニャースが飛び乗り、背中を丸めて、眠り始めた。
いいなあ、と思う。私の膝の上にニャースは乗ってくれない。彼等は私が手を伸べて抱き上げても、その滑らかな毛並みを持つ身体を器用にくるりとよじらせて、逃げていく。
捕まえられるものなら捕まえてみろとでも言うような、からかいの目が私を見上げる。私はこんなところでも選ばれない。欲しいものが手に入ったことは、あまりない。

彼は私の、7割の羨望と3割の嫉妬が込められた眼差しにきっと気が付いている。
それなのに彼は私を見ない。まるで視線をこちらへと移すことが億劫であるかのように、ただ、四肢を固めて肩を緩めて沈黙している。顔だってぴくりとも動かない。
あまりにも静かだから、私はたまに心配になる。ちゃんと息をしているのかしらと不安になる。

この人は人間だ。息をしなければ、身体を動かし続けなければ死んでしまう。そんなこと、馬鹿な私にだってよくよく解っている。
けれど彼はその、当然の摂理に抗っているように見えた。無気力な抵抗はゆるやかに時の流れを拒んでいて、音のない息は空気を混ぜることすら躊躇っていた。
思わず手を伸べてしまいたくなるのだ。私も混ぜて、と言いたくなるのだ。
もっとも、手を伸べたところで、おじさんの何にも届きはしないのだと、解っているけれど。
静かに時を拒む彼は、その流れの中にいる私を悉く糾弾しているように思われるから、……だから、私は彼に踏み入ることがあまり許されていないのだろうけれど。

眠そうに伏せられたその赤い目に、どのような感情が宿っているのか私にはよく、解らない。
彼はいつだって、呆れているようにも、憤っているようにも、からかっているようにも見える。彼のことなど何も解らないし、伝えようとしてくれない。

「ベルベットってのは、布の種類だ。お貴族様が着るようなドレスなんかに使われる生地で、それこそこいつらみたいに柔らかい。それに光沢もある」

そんな彼がふと、思い付いたように、まるでニャースの気紛れのようにベルベットの説明をしてくれた。
当然ながら、私にとってそれは新しい知識であったからわくわくしたし、それ以上におじさんの方から口を開いてくれたことがこの上なく嬉しかったから、
私がそうした、紅葉と歓喜の混ざった声音ですぐさま口を開いたのも無理のないことだったのだろう。

「ドレスに使われる生地なんですね!私もいつか着てみたいなあ」

「そうさな、「いつか」くらいにしておいた方がいいかもしれねえ。今のねえちゃんにはまだ似合わねえだろうからなあ」

そんなことないですよ、と拗ねたように口にする。本当に拗ねている訳ではない。本当はそうした言葉さえも、嬉しい。貴方にからかわれていることが嬉しくて仕方ない。
けれどそこまでの歓喜を露わにしてしまえば、いよいよこの人は私を、その静かに凪いだ世界から排斥してしまうように思われたから、
このおじさんの傍に居たい私にとって、それは何よりの絶望であったから、私はなるべくおかしくない行動を選ぶ。
おかしいことをするのも、おかしくないことをするのも、いつだって皆を大好きになるためだ。皆の物語に入り込むためだ。いつだってそうだったのだ。

そんな私の拙い強情さに、このおじさんが気付いていない筈がない。
けれど彼はそれを許している。彼が私の生き方を肯定してくれたことなど一度もないけれど、否定したことだって一度もないのだ。
だから、構わないのだと思うことにした。私はこの凪ぎすぎた時間を、排斥されない程度の自由をもって楽しんでいればいいのだと思えたのだ。

「……ニャースに逃げられているようじゃ、まだお子様ってことだな」

彼はいつだって、呆れているようにも、憤っているようにも、苛立っているようにも、悲しんでいるようにも見える。彼のことなど何も解らないし、伝えようとしてくれない。
だから私はおじさんの心を自分の都合のいいように勝手に解釈する。
彼のその言葉は私をからかうためのものであり、そうして照れたように笑う私を見て、彼はこの上なく楽しんでいるのだと、そんな風に思うことにする。

彼からの情報は何も得られない。彼は何も伝えようとしない。だからこの場では、私のそうした都合のいい判断こそが真実だ。
そうしたこの上ない傲慢を、この人は黙って見過ごしている。見過ごしているから私はその傲慢をやめられず、この、寂れた警察署を訪れ続けている。
此処には沢山のニャースがいる。彼等と追いかけっこをするのはとても楽しい。おじさんは私の訪問を許してくれる。私の来訪を歓迎してくれている、……と、思うことにしている。
そうした、悉く甘えすぎた時間だったのだ。そうした生温い、ほの甘い沈黙の時間が流れていたのだ。
寂れた町の寂れた警察署は、しかし私にとっては、大好きなニャースの鳴き声と、大好きな彼の静かな優しさに包まれることの叶う、この上なく幸福な場所だったのだ。

「おじさんはニャースに懐かれているんですね。私ももっと皆と仲良くなりたいなあ」

ニャースを膝の上に乗せた彼に純な羨望の視線を向ければ、彼は伏せていた顔を上げて私の方を見て、にやり、とたまにしか見せない歪な笑顔を見せた。
私はその笑顔が好きだった。上手く言えないけれど、とても彼らしい、彼にしかできない表情だと思うからだ。

「……だったらあまりこいつらに構わないことだ。手を伸ばしたからって、欲しいものは大人しく手の中に収まってくれる訳じゃねえのよ」

「そうなんですか?欲しいものは手を伸ばさなきゃ、自分から動かなきゃ、手に入らないものだと思っていました」

「そうさな、そういうものもある。だがおじさんの欲しいものは、おじさんが動かずとも此処にいるだけでやって来てくれる、幸いなことにな」

成る程、確かにこのおじさんは、ただソファに身体を沈めているだけでニャースを自らの膝の上に乗せることに成功している。
これくらい、がいいのかもしれない。がむしゃらに手を伸べたところで、手に入りようのないものというのも確かにあるのかもしれない。
おじさんの言葉が真実かどうか、……それは、私が彼と同じことをすればきっと解る筈だ。

「隣に座ってもいいですか?私も、私の欲しいものを待ってみたい!」

すると何故か彼は声を上げて笑い始めた。あまりにも唐突に掻き乱された空気に私は驚き、狼狽えた。
何かおかしなことを言ったかしら、と少しばかり不安にさえなっていると、彼は直ぐにその笑いを止めて、右手を広げてソファの隣を示した。
いいのかな、と躊躇いながら、くたびれたソファにゆっくりと身体を沈める。ニャースが来てくれるといいなあ、と思いながらゆっくりと呼吸をする。

「ほらな、欲しいものは向こうからやって来ることもあるんだよ」

彼の言葉のすぐ後に、一匹のニャースが私の方へと歩み寄ってきた。彼は予言もできるのだと、私は新たに得ることの叶った彼の情報が嬉しくて、笑う。
ニャースが私の膝を選んでくれたことが嬉しくて、また笑う。

「撫でてみてもいいかなあ。また、逃げられちゃうかなあ」

「さあな」

けれど彼は次の予言まではしてくれなかったので、私はもう少しだけ待つことにした。逃げないで、逃げないでと祈りながら、私は膝の上のニャースをじっと見ていた。
彼等の体温は私のそれよりも少しばかり高くて、触れた足がぽかぽかと温かくなる気配がした。
ニャースは暫く私の膝の上をくるくると回っていたけれど、やがて落ち着ける体勢を見つけたのか、身体をそっと丸めて、目を閉じた。
堪能したいと思っていた「ベルベット」が目の前にやってきた。どうしようもなく嬉しくて、叫びだしたくなったけれど、もう少しだけ待った。

すぐ隣の彼が生み出す「静まり返った空気」を掻き回さぬように、彼の「静止を貫き通しているように見える世界」を動かさぬように、そっと、そっと手を伸べた。
ニャースはそっと目を開けて私を見上げたけれど、いつものように身体をよじって逃げ出すことはしなかった。
ふわっと心臓を撫でた風は、そよ風のように温かくて、心地よかった。

ぽん、と頭の上に手が置かれたので、私は思わずニャースから視線を離して隣を見た。
彼は表情一つ変えずに、重たげに動かしたその手を私の頭に乗せてやや乱暴に撫でていた。

「私、ニャースじゃありませんよ」

「ああ、だがおじさんは「ニャースを待っている」なんて一言も言ってない」

「私を待っていたんですか?」

そういう「言外に滲ませた感情」というものの風情を推し量れなかった私は、無粋にもそう尋ねてしまう。
彼はいよいよ静かに笑って「そんなことを言うようじゃ、ベルベットのドレスは当分お預けだなあ」と、やはりからかうように告げる。

彼の淀んだ赤い目は血のように暗くて、そこに映る私がどんな表情をしているのか、その目を鏡のようにして確認することは不可能だった。
だから笑って手を伸べて、おじさんの頭も同じように撫でようとしたけれど、彼は珍しく顔をしかめて拒否の意を示した。
私の頭は撫でるのに、狡いなあと、そう思いながらしかし声には出さなかった。
彼の頭を撫でられたとしても、撫でられなかったとしても、私のこのほの甘い幸福は揺らがない。ベルベットの似合う女の子になれずとも、構わない。
だってベルベットの手触りはこんなにも近くにあるのだから。焦がれたものに触れる術を、彼が教えてくれたのだから。

2016.11.30
2016.12.2(加筆修正)

© 2024 雨袱紗