フラダリはこの日、カフェでとある人物を待っていた。
彼がこのカフェにいる時には、当たり前のように子供達がそこにいた。彼が不在の時でさえも、此処には子供達の賑やかな声が常にあったのだ。
そんなカフェが、今は静まり返っている。
いつもなら子供達の声で賑やかになっている時間帯なのだが、フラダリは予め、彼等に今日の訪問を禁じていた。
素直で聞き分けのいい子供達は、フラダリの真剣な表情から何かを察したらしく、一様に頷いてくれた。
彼は小さく溜め息を吐き、カフェを見渡す。
壁も床も天井も、全てを赤く染めていたあの頃のフラダリカフェの面影は、もうこの場所にはない。
白く塗り替えられた壁と天井、茶色い床、それに合わせるようにシンプルかつ控え目な色に統一されたテーブルと椅子。
昔はこの一面が赤だったのだと告げたところで、今では誰も信じないだろう。
その外観すら、ベージュの落ち着いた雰囲気に変えられていた。これは他でもない「彼女」の意向であった。
どこで仕入れてきたのかは解らないが「子供にあまり刺激的な色で囲うのはよくありませんから」という知識を披露して、彼女は笑っていたのだ。
外壁や屋根の塗装は業者に頼んだが、カフェの内部の壁や天井は全てフラダリと「彼女」が手作業で塗り替えた。
白や茶色のペンキで服を汚しながら、このカフェを今の状態に少しずつ変えていったのだ。
『フラダリさん、鼻にペンキが付いていますよ!』
その言葉にフラダリが振り返るや否や、彼女は茶色いペンキの付いた指をフラダリの鼻に軽く押し当てた。
クスクスと肩を震わせて笑う少女の声を、姿を、フラダリは覚えている。どうしても忘れられない。忘れたくはない。
「!」
カフェの扉が、開いた。
その隙間から覗くリボンのついた黒いパンプスに、フラダリは息を飲む。
そして一瞬だけ目をつぶり、覚悟を決める。
「こんにちは、フラダリさん」
その声音は穏やかなメゾソプラノだった。
白いトップスに青いスカートのハイウェストアンサンブルを身に纏い、黒いラインが一筋だけ入った白いニーソックスを履き、白いカノチェを被っていた。
肩より少し長い茶色の髪が、軽く下げられた頭に合わせてふわりと揺れた。
青と白を纏って現れたこの人物を、「彼女」とは真逆の配色で現れた人物を、フラダリは知っている。
背格好も、華奢な肩も、帽子や服の影も、全て、全て「彼女」に似ている。
その配色と、透き通るメゾソプラノを除けば、此処にいるのは間違いなく、フラダリが5年の歳月を共にしたあの少女だった。
しかしそんな筈がなかったのだ。「彼女」はもういない。その事実は動かない。
「やはり貴方だったのですね、シア」
自らの名前を言い当てられた彼女は、その深い海のような目を大きく見開いた。
この女性と、フラダリは一度だけ会ったことがあった。「彼女」がいなくなって2週間がたったあの夜、月明かりを遮るようにして彼女は現れたのだ。
丁度、今日と同じ格好をしてフラダリの前に現れ、彼の本名を言い当てた彼女は、一瞬にして忽然と姿を消してしまっていた。
「彼女」を失った悲しみに暮れ、「彼女」からの手紙を読んでいたフラダリが、その人物を「彼女」に重ねたとして、彼女に「幽霊」を見たとして、それは当然のことだったのだ。
しかし、真実は彼の予測とは全く別のところにあった。あの人物は彼女の未来の姿でも、彼女の幽霊でもなかったのだ。
長い、本当に長い沈黙の後で、彼女はフラダリの目を見据え、小さく頷いた。
「子供達に、手紙を書いてくれたのも貴方ですね」
「……はい」
「ありがとう。彼等は本当に喜んでいました。彼等は本当に「シア」からの返事が来たものと思っています。感謝していますよ」
シアはその言葉にほっとしたようにふわりと微笑む。
その仕草があまりにも「彼女」に似ていて、フラダリは目を逸らしたくなった。
「……笑ってください。わたしも、本当に彼女が幽霊になって戻って来たのだと思っていたのですよ」
その言葉に彼女の顔色がさっと変わった。
『私は名前を変えようと思います。私の親友の名前を借りて、生きていこうと思います。』
フラダリは「彼女」の手紙にあった一節を思い出していた。この女性が誰であるのか、フラダリにはもう解っている。
カロスの人々に最後まで心を開くことをしなかった彼女が唯一、慕っていた人物。
フラダリに宛てた手紙の中に何度も登場した、彼女と同い年の少女。
彼女が名乗っていた偽名「シア」の持ち主。
彼女の、かけがえのない親友。
「しかし、わたしに届いた青い手紙を見て、ようやく気付きました」
シアはカフェの扉を閉め、ゆっくりとフラダリの方へと歩みを進める。
そう、「彼女」があのような手紙を送って来る筈がなかったのだ。彼女に青は似合わない。
仮に彼女が幽霊となってフラダリに手紙を出すことができたとして、その便箋の、封筒の色が、青や白である筈がないのだ。
それはこの女性の色だったのだから。彼女が慕ったこの親友を象徴する、彼女とは真逆の色だったのだから。
「彼女の字はもっと荒っぽく、乱雑でした。貴方の手紙に書かれた字はあまりにも整い過ぎていた。誤字の一つもなかった」
「……」
「それにあの子は、一枚だけの手紙の時に、何も書いていない便箋をもう一枚添えておくなどという作法を知りません。
貴方は彼女の話にあったとおり、とても勤勉で博識で、誠実な人なのですね」
シアはフラダリの目の前にやって来た。
何の感情も映さないその冷淡な表情に、フラダリは息を飲む。そして、ああ、こうして見るとあらゆるところが「彼女」と違っているのだ、と改めて認識する。
その深い海のような目も、すっと薄く伸びた眉も、小さな鼻も、こちらに伸ばした手の形も、全て、全て異なっている。
この女性は「彼女」ではない。「彼女」はもう、何処にもいない。
「ありがとう、わたしに手紙を届けてくれて」
フラダリのその言葉に、シアは驚いたようにぎこちなく瞬きをする。
先程の冷淡な仮面は一瞬にして剥がれ落ちてしまっていた。
「……私を、」
その震える口から紡がれたメゾソプラノは小さく、か細く揺れていた。
フラダリは次の言葉を拾い上げようと少しだけ身を乗り出す。
「私を、責めないんですか?」
ぐらりと、その海が歪んだ。
フラダリは自分が、その底の見えない海に溺れているような錯覚にすら陥りそうになったのだ。
『プラターヌ博士、わたしを責めてください。わたしは何もできなかったんです。』
あの日の自分が、目の前の彼女に重なる。既視感にくらりと眩暈がする。
「シェリーを止められなかった私を、貴方は責めないんですか?フラダリさん……」
その白い頬にすっと涙が伝った。彼女はそれ以上何も言わなかったが、その溢れだした海が全てを雄弁に語っていた。
私を怒鳴ってください。叱責してください。糾弾してください。
懇願を繰り返すように静かに泣き続けるシアに、フラダリはそっと言葉を掛ける。
「では、シア。わたしを責めますか?」
「!」
「5年間も彼女の傍にいながら、彼女を死なせてしまったわたしを、貴方は責めてくれるのですか?」
彼女は勢いよく首を横に振った。
「それと同じことなのですよ」と告げれば、いよいよ声を上げて泣き出されてしまう。
失った「彼女」の真実が、今ここで紐解かれようとしているのだとフラダリは気付いていた。そのためにこの女性は今日、この場所へ来てくれたのだと確信していた。
この、「彼女」によく似た、けれど全く異なる存在である女性は、フラダリが知り得なかった「彼女」の全てを知っている。
フラダリはそう確信していた。開口一番に「私を責めないんですか?」と紡いだその言葉に含まれた自責と後悔の念を彼は読み取っていたのだ。
フラダリはポケットから手紙の束を取り出した。11通に及ぶその、淡いオレンジ色の封筒を、彼は机の上にずらりと広げてシアに示す。
「聞かせてくれますか?貴方のこと、彼女のこと、あの5年間のことを」
海の色をした目がそっと閉じられ、彼女は小さく頷いた。
「彼女」がいなくなって、今日で一年が経とうとしていた。
2015.4.2