14:安楽椅子探偵(8.5)

ミアレシティのとある病院、その5階に彼女の部屋はあった。
絶対安静を告げられている筈の彼女はしかし、その日の夕方、点滴台に寄りかかるようにしてそっと病室を抜け出した。
エレベーターに乗り込み、1階のボタンを押す。カラカラとキャスターが回る音を聞きながら、少女は一歩、また一歩と足を踏み出す。
自動ドアがその華奢な体を認識して無機質に開く。久し振りに浴びた日の光すら、彼女の身を軋めるに十分だったようで、少女は眩しさと痛みに目を細める。

シェリー

しかし自分の名前を聞いた瞬間、少女は痛みを忘れたかのようにぱっと顔を上げて微笑む。
声の主は長すぎる影を引きずって歩いてくる。傍らに漂う小さな花のポケモンは、心配そうに少女を見つめていた。

「こんにちは、AZさん」

その声は弱々しく、そして掠れていた。AZと呼ばれた男は自らの耳に届いたその音に眉をひそめる。
本来なら、男が少女の病室に赴くべきだったのだろう。けれどその大きな身体は病室の廊下を渡ることも、エレベーターに乗ることもできない。
故に少女の方から赴くほかなかったのだ。逆に言えばその病に蝕まれた体を引きずるようにしてまで、男に会わなければならない理由が少女にはあったのだ。
少女は握り締めていた白い便箋を男に渡すために手を伸べようとした。けれど思うように腕は上がらず、困ったように微笑むだけだった。
男はその、3mはあろうかという程の長身を折り曲げ、少女の細い枯れ木のような手から便箋を受け取る。

「これが最後の手紙です」

男は小さく息を飲んだ。息を飲んで、ああ、それも仕方のないことなのかもしれない、と思い直した。
少女は寄り添い続けたその花に完全に毒されていた。あの常軌を逸した花の兵器は、じりじりという命を焦がす音を持ってして彼女を死へと誘い続けていたのだ。
ただし、それはきっと真実の半分でしかない。

「お前に聞いておきたいことがある」

AZの言葉に少女はそのこけた頬を僅かに動かし、微笑んだ。
最後の手紙だと少女が言った通り、おそらくもう二度と、少女と男が顔を合わせることはないのだろう。
命のダイヤグラムは限界まで焼き切れていた。だからこそ今、少女しか知らない真実を確かめておかなければならなかった。

「確かにあの花は、生命にとって悪影響を及ぼす光を含んでいた。不用意に触れたりすれば、その光を直接浴びてしまう。
だからこそ、ずっと地下に隠して、誰の目にも触れないようにしていた。それは認めよう」

「……」

「だが、それだけではお前に巣食った不治の病の説明がつかない」

そう、誤ってあの花の光を浴びてしまったのは、何も少女だけではないのだ。
最終兵器の研究を進めていたフレア団の研究員や科学者も、何かしらの影響を受けていなければならない。
しかし、元フレア団の団員が原因不明の病に侵されているという情報は、AZの耳には入っていなかった。
いくらあの光が、命を焦がす音を立てていたとしても、それがここまで顕著に、そして急激に現れる筈がないのだ。

何故、この少女だけが、ここまで顕著にあの花の影響を受けたのか。
AZはその理由をずっと考えていた。しかしどの推測も推測の域を出ることはなく、証拠も少女の肯定も得られないまま、長い時間が過ぎようとしていた。
しかし、たった一つの仮説だけが。AZの中にずっと残っていた。そして、それを確認するための機会は、今を逃せば二度と手に入らない。

「お前はイベルタルにその命を捧げていたのか?」

その言葉に、少女の鉛色の目が少しだけ見開かれた。
しばらくの沈黙の後で、その折れそうに細い首がこてん、と右に曲げられる。そしてふわりと微笑む。
肯定も否定もしなかった彼女のその笑顔は、しかし何よりもその真実を雄弁に語っていた。

「……何故」

それは殆ど無意識に発せられた言葉だった。
消え入るように紡がれた男の問い掛けを、しかし少女は聞き逃さなかった。「私のできる唯一のことだったんです」と、昔を懐かしむように目を細めて紡ぐ。

「フレア団の人達が彼の命を吸い取って最終兵器を動かしたのだから、同じ人間である私がその埋め合わせをしたとして、それはおかしいことじゃありませんよね?」

AZは思わず顔をしかめた。少女はクスクスと笑ってから痛みに眉をひそめた。
自己犠牲が過ぎる少女の行動に眩暈がした。
あの男は何をしていたのだ。止めなかったのか。AZはそう思ったが、やがて一つの可能性に辿り着く。

「そのことを、フラダリには告げていないのか」

少女は小さく頷く。何故、と今度はAZが尋ねる前に彼女は口を開いた。

「悪いのは、あの花だということにしておいてください。そうすればきっと、フラダリさんは二度とあの花を咲かせようとはしないでしょうから」

「……そのために、お前は自らの命を捧げたのか?お前の命は、あの男の過ちを止めるためだけのものだったとでも言うつもりか?」

「私は何もかものために生きられる程、器用な人間ではないんです」

つい早口に問い詰めてしまった男に、少女はきっぱりと断言する。
男は思わず周りを見渡した。

少女を知る人間は、5年前ならそれこそ星の数ほどにいた。
カロスを救った英雄を祝うパレードで、この美しい土地に住む人間は少女のことを認識し、称え、慕った。
しかし今はもう、少女に声を掛ける人物はいない。カロスで出会った全ての人物の縁を切り、少女はただ一人に寄り添い続けたのだ。
彼女に親しい人間は今も彼女を探し、思っている。けれどその誰もが彼女を見つけられない。
少女の病室に見舞いに懸け付ける人物も、彼女を気遣う人間も、あの男を除けば誰もいない。

忘れられることは緩慢な死を意味するのだといつか少女は言った。
全ての人間に忘れられ、全ての人間に存在を殺された自分のことを、少女は嘆かない。悲しまない。
まるでそれが自分の望んだことだとでもいうように穏やかに、今もこうして微笑んでいる。自分は皆に殺されたかったのだとでもいうように、とても楽しそうに声を紡ぐ。

ただし、その声は弱々しく、掠れていたのだけれど。全ての人間に殺された彼女は、最後の仕上げだと言わんばかりに緩慢に、その身さえも殺してしまおうとしていたのだけれど。

「私のような人間には、与えられたこの一生は長すぎたんです」

「……そう、か」

「だから、あの人のためにこの一生をこんなに短く終えられること、とても嬉しく思っていますよ」

本当に嬉しそうに笑った少女に、AZはいよいよ困り果てたように溜め息を吐いた。
この少女の本音をあの男は知らない。少女が自分の身さえも男に捧げようとしていたのだと、男が知ることはきっとない。
大きすぎるその隠し事を知ってしまった身として、AZはもう一つだけ聞いておかなければならないことがあった。
もっとも、それは既に明らかになっていたことなのかもしれないけれど。そんなことを聞くのは、野暮以外の何物でもないのかもしれないけれど。

「フラダリを愛していたのか?」

少女は息を飲んだ。沈んでいく太陽がぴたりと止まった気がした。
けれど次の瞬間には、ふわりと花を咲かせるように微笑んだのだ。

「これを愛と呼べる貴方だから、フラエッテを蘇らせることができたんでしょうね」

その言葉にAZはようやく気付く。自分はまだ少女に許されてはいなかったのだ。
自分だけではない。あの最終兵器を起動させた男のことも、少女に全てを押し付け、称え、慕ったカロスの人々のことも、少女は誰一人許してなどいなかったのだ。
だからこそ、5年も時間を共に共有した男が「またあの花を使わないように」と此処まで大きな隠し事を重ね、AZの3000年前の愚行を暗に責めている。
更にはフレア団がしたことへの責任を取るように、その組織に利用されたポケモンに自らの命を捧げ続けていたのだ。

見事だ、とAZは思った。少女は自らの身を文字通り犠牲にして、その上で全ての人間を責め続けていたのだ。そしてその目論見は悉く成功した。
少女を失った人間は悲しみに暮れ、あの男はかつての愚行をこれ以上ない程に悔いている。AZの心に刻まれたその静かな叱責も、きっと消えることはないだろう。
何より、彼女はカロスの人間に忘れ去られてなどいない。彼女はそれを望んでいたのかもしれないが、それは真実ではない。
ただ、見つけることができないだけで、シェリーという少女の存在は今も彼等の中に生き続けている。
忽然と姿を消したカロスの小さな英雄のことを、きっと誰もが忘れることなどないのだろう。


少女はその命をもってして、永遠に消えない刻印をカロスに刻んだのだ。それを「愛」と呼ばずに何と呼べよう。


「でも、フラダリさんのことは、とても愛しいです。これを愛と呼ぶには、少し、歪み過ぎているかもしれないけれど」

花を咲かせるようにして少女は笑った。男は受け取った手紙を思わず強く握り締めた。


2015.3.16
(いいえ、歪んでなどいなかった)

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