1-26

朝7時、フラダリさんに揺り起こされた。眠い目を擦って起き上がれば、もうすっかり髪を整えた彼と目が合った。
彼は私を起こす度に、こうして呆れたように笑っていたけれど、怠惰にも寝坊を繰り返す私を咎めたことはただの一度だってなかった。
もっとも、それは「彼」に限ったことではない。

クリスさんも、アポロさんも、シアでさえも、誰も私を責めなかった。
臆病で卑屈で怠惰で、それでいて悉く卑怯な逃避と拒絶を貫き続けていた私を、誰も、一度も叱らなかった。
最初はその、気持ちが悪い程の肯定が恐ろしかったのだ。ついに私は見限られたのだと、放任されたのだと、だから貴方達は私に優しくなったのでしょう、と。
そうしたことばかり思って、恐ろしくて、私はただただこの部屋に、このベッドの上に閉じこもっていた。恐怖は私の心を凍り付かせ、眠りを奪った。
彼等の言葉をそのまま受け取り、私の平安とする。ただそれだけのことに2か月を要した。私はひどく生き難い性格をしているのだろうと思った。
そんな「生き難い」私を、けれど誰も責めなかった。努力をしない、怠惰で卑屈な私は、しかしこの、あまりにも優しい温室において悉く許されていたのだ。

そして今日、私はこの温室を出ていく。

「おはようございます」

「おはよう、シェリー!おはようございます、フラダリさん!丁度、トーストが焼けたところなんですよ」

「いいタイミングですね。コーヒーとオレンジジュースで構いませんか?」

「ええ、お願いします。君もそれで構わないね?」

朝の挨拶を、大きな声で告げられるようになったのはつい最近のことだ。私は消え入るような情けない声音を捨て始めていた。
この人達に、私の全てを許してくれた大好きな人達に、少しでも多くの言葉を伝えたいと思ったのだ。
そんなこと、今まで一度たりとも考えたことがなかったのに、おかしな話だと思った。私は悉く異常になりつつあった。
……もっとも、今までの私が異常だったのか、それとも今の私が本当におかしいのか、頭の悪い私には、判別する術などないのだけれど。

私はいつだって、消え入りそうな声音を操っていた。相手が聞き取れないかもしれないと危惧する程度の小ささを、しかし私は決して手放さなかった。
聞こえなければいい、と思っていたのだ。そうして私の言葉など皆、忘れてしまえばいいと思っていた。
言葉は恐ろしく、それによって私が嫌われることはもっと恐ろしかった。嫌われるくらいなら忘れ去られてしまえばいいと思った。私のそうした逃げ癖は、声にさえ表れていた。

3つあるジャムの瓶からブルーベリーのジャムを選び取ると、向かいの席に座っていたクリスさんが、ぱっとその顔を輝かせた。
「それ、私が作ったのよ!」と、至極嬉しそうにそう告げるものだから、思わず微笑ましくなって笑うと同時に、
店で売られているようなそれと遜色ないものを作ることのできる、彼女の器用な料理の腕にただ、感動した。

「ブルーベリーは初秋に取れるの。もう随分前に取れたものを凍らせておいて、時間のある時にお砂糖と一緒に煮たんだよ」

「……もしかして、あの木がブルーベリーの実をつけていたんですか?」

私はそう言って、リビングの方にあるチェストを指さした。以前からそこには、二つの小さな鉢が置かれていたのだ。
鉢に植えられた手の平程度の大きさの樹木は、しかしその葉を青々と茂らせるばかりで、全く花を咲かせる気配を見せなかった。
もしかしたら、私達がやって来た頃にはもう既に花や実の季節を終えてしまっていたのかもしれない。そう思ったのだけれど、クリスさんは笑いながら首を振った。

「ううん、あれはまた別の花なの。……ほら、コガネシティの道路にはあの葉っぱと同じ色をした植え込みがいっぱいあるでしょう?」

「あの塀のような植え込みはこの樹木だったのですね」

「ふふ、そうなんです。あの植え込みは、5月になると一斉に花を咲かせるんですよ」

コガネシティの大きな通りには、確かに彼女の言う通り、鮮やかな緑の茂った、私の腰の高さ程度の樹木が、まるで塀のように綺麗に切り揃えられてずらりと並んでいた。
けれど、あの樹木に「花」が咲くなどという、そんなことを全く想定していなかったし、
あの、ただ生い茂るしか能のなさそうな植物に花が実ったとして、それはあまり美しいものではなさそうだとさえ思ってしまったのだ。
もしかしたら「花」というのは、この不思議で夢見がちな彼女の、空想のような存在であるのかもしれなかった。

「赤と白の花を咲かせるの、とっても綺麗な春の一等星よ。
あの2本の木は、その通りの植え込みを選定していたおじいさんから譲ってもらったの。名前は……あれ?何だったかしら。アポロさん、覚えていますか?」

「貴方が忘れていることを、私が覚えている筈がないでしょう」

呆れたように笑いながら、アポロさんはコーヒーをぐいと飲み干した。クリスさんも困ったように首を捻りながら、同じようにコーヒーの入ったマグカップを両手で抱えた。

「また、フラダリさんと一緒に見に来るといいよ。本当に、とっても綺麗だから!」

本当に、と念を押されて、私は思わず笑った。
ああ、この女性には私がその「花」を疑っていることまで読まれているのだと、そう思っていよいよおかしかったのだ。
けれど私はこの、不気味で不思議な女性を嫌えない。恐ろしく、気味の悪い、夢見心地な少女のようなこの女性を、軽蔑することなどもうできない。
私は臆病で卑屈で、どうしようもない人間だけれど、それでもこの女性に貰った大事なものを全て忘れて、ただ彼女を蔑視することなど、できやしない。

「貴方が此処での生活を忘れた頃に、またおいで」

「!」

「ふふ、忘れることなんかできないって思う?大丈夫よ、人は忘れる生き物なんだから。
人は自分が苦しんでいることを忘れることができるけれど、自分が幸せだってことも簡単に忘れてしまうの。人はそうした、業の深い生き物なのよ。そして、それでいいんだよ」

私に大切なものを沢山、沢山与えてくれた彼女は、しかしその全てを忘れてもいいと告げて笑う。忘れることが当然なのだと、まるで世界のルールを読むようにそう語る。
嫌だ、と思った。私は忘れたくない。私は此処での全てを覚えていたい。
けれど全能である筈の彼女がそれを「不可能」だと言ったのだから、やはり私はその全てを忘れていくのかもしれなかった。
それは恐ろしいことだったけれど、けれど私を絶望せしめるものでは決してなかった。それでいいのだと、やはり彼女は許すように笑ってくれたからだ。

「だから、今すぐには無理でも、貴方はまたカロスで暮らせるようになるわ。辛いこと、貴方は必ず忘れられる。
いつか、貴方を苦しめたあの土地で、貴方の大好きな皆と、楽しいことをしてごらん。
貴方は笑ってあの町を歩けるようになっているから。貴方は何処でも、生きる場所を選べるようになっているから」

そんなことあり得ない、と反射的に大きく首を振った私を、それすらも許すように彼女はクスクスと笑った。
カロスを楽しむなんて、今の私には到底、不可能なことのように思われた。不可能であるようなことを可能にするには、途方もなく長い時間が必要であるように思われた。
そして彼女にはきっと、その「途方もなく長い時間」が見えている。その長い時間の果てに、私がそうなることを解っている。
これはきっと、不思議な力を持った彼女の、旅立つ私へのささやかな予言であり、餞別だ。

「わたしも、その花を見てみたくなった」

「え……」

「共に見に来よう。いつになるかは解らないが、少なくとも5月に来ればその花は咲いているようだから。1年後でも、2年後でも、花は咲くだろうから」

そして彼もまた、クリスさんに倣うようにして未来の話をする。
まだ姿も形も知らないその花は、1年後も2年後も、きっと何十年も先にだって咲くのだろう。
だから私達がその花を、「とっても綺麗な春の一等星」を見るには、ただ、二人でこの町に来るだけでよかったのだ。

「私も、貴方とその花を見たいです」

こうして私は、ささやかな未来の約束を彼と交わした。
可愛らしく小指を立てる、などということはしなかった。隣で穏やかに微笑む彼を、真っ直ぐに見上げるだけでよかったのだ。
それだけできっと通じるのだと信じていた。思い上がっていた。だってきっと、こうした約束の交わし方の方が私には相応しい。
だって、言葉に怯えなくなった私は、恐れることなく大きな声を出すことができるようになった私は、彼がくれた言葉の全てを覚えている。

『君は、前を向いている方がずっといい。』
貴方のかけがえのない言葉を、私はもう恐れない。

「おはようございます!」

玄関の方向からシアの声が聞こえてきた。クリスさんは満面の笑顔で「はーい、今行きます!」と告げて席を立った。
アポロさんは食べ終えた食器を片付け始めた。フラダリさんもお皿を重ね始めた。私は慌ててオレンジジュースを飲み干して、……二つ並んだ鉢を、そっと見つめた。
春に星のような花を咲かせるというその木は、しかしこれからの寒さを恐れるように、凍える冬に怯えるように、寄り添って、時を進めることを躊躇っているように思われた。
私はアポロさんにも、フラダリさんにも聞こえないくらいの小さな声で、そっとその鉢に囁いた。

「また、貴方に会いに来てもいいですか?」


2016.11.17

© 2021 雨袱紗