1-27

まだ朝の8時であるにもかかわらず、多くの人がコガネシティの駅を行き交っていた。
先程、シアがクロバットに乗って現れて、それを合図とするかのように私達はあの家を出た。
クリスさんは私とシア、そしてフラダリさんの切符を購入してくれた。アポロさんも見送りに来てくれて、私の荷物を運ぶのを手伝ってくれた。

「今まで、ありがとうございました」

慣れない感謝の言葉をやっとのことで紡ぎ、私は大きく頭を下げた。
クリスさんは慌てたように手を伸べて「もう、そんなのいいから、顔を上げて!」と私の額をコツンと指先でつついた。

「私はただ場所と時間をあげただけだよ。でも貴方はもっと沢山の人にお礼を言わなきゃいけないね」

「……シアのことですか?」

シアちゃんだけじゃないわ。貴方とフラダリさんのこの時間は、貴方が思っているよりもずっと多くの人によって支えられていたんだよ。
貴方は貴方が思っているよりもずっと多く、愛されていたんだよ」

『貴方はちゃんと愛されているわ、大丈夫。』
いつだったか、眠れない夜にも彼女はそう囁いてくれた。
けれどその眩しすぎる事象を自分のこととして受け入れることは私にとってまだ難しく、困ったように笑ってただ首を捻ることしかできなかった。
それに、こんなにも大仰で傲慢で、とんでもない勇気を必要とするこの「感謝の言葉」を大勢に向けて放つことは、とても大変な作業であるように思われた。
カロスへ戻る、ということだけならまだしも、加えてそうした感謝の言葉を操るという、私にとっては悉く困難なことを為すことは、まだ、できそうにない。

「まだ難しいかな?」と、そんな私の心を当然のように読んだ彼女は、けれど「いいんだよ」とそんな私の臆病と怠惰を許して笑ってくれた。
彼女が私を許さなかったことなど、今まで一度もなかったのだけれど。だからこそ私はこうして、彼女に傲慢なお礼の言葉を紡ぐことがようやく、叶ったのだけれど。

「フラダリさん、切符はちゃんと持っていますか?」

クリスさんの言葉に彼は頷き、手に持っていた青い切符を小さく掲げた。あと15分後に発車するその電車の行先は、ミアレシティだ。
私とシアが持っている黄色い切符は、イッシュのライモンシティへ向かう電車に乗るためのものだ。
私はシアと共に一度、私の故郷へ戻り、彼の出頭を見届けてから、頃合いを見てカロスへと戻ることになっていた。
頭の悪い私には、クリスさんやシアが為したその配慮の奥を読むことなどできなかったから、彼女達がそうすべきだと言った、その言葉に従う他になかったのだ。
そして、それでいいと思っていた。

「フラダリさんは捕まってしまうんですか?」と尋ねれば、彼はその目を僅かに見開いて、しかしすぐにすっと細め、あまりにも穏やかに笑った。

「ええ、わたしはもっと早くそうすべきだった」

彼の罪。カロスに毒の花を咲かせた罪。それを償うためにどれ程の時間が必要であるのか、無知な私には全く、想像もつかなかった。
けれど聡明なシアと、不思議な力を持つクリスさんにはおおよそのことが読めているらしく、クリスさんがふわふわとした笑みを湛えて「大丈夫ですよ」と告げた。

「貴方だけを悪者にしないための道具を、この子が揃えてくれているんです。貴方には……少し、酷なものであるのかもしれないけれど」

「どういうことですか?」

「カロスは美しい場所じゃなかったってことです」

フラダリさんの問いに、私の隣からそんな答えが差し出されたので、驚いてそちらに視線を向けた。
その、彼女に似たメゾソプラノで、けれど彼女とは一線を画した、氷のように冷たい響きでその言葉を言い放ったのは、彼女ではなくシアだった。
彼を真っ直ぐに見上げるその海の目は、まるで津波を起こさんとするかのように深く強く荒れていた。

「フラダリさん、貴方は正しかった。手段は少し過激だったけれど、でも私は貴方を責められない。私に同じ力があったなら、きっと私は貴方だった」

そこ、にかつての私に似た、いや、私よりもずっと強いカロスへの拒絶を見ることは驚く程に容易かった。
けれど私とは、激情の本質が根本的に違っている気がした。私は恐怖からカロスを拒んだ。けれど彼女はおそらく違う。シアのこれはきっと、憎悪だ。

「でも、当然のことだったのかもしれませんね」

そんな彼女の頭を、クリスさんは笑いながら「こら」と咎めつつ乱暴に撫でた。
撫でてから、くるりとフラダリさんの方へと振り返り、そんなことを口にしたのだ。

「だって、生きるってそんなに美しいことじゃないんだもの。醜くても、かっこ悪くても、それでも、生きていかなきゃいけないんだもの。
そういう意味ではカロスに殺されず、生き残った貴方達は正に勝利者です。胸を張ってカロスに戻ってください、フラダリさん」

その笑顔を私の方にも向けて、「頑張ったね、シェリー」と、まるで我が子を褒めるような声音でそっと囁くものだから、
この不気味で不思議で優しい女性の言葉がどうしようもない程に嬉しかったから、私はいよいよ、泣きたくなってしまった。
彼女の「頑張ったね」が、一度拒んだポケモンを再び受け取ったことでも、シアと再び言葉を交わしたことでもなく、ただ「生きている」ということを指しているのだと、
そのように理解してしまったから、生きていてもよかったのだと思えてしまったから、私は泣いてもいいのではないかと、思った。
けれどそれは、少なくとももう少し先の話だ。私はみっともない顔で皆と別れたくない。笑えるようになったのだから、笑って、別れたい。

アポロさんとクリスさんは、駅のホームを去りながら、何度も振り返って私の方へと手を振った。彼等は最後まで笑顔だったから、私も笑顔で振り返した。
やがて二人の姿が人混みに飲まれて見えなくなった頃、シアがフラダリさんに何かを囁いて駆け出した。
少し離れたところで小さな青い機械を取り出し、誰かに電話をかけているようだった。
それが本当に電話だったのか、それとも彼女の小さな嘘であったのか、確かめる術を私は持たなかったから、彼女の意向に沿うように、フラダリさんの方へと向き直った。

「わたしのことを忘れなさい、と言うことのできないわたしを、君は愚かだと思うか?」

「貴方を忘れたくないと言う私を、貴方は愚かだと言ってくれるんですか?」

おどけたようにそう言い返せば、彼は声を上げて笑い始めた。彼が楽しそうに笑ってくれることがただ嬉しくて、私も笑っていた。
「ああ、そうだ、そうだとも」と、まるで自らに言い聞かせるようなその声音の後で、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「仮にどちらもが愚かだったとして、我々の愚行を責める人間は此処にはいない。我々は、生きていていい」

私達は、どちらもが同じくらいおかしくて、どちらもが同じくらい愚かだったのだろうか。
こんなにも立派な人と、こんなにも臆病な私とが「同じ」だなんて、それこそ歪んでいると思った。けれどその「同じこと」を、もう私は疑えなくなってしまっていた。

 
「わたしも君もきっと愚かだった。だが決して間違いではなかった」
 

それを間違いだとしてくれる筈の彼が、こう言ってくれているのだから、もうその「同じこと」は、私にとって真実以外の何物にもなり得なかったのだ。
その愚かな共鳴が、彼の不在を繋いでくれればいいと思った。
私が愚かであったから、この人に出会うことが叶ったのではないかと、そう思えば私は、私のことが少し、ほんの少しだけ嫌いではなくなった。

彼はいつの間にか戻って来ていたシアに、「シェリーをよろしくお願いします」と告げた。
彼女は先程の激情をなかったことにするかのような、快活な、それでいて少しばかり得意気な声音で「はい、任せてください」と答えた。
シェリー、と彼は私の名前を呼ぶ。

「わたしが君の元へ戻るのを待っていてほしい」

「……待ちます。私、貴方にまた会える日を待つのが好きなんです。貴方に出会ったあの日から、ずっと、ずっとそうでした!」

彼の、重ねすぎて空になってしまった空気の色が、すっと細められた。
電車が出発の時刻を告げる。彼は踵を返して電車へと歩みを進める。彼はクリスさんやアポロさんのように、何度も振り返ることも、手を振ることもしなかった。
胸に手を当ててみた。心臓は驚く程に凪いでいた。私はこれから、彼のいない長い時を生きなければならない。これはきっと、その覚悟の音だ。

8両編成の列車が走り去った。彼の姿を見つけることはできなかったけれど、きっと電車に乗り込んだ彼からは、私の姿が見えていたのだろう。だから構わなかった。

隣で同じように彼を見送っていたシアに「行こう」と私から促した。彼女は驚いたようにぱちぱちと瞬きをしてから、ふわりとその表情を崩して大きく頷いた。
階段を上がり、別のホームへと向かった。ライモンシティへと向かう電車はまだ来ていなかった。
シアはポケットから小さな白い包みを取り出して「クリスさんからだよ」と私に持たせてくれた。
飴玉を包んだようなそれを開けば、中からとても懐かしいものが転がり出てきたから、私は思わず笑ってしまった。
それは私がまだ強情だった頃、一粒も食べることの叶わなかった砂糖菓子だった。名前は……思い出せないけれど。

「私、コーヒーを買ってくるね」

「え?シェリー、コーヒーを飲めるようになったの?」

「ううん、でも、これがあれば飲める気がするの」

開いた包みをシアに見せれば、彼女は「あ、和三盆!」と、歓喜の声と共に本当の名前を言い当てた。
得意気に笑う私のすぐ傍を、墨のような黒い髪を持つボブヘアーの女性が通り過ぎた。

2016.11.16

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