22:青と白のレポート

「私がシェリーについて知っていることは以上です」

時計の長針は既に2度回っていた。フラダリは彼女の言葉を噛み締め、その中から真実を拾い、組み立て続けていた。
バラバラになっていたパズルが、1年の時を経てようやく完成したのだ。

解ってしまえば実に簡単なことだった。

『私をシェリーと呼ぶのは貴方だけ。そうすることで、私は目的の一つを達成することができるから。』
『それから、私は貴方に幾つか隠し事をしています。』
『この間、あの白い病室で話したのは、その真実のほんの一部にすぎません。』
彼女の目的は、「シェリー」という存在を、このカロスから緩慢に消し去ることで、
フラダリだけが彼女の名前を呼ぶというその事実は、まさにフラダリ以外の人間から、彼女の時間を止めてしまうことを意味していて、
彼女はフラダリにそうした目的も、自らあの花に触れ続けた本当の理由も、死を選んだその経緯も、全て隠していたのであって、
あの病室での彼女の告白、その裏には、彼女の欲張りで傲慢な、疲れ切った彼女が取ることのできた最良の、選択が隠れていたのであって。

『どうか見抜かないでください。私の臆病で卑屈で、けれどとても欲張りなこの選択を見抜かないでください。』
『私は私のやり方で、私の欲しかった全てのものを手に入れます。私は彼女とは異なる欲張りで、私が守りたかった全てのものを守ります。』
彼女はカロスに、そこで出会った全ての人に、本当の自分を愛してほしかったと願っていたのであって、彼女は自らの死に芽吹く永遠を守ろうとしていたのであって、
全てを捨ててフラダリとの時間を選んだ筈の彼女は、その存在をカロスから消し去ることで、その存在の時間を止めたまま、永遠を手に入れようとしたのであって、
そうしたことを指して「欲張り」だと言っていたのであって。

『貴方のことが好きです。だから、これ以上生きられなかった。』
この言葉は、彼女の真実を意味していたのであって、つまるところ、フラダリの仮説の大半は正鵠を射ていたのだ。
彼は「彼女」を、理解できていたのだ。

その推測はこの1年間、フラダリの脳裏を彷徨い続けていたのだ。
彼女を失った人達の悲しみ、それこそが彼女の望んだものだったとしたら。
そんな恐ろしい仮説から導き出した一つの可能性、その是非を誰にも確認することができないまま、フラダリは緩慢に時間の海を泳ぎ続けていた。

「彼女は死ぬことで、あるいは突如として姿を消すことで、その存在を人々の中に強烈に残し、自らの存在を永遠のものにしようとした」
その残酷な仮説は、一年の時を経て真実になったのだ。

無学で勉強を苦手とする彼女が、経営や子供の心理のことに詳しかった、その情報源も、
毎月届くこの手紙から、金木犀の手紙が微かに香っていたその理由も、
セキタイタウンに受け取りに行ったあの木の、その枝が一本だけ鋭利な何かで切り取られていたその真相も、
この女性があの日、月明かりで手紙を読んでいたフラダリの元へ、彼女と同じ格好で姿を現したその意味も、今なら全て、全て解っている。

「……どうぞ」

深い海の目をした彼女は、その青いスカートのポケットから手紙を取り出した。
差し出されるままにフラダリが受け取ると、彼女は嬉しそうに肩を竦めて笑ってみせた。

シェリーが、私に書いてくれた手紙のコピーです」

フラダリは思わずその手を宙でぴたりと止めてしまった。その手紙を自分に渡すその意味を計りかねていたのだ。
しかし彼女は寧ろ当然のように微笑んでみせる。

「私は、シェリーが貴方に宛てた手紙を全て読みました。フラダリさんにとても失礼なことをしていると解っていながら、私はどうしても止められませんでした。
シェリーを構成する全てを、私はどうしても取り零したくなかったんです。彼女の全てを語り継いでおきたかったんです」

「……」

「それはきっと、貴方も同じだと思うから」

その言葉に、フラダリは微笑んで手紙を受け取った。
そこにはイッシュの言葉で、彼女の、フラダリに宛てたあの手紙よりは少しだけ丁寧な文字が並んでいた。
そこには彼女が「緩慢な自殺」を選んだ本当の理由が、静かに穏やかに、それでいてとても情動的に、しかし少しだけ、その残酷な選択を悔いるように書かれていた。

『「私」が、切り離されていくのを感じていたの。だから私は「シェリー」として、これ以上はもう生きていけないんだって、思った。』
『私はきっと、生きるのに向いていなかったの。』
彼女の悲しい告白から、フラダリは目が離せずにいた。
人の顔色を常に窺い、心を読むように相手を気遣ってきた彼女は、自身の思いと彼等の心との間で葛藤し、少しずつ疲れていった。
フラダリはそんな彼女の様子をようやく、彼女の言葉で聞くことができたのだ。

『私は彼に会いたかった。私のこの、過ぎる一瞬を永遠にするための残酷な手段を一番近くで見届ける相手がいるとすれば、それはどうしても彼でなければいけなかったの。』
『永遠を糾弾し、カロスを叱責し、それでも皆を愛していたと、本当の「私」で愛されたかったと伝えたかった。』
その言葉の全てが切実だった。彼女は愛されたかったのだと、フラダリはようやく確信するに至った。
彼女が愛した全ての人に、彼女が愛したこの美しい土地に、彼女はどうしても愛されたかったのだ。その残酷な選択には、彼女のそうした願いが込められていたのだ。


『これは私の、命を懸けたメッセージだった。』


その一文をフラダリは指でそっとなぞった。文字がぐらりと揺れた。
シアはその様子にはっと息を飲んだけれど、直ぐに肩を竦めて困ったように笑ってみせた。
「彼女」から、この男が泣き虫であることを聞いていたからだ。ああ、あの言葉は本当だったのだと、シアは確信するに至ったのだ。
それと同時に、彼女を想って涙を流してくれる人物が、自分の他にもいたのだというその事実を噛み締め、胸に熱いものが注がれる心地を抱いていたのだ。

私はこの人となら、彼女の喪失を共有することができる。

シアの「喪失を噛み締めるための時間」はずっと止まっていたのだ。
彼女の存在を、その喪失を、今の今まで誰にも告白することが許されなかった状態で、シアは泣くことも、彼女の名前を紡ぐこともできなかった。
それが彼女との約束だったからだ。彼女が愛した世界に彼女が愛されるために、シアができる唯一の大きすぎる隠し事だったからだ。
けれど、この人なら。自分と同じように彼女の死を悼み、今もこうして涙を流してくれるこの人の前でなら。

「フラダリさん。また、此処に来てもいいですか?」

その言葉にフラダリは顔を上げる。

「私に、シェリーの話をさせてください。貴方とシェリーのことも、聞かせてください。……私にはもう貴方しか、シェリーの記憶を共有する相手がいないから」

フラダリはしばらくの沈黙の後に、その大きな手をシアの方へと差し出した。
彼は承諾も拒絶も紡がなかったけれど、その手が全てを雄弁に語っていた。シアはふわりと微笑んでその手を取った。
強い力で握り返されたその手に、ああ、この人もまだシェリーを送りきれていないのだと気付かされる。
こんなことならもっと早く来ていればよかったのかもしれないと、シアは少しだけ思った。
けれど同時に、あの子供達からの大きな茶封筒がなければ此処に来ることはできなかっただろうということも解っていた。

「条件があります」

その言葉にシアは目を見開く。
少しの不安が宿ったその海の目に、しかしフラダリは穏やかに微笑みかける。

「わたしにも、貴方が書いた本を読ませてくれますか?」

「……いいえ、寧ろ、一緒に書いてほしいくらいです」

シアはおどけたように肩を竦めて笑ってみせた。

フラダリが彼女と初めて出会った時、彼女はまだ14歳だった。その幼いライトグレーの瞳には、ただ怯えだけが映っていた。
あれから5年の月日を共にして、彼女はフラダリの元からいなくなってしまった。
今、彼女と同じ年である彼女の親友は、もう20歳になっていた。
全てが残酷な音を立てて回っていた。留まり続けられるものなど、きっと何処にもないのだ。変わらずにあり続けられるものなどありはしないのだ。
「彼女」が愛した世界はそうした、とても儚く脆い、それでいてとても尊いものだったのだ。

「フラダリさん、ありがとうございます。シェリーと最後まで生きてくれて」

しかし、シアが発したその言葉に、フラダリは優しく微笑んで首を振る。
「いいえ、まだです」ときっぱりと紡いだその言葉の意味を察することができずにシアは首を捻る。

「まだ24年、残っているのですよ。彼女との時間はまだ終わっていない」

「!」

「わたしはまだ、あと289通の手紙を読まなければならないのですから」

シアは泣きそうに笑った。
一人の少女の生きた証を抱き締め、誇らしげに頷く女性の姿がそこにあった。


2015.4.4

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