彼女は人やポケモンの気持ちを推し量ることが得意だった。きっと、推し量り過ぎたのだ。人の顔色から彼等の思いを読むことに彼女は長け過ぎていた。
それは彼女が12歳という幼さでプラズマ団に所属していた頃の、周りの空気を読んで行動するために必要な武器だったのかもしれない。
とにかく、彼女は他者の気持ちを推し量ることを、人の顔色を読むことを、それこそ息をするような自然さで常に行っていたのだ。
けれど、それこそ人の心を読むような鋭敏な感受性により吸い込まれる数多の感情は、彼女が背負うにはあまりにも重すぎたのだろう。
敵意、侮蔑、賞賛、嫉妬、憎悪、無関心……。人の心はあまりにも複雑で、それでいて鋭く、時に熱く、時に冷たい。
彼女はそれらが持つ重さに、耐えられなくなった。具体的には、彼女を取り巻くその全てに耐えられなくなったのだ。
ポケモン図鑑の完成を望む博士のことも、彼女を敵対視する隣人のトレーナーのことも、フレア団を倒し、チャンピオンになった彼女を賞賛する多くの人のことも、彼女は恐れていたのだ。
自分に注目する全ての人に、みっともない「本当の自分」を馬鹿にされることを恐れていたのだ。
「私はきっと、怖かったんだと思うの」
シェリーは穏やかな笑顔のままにそう紡いだ。
鉛色の目が私を射抜くかのようにそっと細められる。私は臆すまいとその色をしっかりと見据えたけれど、その視線が彼女に届くことはなかった。
だってシェリーは私を見ていない。その鉛色の目に私は映らない。
「皆の賞賛が、私を称えるその目が、無条件に賞賛するその声が、とても怖かった。
だって私は、いつまでもこんな風に輝いていられる訳じゃないもの。皆が褒め称える私は、本当の姿じゃなかったんだもの」
いつまでも輝き続ける必要などないのだと、輝いている時もそうでない時も含めて貴方の魅力なのだと、伝えたい。けれど、届かない。
シェリー、貴方は大きな勘違いをしている。世界に住む多くの人は、噂が大好きで、大きな情報に踊らされるように、その評価をころころと変えるのだ。
彼等はちょっとしたきっかけで、極端に評価の色を変える。けれどそんな彼等も、直ぐに自分が下した評価の存在を忘れてしまう。彼等は往々にしてとても自分勝手だ。
だから、そんな彼等に付き合う必要など全くなかった筈なのに、それでも彼女はそれを手放さない。自らに差し向けられる視線が怖いのだと訴えて止まない。
カロスの人々は輝きを失くした彼女を蔑み、嗤い、そしていつか忘れていく。それは当たり前のことだ。冷たい群衆とはいつだってそうした性を持っているものなのだから。
けれど、その当たり前の冷たさを、彼女はどうしても耐えられないのだと言って笑っている。
彼女の意志とは無関係に漂っていくその評価が恐ろしいのだと嘆いている。
「そして彼等は、私があの人を想うことを許してくれない」
私の心臓は大きく跳ねた。
あの人、が誰を指しているのかを理解できない程、私は鈍く出来ている訳ではなかった。
彼女が誰を想っているのか、カロスの皆が誰を忘れようとしているのか、解っている。
そして、寧ろ彼女の動機はこちらの方にあるのではないかと思い始めていた。
彼女は群衆の視線よりも寧ろ、彼等が「あの人」の追悼を禁じたことに対して恐れ、憤っているのではないかと。
彼女はカロスの冷たさに、死をもって抗議しようとしているのではないかと。
彼女の言っていることを、理解できない訳ではない。
おそらくカロスの人々の盛大な賞賛は、シェリーから「あの人」の喪失と向き合う時間と、罪悪感を消化するための手段を奪ったのだろう。
救世主で在るためには、滅ぼした悪を顧みてはいけない。彼等の賞賛が彼女の逃げ道を塞いだのだ。
もっとも、それはカロスの人々の性に限ったことではない。
イッシュの人々だって、私が旅に出たその2年前、英雄の軌跡には目もくれず、ただその栄光だけを称え喜んだのだ。
賞賛と後悔という、相反するものを抱えるには、私の先輩はあまりにも若く、幼かった。そして、それはシェリーも同じであったのだ。
彼女はきっと、そっとしておいてほしかったのだ。
彼女の行為を称えるための場など要らなかったのだ。彼女はただ、穏やかな時間が欲しかっただけなのだ。
禁忌の人を想うことと、その人の喪失を受け入れることには、長い時間が必要だった。このカロスの地はシェリーからそれを奪ってしまった。
そこに悪意ではなく、心からの賞賛の意が込められていたのだ。それを彼女は知っていた。だからこそ、彼女は拒むことができなかった。そして、彼女は疲れていった。
「みっともない本当の私を、あの人を想い続ける私を、きっと皆は許さない。だからこのままいなくなりたいの。素晴らしい私のまま、消えてしまいたくなったの」
そうして彼女が最後に縋ったのが「死」だったのだ。私は彼女を「生」に繋ぎ止めることができなかった。
けれど、……けれど、違う。彼女は根本的なところを思い違えている。
「シェリー、周りの人は好き勝手に賞賛したり非難したりするものなのよ。それにシェリーが踊らされる必要なんて全くない。貴方の存在を正しく認めてくれる人は他にいる」
「シアはそうなんだよね。貴方は誰に何を言われようと、貴方の大切な人が貴方を正しく理解してくれていればそれでいいのよね。
でも私は違うの。私はシアのように強くない。私は誰にも蔑まれたくないの。それが私の知らない遠くの誰かであっても、どうしても怖いと思ってしまうの。
皆の理想に叶わない生き方しかできないであろう私に浴びせられる、叱責と嘲笑の未来が耐えられないの。冷たい視線を浴びながら生きていくことは私にはできないの」
「……そんな、無理だよ。全ての人に好かれることなんて、全ての人に賞賛され続けることなんて、できる筈がないよ。そんなことを気にしていたら生きていけない」
私ははっと息を飲んだ。自分の投げた言葉が決定打となってしまったことに気付いたからだ。
案の定、シェリーはふわりと穏やかに微笑み、その鉛色の目をすっと細めた。
「そうよ、シア。だから私は生きられない」
自らの精神を社会に合わせるのには、その実とてつもない労力が伴う。
私は、その社会を割り切って付き合う道を選んだ。けれど彼女は、そうできなかったのだ。
「だって生きるためには私を捨てるしかなかったから」
その言葉は私の心臓を突き刺した。強く抉られていくその感情に、私は大粒の涙を零した。
どうして、どうして私と同い年のこの少女が、そんな残酷な選択をしなければならないのだろう。
シェリーの口からその理由を、彼女の思いを聞いても尚、私はどうしてもそれが理解できなかった。
……否、理解したくなかったのかもしれない。
全てが手遅れだった。私は彼女の選択に立ち会えなかった。もう全てが終わった後だったのだ。私は彼女を止められなかった。その事実は動かない。
それでも、何処かで彼女がまた、私の知るシェリーに戻ってくれることを望んでいた。
けれどそれと同時に、目の前にいるのは紛れもない私の親友であるという確信があった。
何かに憑かれている訳でも、誰かに脅迫されているのでもない。これは紛れもない彼女の意志だった。
優しくて臆病で強情で、それでいてとても欲張りな彼女の精一杯の選択だったのだ。
私は俯いて足元を見た。黒いリボンのついたパンプスが、お揃いで買ったその靴が、彼女があの日のシェリーと同一人物であることを示していた。
この残酷な言葉を発しているのは、他でもない私の唯一無二の親友なのだと、私は認めざるを得なかったのだ。
「シアにだけは、私の思いを聞いておいてほしかったの」
それでもその笑顔をどうしても受け入れたくなくて、私はその鉛色の目に何度目か解らない懇願を繰り返す。
嫌、嫌だ、お願いだからそんなことを言わないで。これが最後みたいな言い方をしないで。
「聞いてくれて、ありがとう」
私は嗚咽を噛み殺そうと努めていた。
泣きたくなる程の死の恐怖に苛まれているのは他でもない彼女の方である筈なのに、シェリーは決して泣かないのだ。
だから私の涙が止まらないのだろうか。私は彼女の涙をも奪い取って泣き続けているのだろうか。
「足りないよ、シェリー」
嗚咽の合間にようやく紡いだその言葉に、シェリーは少しだけ驚いた表情を浮かべる。
まだだ、まだ、私はこの親友の言葉に屈する訳にはいかない。これが彼女の全てである筈がない。彼女はまだ、大事なことを隠している。
「今の話は、貴方の全てじゃない」
「……ふふ、シアには何でも見抜かれてしまうのね」
「お願い、聞かせて。何がシェリーをそこまで駆り立てたの?貴方は何を思って動いていたの?」
そう尋ねておきながら、私はもう、気付いていた。解っていたのだ。
彼女をここまでさせたその中枢に居座る存在を、私はちゃんと、解っていた。
けれど私の考えは根拠のない推測に過ぎない。それを確信に変えるには彼女の言葉が必要だった。
そしてこれが最後だと言うのなら、聞いておかなければならない。彼女を取り巻く全てを、彼女が捨てようとしている全てのものを。
彼女は小さく息を吸い込んで、今日で一番眩しい笑顔を湛えてみせた。
「フラダリさんを見つけたの」
2015.3.31