8.6:指が解けるまで、どうか

※曲と短編企画2、参考BGM「Alice」

泣き腫らしたその目は、いつか光を得ることを止めてしまいそうにも見えたのだ。

「フラダリさん、そろそろ泣くことを止めないと、貴方の目が見えなくなってしまいますよ」

少女は心配になって思わずそう紡いでいた。弱々しいその声音は、しかし男の鼓膜と確かに震わせ、涙に濡れたその顔を上げるに至るのだ。
クスクスと笑い始めた少女だが、やがて痛みを感じて眉をひそめる。病は確実に少女の体を蝕んでいたのだ。それこそ、笑うだけで体の節々が軋んでしまう程に。
その姿に男は益々耐えきれなくなって、再び俯こうとする。けれど少女は痛む手を男の頬に伸べて、そっと自分の方へと向かせたのだ。

彼は泣き続けていた。

「ねえ、フラダリさん。もう泣くのは止めませんか。
私のために泣いてくれているのはとても嬉しいけれど、いつまでも泣き続ける貴方を見るのはとても悲しいです」

「……君が、そうさせているんじゃないか」

「フラダリさん、私を咎めたところでもうどうしようもないんですよ。もう私の身体は治療の施しようがないくらい弱り果てているんですから」

おどけたように笑うことすらもできない。そんなことをすれば四肢が悲鳴を上げることを知っているからだ。
故に少女は目を細め、その唇に薄く弧を描くだけに留めておいた。
男はそんな少女の一部始終を見届けて、そして、小さく言葉を紡ぐ。

「君を責めているんじゃない、君を止められなかったわたしを責めているんだ」

「だからそうやって泣いているんですか?」

その言葉には淡い叱責の色が含まれていた。男は少しだけ驚いたように目を見開く。
男の目は淡く青い。重ねすぎて空になってしまったような空気の色をしている。
泣き腫らしたことによって、その目は夕焼けの空を映したかのような複雑な色をまとっていた。
少女は男の目が好きだった。熱く燃えさかる炎のような彼に根付く対極の穏やかなその青を、少女はとても気に入っていた。
だからこそ、その目を一秒でも長く見ていたくて、少女は彼の顔を上げさせたのだ。

「どこでどうすれば私を止められたのかと、何度も何度も過去のシミュレーションを重ねているんですか?
そんなパズルは不毛だということに、賢い貴方は気付いている筈なのに?」

ねえ、お願いします。そんならしくないことをしないでください。
どんなに最善のルートを導き出せたとしても、そこに私はいないのだから。
私は過去に戻ることはできないのだから。私の運命はもう既に袋小路になっているのだから。私がそれを望んだのだから。
その本当の理由を、まだこの人には明かさないつもりだけれど。

そんなことを思いながら少女はやはりおかしくてクスクスと笑う。直ぐに体が軋みを訴えて、小さく悲鳴が上がる。
華奢という言葉すら大きすぎる程に痩せ細った肩を、更に細い枯れ木のような手で抱きしめようとして少女は背中を折る。
男は咄嗟に椅子から立ち上がり、そんな彼女をそっと支えた。しかし触れたところからも痛みが伝わるらしく、少女は益々その顔を青ざめさせた。
慌てて手を引く男は、そのやるせなさに眩暈がした。自分はこの少女の体を支えることも許されないのだ。

鎮痛剤の類は、とても控え目な量で投与されていた。
体の痛みを和らげるための薬、及び治療の進歩は凄まじいものがあった。その全ての恩恵にあやかれば、少女がこんなに苦しむ必要などないのだ。
しかし彼女はそれを望まない。寧ろ「最低限の鎮痛剤しか認めない」とでも言いたげな気丈な目で、その殆どを拒んだのだ。
とっくにその痛みは、少女が耐え得る限界を超えている筈だった。
けれど少女はその痛みを和らげるための手段に縋らない。少女は痛みの緩和を認めない。
男がこの状況に絶望し、泣き続ける理由は此処にもあったのだ。

痛みに軋む体を抱えながら笑う少女を見るのが耐えきれなくて、男は以前、少女に隠れて鎮痛剤の投与を医師に頼んだことがあった。
けれど彼女は、次の日にこっそりと追加された点滴の存在に気付いていた。そしてその翌日には、少女が拒んだのだろう、その鎮痛剤の投与はされなくなっていた。
そして彼女は男を蔑むような目で見据え、それでいて口元に弧を描き、こんなことを告げたのだ。

『フラダリさん、私を気遣ってくれてありがとう。でも次に同じようなことをしたら、私はその翌日には死んでしまっていると思ってください。』

私を少しでも長く生かしておきたいのなら、この光景を受け入れてください。私の自殺を止めたいのなら、何もしないでください。
男には少女が暗にそう言っているように思われたのだ。こうして、男が少女のためにできることは、一つ、また一つと減っていった。

大きすぎる理が、誰も逆らうことの許されない理が、ゆっくりと二人を引き裂こうとしている。
少女は受け入れている。男は受け入れた振りをすることすらできない。

「ねえ、フラダリさん。何も悲しむことなんてないんですよ。人はいつか死んでしまうんですから。貴方は、違うかもしれないけれど」

「……早すぎる。君はもっと長く生きていい筈だった」

「それを、私が望んでいなかったとしても?」

そう、この少女は生きることを望んでなどいなかったのだ。もうずっと前から、少女には死への展望があった。
その本当の理由は少女しか知らない。
自らあの花に触れ続け、命をじりじりと擦り減らし、延命治療も鎮痛剤の投与も全て拒んで、その痛みと苦しみを罰のようにその身に受け続ける、その動機を知る者はいない。
少女の真実は、少女しか知らない。そして彼女は、その真実の欠片さえも男に見せることなく命を終えようとしている。
もし今、少女がぱたりと息の根を止めてしまったら、男には絶望と自責の念しか残らない。

「わたしに出会わなければ、きっと君は今の何倍も生きていられたのだよ」

「それじゃあ貴方は、私が貴方に出会ったことを悔いているとでも思っているんですか?」

少女の疑問符は柔らかな叱責の色をもってして男の涙を拭い続けていた。

……そう、少女は一度も、この男との邂逅を悔いたことなどなかったのだ。
彼に出会ったからこそ、少女はこの慣れない土地での旅を続けることができた。彼の存在は臆病で気弱な少女の背中を押し続けていた。
ホロキャスターにやって来るメールは、旅をしていた少女の宝物だった。難しい言葉で難しいことを問いかける、この人のことを知りたいと思い始めていた。

シェリー、それなら教えてくれ。わたしは何をすればいい?」

けれど少女はこの男を選ぶことができなかった。少女は男を一度は裏切った。だからこそ少女は、永遠の命を宿した彼と生きることを誓ったのだ。
それがどんなに短い時間であったとしても、それでよかったのだ。少女は何一つ、後悔などしていない。
一つだけあるとすれば、まだ彼が泣き止んでくれないという、ただそれだけなのだ。

「悔いることも、君の痛みを和らげることも許されないのだとしたら、わたしは君に何をしてあげられるというんだ」

その言葉に少女は、本当に嬉しそうに微笑む。

「手を、握ってください」

男は思わぬ要求に言葉を詰まらせる。
触れただけで痛みが生じる今の少女の、その細い手を握ることは本当なら間違っている。
けれど正しいか間違っているかなどということは、もう関係がなかったのだ。それを少女が望んでいるという、その事実だけで十分だった。
男は少女の右手をそっと握った。氷のように冷たい少女の手に、少しでも命の温度を伝えようとして、男は両手でその小さな指をそっと包んだ。

「ありがとう」

少女の頬を涙が伝った。
どんな痛みにも決して涙を零さなかった彼女が、望んだ手の温もりに泣いていた。
男は驚きに目を見開く。そして静かに、問い掛ける。

「……痛くはないのか」

「いいんです。だってこんなにも温かいから」

フラダリさん、と呼ぶその声は遠い。


「お願い、もっと強く、強く握って」


2015.3.19
まるめるさん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

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