朝、フラダリは7時に目を覚まし、朝食の準備をする。フレア団のアジトの奥、居住スペースでの生活をひっそりと続けてもう5年が経った。
トーストを焼き、サイフォンでコーヒーを入れ、その間に洗顔と着替えを済ませる。
冷たい水を顔に浴びせ、意識が覚醒したその目で鏡をそっと睨みつける。ああ、今日も一人なのだと思い至る。
林檎のジャムをトーストに塗り、席に着いて少しだけ食べる。さくっという独特の音が食欲をそそる筈なのだが、特に何の感慨も沸かない。
コーヒーを飲みながら外を見遣る。そろそろ気が早い子供はやって来る頃かもしれない。
フラダリは朝食を片付け、一人目の訪問者がやって来る前にと紙袋から1通目の手紙を取り出す。
夜が明ける前に全ての手紙を読み終え、床に就いたフラダリだが、やはり習慣とは恐ろしいもので、たった2時間しか眠っていなくともいつもの時刻には目が覚めてしまうらしい。
60通の手紙を、1か月ごとの日付が振られたその手紙を、フラダリは昨夜から今朝にかけて、一気に読んでいたのだ。
誤字が多く、お世辞にも丁寧とは呼べないその文字、濃い筆圧で書かれたその言葉。
しかしそれらは確かな温もりをもってしてフラダリの胸を貫いていた。そして、数多の疑問をフラダリの胸に落としていった。
『私をシェリーと呼ぶのは貴方だけ。そうすることで、私は目的の一つを達成することができるから。』
『それから、私は貴方に幾つか隠し事をしています。』
『この間、あの白い病室で話したのは、その真実のほんの一部にすぎません。』
彼女の目的とは、何だったのか?
フラダリだけが彼女の名前を呼ぶという、その事実は彼女にとって何を意味するものだったのか?
彼女はフラダリに何を隠していたのか?
あの病室での彼女の告白、その裏には、どれほど大きな真実が隠れていたのか?
『どうか見抜かないでください。私の臆病で卑屈で、けれどとても欲張りなこの選択を見抜かないでください。』
『私は私のやり方で、私の欲しかった全てのものを手に入れます。私は彼女とは異なる欲張りで、私が守りたかった全てのものを守ります。』
彼女は何を見抜かれることを恐れていたのか?何を強く欲していたのか?
全てを捨ててフラダリとの時間を選んだ筈の彼女が、そうすることで何かを手に入れ、守ったのだとしたら、それは一体何だったのか?
彼女は何をもってして、自身のことを「欲張り」だとしたのか?
『貴方のことが好きです。だから、これ以上生きられなかった。』
この言葉は、何を意味しているのか?
「……」
解らないことがあまりにも多過ぎたのだ。
もう提出を許されない宿題のように、ピースが一枚だけ欠けたパズルのように、答えのない問題のように、それらの言葉はフラダリの心をじりじりと締め上げていた。
解らない。何も解らない。
フラダリは「彼女」と、重要なことは何も話さずに5年間を過ごしてきた。二人が向き合って大事な話をしたことなど、本当に数える程しかなかったのだ。
それは明日の天気のことであったり、年の変わり目にカレンダーを新調することであったり、次の週末に向かう旅行先のことであったりと、様々だったが、
そのどれにも、二人がこうして時間を共有するようになった経緯や理由、互いの想いなどは全くと言っていい程に含まれていなかったのだ。
二人は他愛もない話に慣れ過ぎていた。それは永遠という月日への傲慢さから生まれた怠慢だったことは否定できない。
「彼女」がフラダリと毎日を共にしながら、しかし何か憂いを残していることは解っていた。
全てを捨てて貴方を選んだのだと言いながら、何か別のことに未練を残しているような表情を時折、フラダリは見つけていた。
あの時、問い掛けておけばよかったのだ。彼女の心の深淵を覗こうと、その一歩を躊躇いなく踏み出せばよかったのだ。
しかし、そうできなかった。それはフラダリが持つ永遠という名の傲慢が故に他ならない。
こうした機会はいくらでもやって来るものだと踏んでいた。否、永遠という武器がなくとも、そう確信してしまうことができたのだ。
二人の時間は変わりなく、これから何十年も続くものと確信していた。
それこそ「彼女」が契約と称した30年が来るまでは、決して彼女はいなくならないものと思っていたのだ。
そうした距離に二人はいて、そうした時間を重ねてきた筈だった。
そうした想いなどの踏み込む余地のない、大きすぎる理によって、その時間が切り裂かれるなどと、考えもしなかったのだ。
その傲慢が故に「彼女」の真実を突き止める機会を失ったフラダリに、もう打つ手はないように思われていた。
けれど60通の手紙を読み解く中で、フラダリはたった一行の希望を拾い上げていた。
『貴方の永遠に、真実が届くことを祈っています。』
他の不思議な言葉と同様に、この一文もフラダリには理解の及ばないところで展開されていた。
けれどこの一文が、「生きていれば真実が見えてくる」ということを示唆しているような気がしたのだ。
それはフラダリの傲慢な解釈だったのかもしれない。けれどそれが何だというのだろう?
もう「彼女」は現れない。真実はもう此処にはない。
それならば、この一文に前向きな解釈を当て嵌めたとして、そうすることでフラダリが少しだけ、生き続ける意欲を取り戻したとして、誰が彼を責めることができるだろう。
寧ろ失ったものを受け入れる過程とは、そうしたところにひっそりと溶け込んでいるものなのではないだろうか。
「おじさん、おはよう!」
そんなフラダリの思索を掻き消すような大声で、今日も子供達がやって来る。
本名を明かすことなく、専ら「おじさん」として親しまれている彼は、やって来た5人の子供に順番に挨拶をした。
ポケモンバトルの指導をしたり、タイプ相性や特性を教えたりと、小さな新米トレーナーを中心に据えた生活はこうして過ぎていく。
5年前は想像もしなかったささやかな生活だが、フラダリは満足していた。
この穏やかな暮らしの中で、少しずつ、自身が失った大きすぎる存在を受け入れていけばいい。そう思っていた。
解らないことが多すぎる、そんな絶望の中でも、子供達の声はフラダリに生きる意味を与えるに十分な響きを持っていたのだ。
何より、この子供達と関わるこの場所は、他でもない「彼女」の発案により作られていた。
故にフラダリがこの時間に彼女の面影を見たとして、穏やかに微笑むことができたとして、それは当然のことだったのだ。
ラルトスを捕まえるのに、どのボールを使えばいいの?岩タイプにヒトカゲで勝つには、どんな技を覚えさせればいい?おじさん、次はいつバトルをしてくれるの?
子供達の質問をフラダリはいつものように宥め、「一つずつ順番に聞こう」と笑顔で返答する。
彼等はいつものように頷いてくれたのだが、背の低い少年が何かを気に掛けたようにフラダリの服の裾を引っ張る。
この引っ込み思案な子が自らフラダリに話し掛けることは稀だったため、彼は「どうした?」と屈んで少年に聞き返す。
「おじさん、カフェの扉に手紙が貼られているよ」
「手紙……?」
フラダリの住居にもなっているこのカフェには、当然のようにポストが設置してある。にもかかわらず、手紙が扉に貼られていたとはどういうことだろう。
フラダリは怪訝に思ったが、大方、ポストに手の届かない子供の仕業かもしれない。
少年に「知らせてくれてありがとう」とお礼を言い、フラダリは席を立ってカフェの扉を確認に向かう。
たまにこうした、悪戯とも取れることをしでかす子供がいるのだ。大抵の場合、それが誰の仕業であるかは容易に想像が付く。
悪戯をしでかした子供というのは、自らの悪戯を見抜いてほしくて仕方のない表情をしているからだ。期待を込めた目で見上げる子供を探せば十中八九、見抜ける。
だが、今回ばかりはそうはいかなかった。これは悪戯とかそうした次元を通り越しているのだと直ぐに分かったのだ。
何故ならその手紙は、たった今までフラダリが読んでいたものと同じ便箋の形でそこに貼られていたからだ。
「……何故、」
フラダリは衝動のままにその手紙を勢いよく剥がした。
……見間違える筈がない。薄いオレンジ色の、端に小さな花が描かれたその便箋は、昨日からずっと読んでいたあの手紙を包んでいたものと同じだった。
裏を見れば、宛先として自分の名前が書かれている。それも偽名ではない、本名の方だ。
『フラダリさんへ。』
その字を、フラダリは知っていた。濃い筆圧で書かれた、少しだけ荒っぽいその字の主を、フラダリは誰よりも知っていたのだ。
その下には、今日の日付と、存在する筈のない人物の名前が飛び込んでくる。
『シェリー』
フラダリは手紙の存在を教えてくれた少年の肩を強く掴んだ。
あまりの勢いに少年の目が大きく見開かれる。
「誰か、いなかったのか!この手紙を誰かが貼っているところを、君は見なかったのか!?」
その剣幕に少年が怯えていることは解っていた。けれどフラダリは止められなかった。
やがて少年が僅かに首を振るや否や、フラダリはカフェを飛び出し、大通りへと駆けた。
意味もなく走った。息が切れるまで足を動かし、探していた。見つかる筈がないのに。何処にもいる筈がないのに。
息をすることを止めてしまった「彼女」を、骨と灰になってしまったその愛しい存在を、フラダリは見届けた筈なのに。
『だから、また会えるかもしれませんね、フラダリさん。』
それなのに、何故、君はわたしの元へやって来たんだ。
2015.3.30