0.9(S)

「貴方は私が私として此処にいるだけでいいのよね。シアは何があっても、私の親友でいてくれるのよね」

それは傲慢などではなかった。紛れもない真実だったのだ。
この少女は何があっても私の親友でいてくれる。
現に私がこんなにも残酷な告白をして、彼女の言葉を穏やかな微笑みをもって拒絶し続けても、彼女は私を見限らない。諦めない。
その事実はただ優しく、私を縛っていた、私が縛った縄をそっと緩めた。

私に、迷いない幸福が残っているとすれば、それは間違いなく、この少女と出会えたことだ。

そんな少女を私は今、最も残酷な方法で傷付けている。
彼女はきっと自分を責めるだろう。私を叱責しない代わりに、今もその罪悪感は彼女の心を蝕み続けているに違いなかった。

彼女に何も告げることなく、いなくなることだってできたのかもしれない。
博士やお隣の男の子、友達を名乗る3人のように、何も言わずに忽然と姿を消して、私の存在を永遠のものにすることだってできたかもしれない。
死によってその存在は永遠となるのだと、彼女にも同じように示すことだってできたかもしれない。
けれど私はそうしなかった。そうしたくなかったのだ。彼女には私の残酷な選択を聞いてほしかった。何故なら私は彼女を信頼していたからだ。
彼女は何があっても本当の私を見てくれる。本当の私を見ても、彼女は私の親友でいてくれる。その確信は私の心をほのかに甘く照らした。

ああ、わざわざ命を投げ捨てなくたって、私はこの子の隣でなら、本当の私でいられたのかもしれない。
彼女に何もかもを敵うことのない自分が少しだけ恨めしく思ったりもするけれど、でもそれ以上に、彼女が私を、私の存在を認めてくれていることが嬉しかった。
その喜びを噛み締めて生きていけたなら、どんなに幸せなことかと思ったのだ。

けれど、それはできなかった。何故ならシアの世界は私を中心に回っている訳ではないからだ。
欲張りな彼女には、大切な人が私の他にもいる。彼女の世界は他でもない彼女を中心として回っているのであって、私がその全てを占領する訳にはいかないのだ。
そして、それは私も同じだ。私の世界はシアを中心に回ってはいない。私の世界には私とシアだけではない。世界はもっと多くの冷たい視線で溢れているのだ。
私に「救世主」であることを強いる賞賛の声と、私があの人を想うことを禁じる視線とで溢れているのだ。

シェリー、周りの人は好き勝手に賞賛したり非難したりするものなのよ。それにシェリーが踊らされる必要なんて全くない。貴方の存在を正しく認めてくれる人は他にいる」

解っている。理屈ではそうだと解っている。けれど私はどうしても耐えられなかった。
彼女の存在は私にとって、とても大きなものだったけれど、それはこの世界の全ての冷たさを飲み込んでくれる程の大きさではなかったのだ。
全ての人に好かれることなんて、できる筈がない。そんなことを気にしていたら生きていけない。
そう続けたシアの、小さく息を飲む音が聞こえた気がした。まさに今、彼女は私の言葉を代弁してしまったのだ。そのことに聡いシアは気付いていた。

「そうよ、シア。だから私は生きられない。だって生きるためには私を捨てるしかなかったから」

ありがとう。私の思いを聞いてくれてありがとう。
もう十分だった。彼女は、この私の大切な親友は、私を責めなかった。その目に自責の色だけを貼り付けて、私に揺るぎない懇願を向けて、その瞳は揺れていた。
そこに彼女の強すぎる思いを見ることは容易いことだった。その事実だけで十分だった。

「足りないよ、シェリー

それでも、彼女は引かない。怯まない。
今の話はシェリーの全てではないと、私を真っ直ぐに見据えてそんなことを紡ぐのだ。
私が全てを告白しなくても、まるで彼女は全てを知っているかのようだった。私の欲張りで薄汚れた我が儘な選択を、彼女は全て知った上で、私に懇願しているかのようだった。
だから私は、彼女の望むままに口を開いた。

やがて彼女は、ゆっくりとそのメゾソプラノで私の真実を紡ぎ始めた。

「シェリー、貴方は自らの命をもってして、フラダリさんのやり方を永遠に糾弾し続けるつもりなのね」

饒舌に、次々と言葉を紡ぎ始めた少女に私は飲まれそうになった。
ああ、彼女は全て解っている。隠せる筈がなかったのだ。この聡い少女は、私のことなど全て解っているのだ。
隠せる筈がない。故に隠す必要もなかったのだというその事実は、私の心を温かくくすぐった。

「でも、貴方が命を投げ出す必要なんて何処にもなかった……!」

絞り出すように紡がれたその声音に、私は小さく戦慄した。
どうして、どうして彼女は私を叱責しないのだろう。どうして彼女は私を蔑まないのだろう。全ての真実を知っても尚、シアはこんな私の末路を案じてくれている。シアは何があっても私の親友でいてくれる。
解っていた筈だった。けれども目の前で泣き続けるシアの姿は、私に強烈な衝撃を与えていたのだ。
私は、彼女にこんな顔をさせたかったのだろうか。

「疲れたのなら、休めばよかったんだよ。私はシェリーが生きてくれているだけでよかったの。でも死んでしまったら、もう疲れることも休むことも、生きることもできないんだよ」

死なないで、と訴える彼女は、しかし決して私に強制をしない。
私をどうしても生かしておきたいのなら、私を拘束して、然るべき医療機関に放り込むことだってできた筈なのに、彼女はそうしない。
彼女は、この聡い親友は、私の思いを尊重してくれているのだ。その思いが「死にたい」などという、とんでもなく愚かで残酷なものだったとしても。

「お願い、生きたいって言って、シェリー……」

生きろとは言わない。死ぬなとも命じない。彼女はただ、懇願する。
それが最後の救いだったように思われた。今ここで彼女に生きろと命じられたら、きっと私の信念は折れていた。
きっとみっともなく「助けて」と縋っていた。「じゃあ、どうすればよかったというの?」と、泣きながら彼女に問い詰めていた。
そうせずに済んだのは、彼女がこんな私の思いを尊重してくれたからだ。だからこそ私は、彼女が尊重してくれた私の思いを、最後まで貫くことができた。

それは私が望んでいたことであった筈なのに、何故か胸が締め付けられるように痛かった。
けれど彼女の懇願に、私は決意を固めることができたのもまた事実だった。

私はこんな私の思いを尊重してくれた彼女のために、この選択をした自分に最後まで誇らしく在ろうと誓ったのだ。

彼女の言葉と視線による懇願は続いた。けれど私は穏やかな笑顔でそれを拒絶し続けた。
そうして時計の長針が何度か回った後で、私達はカフェを出た。
もう日付が変わろうとしていて、建物の明かりはかなり減っていた。私は徐に空を見上げて、そして息を飲んだ。
星が、輝いていたのだ。ミアレのような都市部でも、こんな風に星が見えるのだ。
星が綺麗ね、とシアに告げれば、彼女は泣きそうな顔で私に駆け寄り、強く私を抱き締めた。
少しだけ驚いたけれど、それ以上に彼女の温もりが心に染みた。けれど泣くことはしなかった。私は少しだけ背中に回した手に力を込め、わざとおどけたように笑ってみせた。

シェリー、この世界が嫌いだった?カロスの人も、旅も、ポケモンも、フラダリさんも、嫌いだった?」

私のことも、と続けた、その声は震えていた。私は手をそっと緩めて首を振った。

「ううん、違う。大好きよ。とても愛している。だから私はこれ以上生きられない」

それは真実だった。私は全てを愛していた。この美しい場所も、出会った人達のことも、フラダリさんのことも、ポケモン達も、シアのことだって大好きだった。愛していた。
それと同時に、私は愛されたかった。本当の私を見てほしかった。私の心の揺れを認めてほしかった。私は私で在りたかった。
愛しているという思いと愛されたいという願いの狭間で、私は押し潰されそうになっていた。だから私はこれ以上、生き続けることができなかった。

最後まで貴方の親友でいさせて、という彼女の懇願には、切実な色が込められていた。私は彼女の目元をそっと指で拭って、微笑んだ。
ああ、上手く笑えているかしら。

「ありがとう、そのお願いなら叶えてあげられる」

私は駆け出した。止まらなかった。「またね、シェリー!」という声を夜の風が伝えてくれたけれど、まだ振り返ることはできなかった。
私の頬を伝ってはいけないものが伝い始めていた。まだ、振り返ることはできない。せめてもう少し遠くで、彼女が私の顔を見ることができない程の距離まで。
私の吸い込む息は震えていた。

「またね、シア!」

大きく手を振れば、遠くのシアが振り返してくれた。またね、という声が耳をくすぐり、私はしばらく手を振り続けていた。
やがてその手をすっと下ろして、私は近くにあった路地裏に飛び込んだ。月明かりすらも遮るその暗い場所で、私は声を上げて泣いた。
大丈夫、此処まで来ればきっと私の慟哭は聞こえない。私の覚悟は揺らがない。

実のところ、私はもう二度と彼女に会うことなどないのだと思っていた。会うつもりもなかったし、会えるとも思っていなかった。
彼女は私のこの残酷な告白で、完全に私を見限ると思っていたからだ。けれど、違った。私の傲慢は真実だったのだ。彼女は何があっても私の親友でいてくれた。
そんな彼女に、私を最期まで見ていてほしいと願ったとして、私も最期まで彼女の親友でありたいと望んだとして、それはだって、当然のことだったのだ。

貴方のことが大好きだった。それでも、私は生きられなかった。
きっと、それだけのことだったのだ。だからこんなにも悲しいのだ。

遠くで私のものではない声が聞こえたような気がした。彼女も泣いているのだろう。
私の声も聞こえているかしら。けれどもう、慟哭は留まってはくれなかった。
冷たいアスファルトに涙がぽたぽたと染みを作っていくのを、星の光が淡く照らしていた。


2015.4.6

© 2024 雨袱紗