彼女はきっと、愛されたかったのだ。
「来てくれてありがとう」
いつかと同じ言葉を紡いでシェリーは笑った。私は1年振りの再会を果たした親友の顔を見て絶句した。
驚く程に痩せていたのだ。そのこけた頬や枯れ木のような手足に、いつかの彼の姿を重ねることはあまりにも容易かった。
あの時の彼も死の淵を彷徨っていた。生きてくださいという私の懇願はあの時は、届いた。
けれどそれは必然などではなかったのかもしれない。彼が私のそうした懇願を聞き入れてくれたのは、奇跡とも呼べることだったのかもしれない。
現に、奇跡は二度も起こってはくれなかった。私の懇願は届かなかった。私は彼女を救えなかった。
シェリーとは、あれからも何度か時間を作って会っていた。
彼女がチャンピオンになってから1年が経った頃には、もう彼女を「シェリー」と呼ぶ人間は、私とフラダリさんを置いて他にいなくなっていた。
私の名前を借りたいのだと彼女が申し出たのはその頃だった。私は迷わずそれを了承した。
私にできることは、残されたシェリーの時間をできる限り尊重してあげることだと信じていた。
彼女の望むことはなるべく叶えた。誰にも私の存在を伝えないでという、その懇願も私は笑顔で引き受けた。
ミアレシティのカフェで、新米トレーナーを支える活動がしたいと言った時も、私は快く力を貸した。
彼女に簡単な料理を教えたのも私だった。食パンを何分焼けば綺麗な焦げ目が付くのかを知らなかった私にとって、料理の勉強は苦難を極めた。
けれど、私は何だってした。だって、これくらいしかできないのだ。私が親友として、彼女にしてあげられることはあまりにも少なかった。
彼女が「助けて」と言わない限り、私は彼女を医療機関に閉じ込めて延命措置を促すことなどできやしない。それは彼女の尊厳を傷つけることになると知っていたからだ。
私は何もできない無力な自分を噛み締めながら、それでも私にできることをずっと続けてきた。
涙はあの日以来、枯れていた。まるで一生分の涙を使い果たしたかのように、あれから私は一度も泣くことはなかったのだ。
もし次に泣くことがあるとすれば、それは「この時」だと、知っていたのだ。
「シア、最期のお願いを聞いてくれる?」
「ふふ、どうしてそんなことを聞くの?私が今までシェリーの頼みを断ったことがあった?」
そうだね、とシェリーはクスクスと笑い、しかし唐突にその眉を僅かにひそめた。
尋ねるのも憚られるような明らかな体調の悪化に、しかし私は言及しなかった。肩を震わせて笑うことすら、今の彼女にとっては苦痛でしかないのだと気付いていた。
さいご、が最期、であることを、私もシェリーも知っていた。だから何も言わない。私はもう、みっともなく泣きながら彼女に懇願したりしない。
最期まで自らの尊厳を保ちながら懸命に生きていた彼女に、私も相応の覚悟を持って向き合いたかった。
彼女の親友でいる、というその覚悟を、私は抱いたまま、微笑んでみせた。
病室に備え付けられた整理棚を彼女は指差した。開けてみて、と言われ、私はその引き戸に手を掛ける。
そっと開ければ、そこには大きな2つの紙袋に、大量の手紙が入っていた。
その量もさることながら、その手紙の全てが同じ、薄いオレンジ色の封筒に統一して入れられていることに私は驚き、息を飲んだ。
十数枚の束になって、輪ゴムで括られている。一番上の札には「6年目」と書かれていた。
「その中に、300通の手紙が入っているの」
300通。眩暈のするようなその量に私は息を飲むしかなかった。
この手紙が誰に宛てられたものであるか、私は理解していた。理解して、彼女が彼に向けた、愛とも呼べそうな感情の大きさに泣きそうになった。
「1か月に一度、私の代わりにその手紙を届けてくれない?」
1か月に1通、1年に12通、それを計300通。……つまり、25年の間、彼女は私に手紙を届け続けてほしいと懇願しているのだ。
25年。その年数が何を意味しているのかを私は理解していた。
彼女が5年前のあの日、フラダリさんと約束を交わしたことを、私は彼女から聞いて知っていたのだ。
『30年、私と一緒に生きてください。』
彼女が30年も生きられる筈がなかった。彼女はあの時、自分の余命をあと10年ほどだと予測していた。
それなのに30年という長い月日を提示した理由が、その頃の私にはよく解っていなかった。
けれど、今なら解る。彼女が何をもって30年としたのか、その理由を私だけが知っている。
「フラダリさんのための30年だったのね。あの人が本来の天寿を全うできるように、それまで生きていてくれるようにと設定した時間だったのね」
そう指摘すれば、彼女は鉛色の目を細めてふわりと笑ってみせた。
彼女はどこまでも欲張りで、それでいてどこまでも優しかったのだ。だから私は、そんな彼女の最期のお願いを無条件で聞き入れなければならない筈だった。
けれど私の指はそっと彼女の眼前に伸びた。私は5年前のあの日を思い出していた。
『お願い、生きたいって言って、シェリー……。』
私は彼女を止められなかった。それが全てだったのだ。
それでもそんな倒錯的な結論を、周りの人を顧みることなく出してしまった彼女のことが、あの頃はどうしても許せなかった。許せなくて、悔しくて、悲しくて、泣いていた。
けれどそれと同じくらい、いや、それ以上に、シェリーのことが大好きだった。
「いいよ、でも一つだけ条件があるの。聞いてくれるよね」
彼女は驚きにその目を見開き、僅かに首を傾げた。
病院の無機質な蛍光灯の光が、彼女の鉛色の目をキラキラと照らしていた。
その輝きがあの頃を、シェリーと出会ったあの頃を思い出させて、私は思わずぎゅっと目をつぶることで涙をやり過ごした。
「私に、貴方の本を書かせて」
彼女の、光を宿したライトグレーの目に、私が映っていた。
「自分の命をもって過ぎる一瞬を永遠にした、私の大切な親友のことを、私は私の手段でこの世界に残しておきたいの。
だからこの手紙も全て読ませて。貴方が焦がれた貴方の永遠を、私にも手に入れさせて」
断られてもおかしくはない願いだった。私は拒否されて当然の願いを掲げているのだ。
けれどそんな私の予測に反して、彼女は少しの間を置くこともなく頷いたのだ。これに呆気に取られたのは私の方で、私は震える声で彼女に確認を取っていた。
「……いいの?本当にいいの?」
「どうして?寧ろ、嬉しかったのよ」
信じられないような言葉が私の心臓を貫いていた。
「私を、貴方が永遠にしてくれるのね」と紡いだ彼女のソプラノは陽だまりのように優しく、儚い。
「皆に愛されたいと願うあまり命を投げ出すような愚かな過ちを、もう誰も繰り返すことの無いように、貴方が語り継いでくれるのね、シア」
それは彼女の最初で最後の弱音だった。私は瞬きすら忘れて絶句した。
私達は数か月ごとに会っていたけれど、いつだって彼女は笑っていた。
自らの選択を誇りに思っているような笑顔で、全てを覚悟したような穏やかな声音で、いつだって気丈に振舞っていたのだ。
そうした彼女の態度を尊重することが私のできることだと信じて疑わなかった。
私は彼女の残酷な選択を許せないままだったけれど、彼女には一片の悔いもないのだと、だから穏やかに、そして気丈に笑っているのだと信じていた。
けれど、違った。彼女は悔いていたのだ。自らの行動を過ちとして、もう誰もこんなことを繰り返す必要がないようにと、自分の存在を語り継ぐことを心から望んでいるのだ。
彼女はこの選択が、間違っていると解っていた。解っていながら、それでもその残酷な選択に縋らざるを得なかったのだ。
それ程に彼女は疲れ果てていた。それ程に彼女にとっての世界は息苦しかった。それだけのことだったのだ。
けれど、それでも彼女は引き返さなかった。助けてと私に縋ったことは一度もなかった。
彼女は最期まで自身の誇りを貫き、その過ちを背負って生きていたのだ。どうして私が彼女を責めることができよう。
「シェリー……」
「なに?」
彼女は僅かに首を傾げて微笑んだ。私は俯いて目を強く、強くつぶった。まだ泣く時ではないと解っていた。
実のところ、私はこの日、彼女にやわらかな糾弾を浴びせるつもりでいた。
私は彼女の時間と意志と尊厳とをできる限り尊重した。彼女の望むことは何でも叶えた。その上で、彼女に問い掛けたかったのだ。
「シェリー、これが本当に貴方の望んだことだったの?」と。
けれど私は大きすぎる思い違いをしていたのだ。彼女は自らの行動を悔いていた。
彼女の選択が、彼女を愛した人達をどれ程苦しめていたかを、彼女は痛い程に知っていた。解っていたのだ。
それでいて、私達を悲しませないように、いつだって笑っていてくれたのだ。
「私は、貴方を誇りに思っているよ」
「!」
「最期まで強く優しく生きたシェリーのことを、私は忘れない。貴方は誰にも忘れられない。世界は、絶対に貴方を忘れたりしない」
それは私の本心だった。私は彼女の最期に、彼女が最も望んでいた言葉を贈れたのだ。
彼女はその言葉を抱き締めるようにふわりと微笑む。ライトグレーの瞳が淡く輝く。
……ねえシェリー。私は貴方の親友でいられて本当によかったよ。私は貴方が大好きよ。
貴方が愛した世界の全てに、貴方は愛されていたんだよ。
2015.3.31