8.4:愛のダイヤグラム

※曲と短編企画、参考BGM「鳥籠-in this cage-」

「覚えていますか?私に素敵なカサブランカの花束を買ってきてくれた日のことを」

そう告げる少女の声は、かつてフラダリをそのポケモン達で打ち負かし、ポケモンリーグのチャンピオンになった人物とはとても思えない程に弱々しく、掠れていた。
その手は驚く程に白く細く、豊かにその背中へと流れていたオレンジ色の髪は、その色を失い元のストロベリーブロンドとなり、しかしその色すらも褪せている。
ライトグレーの瞳はもう光を湛えない。少女はその目に希望を映さない。フラダリの懇願が、少女に届くことはもうない。

カロスでできる治療は全て施した。その為の金額も全て用意した。
しかし、あまりにも遅すぎたのだ。原因不明のその病は、もう取り返しがつかない程に少女の身体を蝕み、その命を暗い道へと誘い込んでいた。
フラダリには決して辿り着くことのできない「死」という終焉が少女に手招きを繰り返していた。そして少女はその呼び声に抗わない。

カントー地方に向かえば、カロスよりも最先端の優れた治療を受けられる可能性がある。
もっと多くの医師に助けを請えば、一つくらいは有効な治療法が捻り出されるかもしれない。
フラダリは何度もそう言って少女を頷かせようとした。けれど少女は、もうとっくに諦めていたのだ。
そこには少女らしからぬ覚悟の色が潜んでいた。

『最初からです。』
いつからその病が自分の身を蝕んでいることに気付いていたのかを尋ねた時、少女は悲しそうな笑顔でそう紡いだ。
その言葉はフラダリの記憶を5年前のあの日に遡らせた。
5年前、自分がカロスを一新させようとしたあの日。地中深くに埋まっていた、大きな毒の花を咲かせ、その手でカロスを変えようとしたあの日。
フラダリはその花の近くで光を浴び、永遠の命を手に入れてしまっていた。3000年前の王と同じ業を背負い、生き続けることになってしまったのだ。
彼はそれを悔いてなどいなかった。それが世界を強引に変えようとした男の末路であるならば、それもいい気がしたのだ。

そんなフラダリを、少女はずっと探していた。
毎日のようにセキタイタウンの最終兵器があった跡地へと向かい、岩や瓦礫をポケモン達の力を借りて取り除きながら、奥へ奥へと進んでいた。
しかし少女はフラダリよりも先に、最終兵器の怪しい光を放つ花を見つけてしまう。

命の焦げる音がしたんです。

その時のことを少女はそう告白した。
ポケモンの命を吸い取り、近くにいる者に分け与える、信じられないような力を持つその花は、咲くことを止めてしまった状態でも凄まじいエネルギーを秘めていた。
それこそ、触れた者をただでは済ますことのできない程の、命のダイヤグラムを歪めてしまう程の強いエネルギーが。
少女は火傷しそうに熱いその花に触れ、じりじりと自らの命を焼き焦がす音を聞きながら微笑んでいたのだ。

それだけの絶望を与えたのが自分である、という確信は、フラダリに初めて己の行いを後悔させた。
けれどフラダリが後悔した時には、もうその後悔の必要はなくなっていたのだ。少女は全てを諦めていた。
それこそ、5年前のあの日から。フラダリを見つけたあの日から。「私と生きてください」と、その目をもってして懇願したあの日から。
そう、何もかもが遅すぎたのだ。

それでも男は、たった一人の少女の喪失をどうしても認めることができずにいたのだ。

「私、赤いカサブランカに貴方のことを重ねていたんです。だから貴方がその花束をプレゼントしてくれた時、本当に嬉しかった」

その声はもう潰れかけていた。フラダリはいたたまれなくなって額に手を押し当てて俯く。
お願いだ、誰か助けてくれ。この少女を救ってくれ。それができないのならいっそ、この少女と一緒に全てを終えさせてくれ。
けれど、その願いのどれもが叶えられることはなかったのだ。
カロスはこの5年間で、フラダリの存在を完全に過去のものとしてしまっていた。そんな彼に手を差し伸べる人間は、もう何処にもいない。
そして、あの毒の花によってその身に刻み込まれた治らない病を、治療できる人間など何処にもいない。
そして、フラダリが少女の後を追うことを、きっとこの少女は許さない。
全ての願いは濁り、音を立てて潰えていった。

「あの花は、10日経った頃に色褪せてしまいました」

「……ああ、知っている。君は泣いていた」

フラダリは俯いたまま、少女の消え入りそうな声にそう返した。
少女と日を重ねるようになって一年が経とうとしていたあの日、少女はフラダリに、ガラスケースに飾られていた枯れない花を贈った。
そしてその枯れない花を贈った張本人である少女は、フラダリに生花の花束を求めたのだ。

ユリ科に属する花は水分が多く、直ぐにその鮮やかな色はくすみ、醜く腐敗していった。
けれど少女は、そのセピア色に褪せる花を、完全に枯れてしまうまで花瓶から取り去ることはしなかった。
毎日、鮮やかな赤を失っていくその花を見て、その目に涙を溜めていたのだ。
いつまでも美しく在れない花を少女は愛していた。これが私の選び取った世界だからと、あの日の少女は屹然とした笑顔で語っていた。

「私、あの時に思ったんです。私はきっと近いうちに、フラダリさんにこんな思いをさせてしまう。
私があの花を看取ったのと同じように、私は貴方に看取られてしまう」

少女はその、色素の抜けたように白く細い手を僅かに浮かせて、フラダリの手を探すように宙を彷徨わせた。
フラダリはその手をそっと包んだ。少しでも力を加えれば彼女の茎は折れてしまいそうだった。
人間のそれとは思えない程に、彼女の手は冷たく、その血は冷え切っていた。フラダリはその冷たさに嗚咽を噛み殺した。
お願いだ、まだ、まだ彼女を連れて行かないでくれ。

そんなフラダリの懇願を振り払うかのように、少女はこけた頬を僅かに動かして微笑む。
その目に一瞬だけ光が宿る。フラダリは息を飲む。


「私は色褪せていく。誰もそれを止められない」


その言葉を、少女は何よりも誇らしげに紡いで笑ったのだ。どうしてフラダリが涙を堪えることができただろう。
……そう、誰も少女を止めることなどできなかった。死という看板を背負った魔物は少女に音もなく迫り、目の前で少女をその暗い道へと手招きしていたのだ。
誰もそれに抗うことなどできない。少女は既にその魔物の手を取っていた。5年前のあの日から、少女はその暗闇にその命を捧げていた。
だからこの手が驚く程に冷たかったとして、その手の温度に命を見ることができなかったとして、それは当然のことだったのかもしれない。

少女の命は、5年前からもうずっと此処には無かったのだ。少女はとうにその命をあの花に捧げていた。
それでも少女の想いは今日まで生き続け、フラダリに寄り添っていたのだ。
もう十分だ、とフラダリは思った。これ以上、彼女を苦しめてはいけない。もう、この少女を引き止めることをしてはいけない。

「25年」

そして少女が紡いだその数字に、フラダリはその青い目を見開く。
落ちた涙は、少女とフラダリを繋ぐ手に落ちて弾けていた。

「あと、25年、貴方の永遠を生きてください」

その言葉はフラダリに、この時間の始まりとなった彼女の言葉を思い出させた。
『私と生きてください。』
『永遠に、なんて無茶はいいません。30年でいいです。』
あれから5年が経った。残りの25年はまだ未来に残されていた。30年という永遠は、少女が最初に提示した条件だった。それを拒む術は、フラダリにはない。

「……25年待てば、君は迎えに来てくれるのか?」

フラダリは震える声でそう尋ねた。
少女はもう片方の手をそっと掲げ、フラダリの頬へと伸べてその涙を拭った。
この人が愛しい。この涙脆い人を、長すぎる時間に置き去りにすることはできない。だから私は、25年が経ったその時に、もう一度貴方の元へ現れよう。
貴方がこの約束を果たしてくれるなら、私も貴方の永遠を迎えに行こう。

「貴方がそれを望んでくれるなら」

その言葉にフラダリはようやく微笑むことができた。
少女はそっと目を細める。枯れ果てた筈の涙が愛を告げていた。


(愛のダイヤグラムは歪まない)
2015.2.26
雪蘭さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

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