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この家で過ごす最後の日曜日、別離を明日に控えた昼下がり。空はどこまでも青く、僅かに浮かぶ雲の流れは少しだけ速かった。
二人は赤と白のラインが入った、紺を基調とする新しいジャージに袖を通していた。
購入するサイズを間違えたらしく、大幅に余ってしまった袖を、彼女は腕まくりをすることで誤魔化していた。
対してフラダリは、彼女の余った袖を少しばかり恨めしそうに見ていた。
大きめのサイズを購入したつもりであったのだが、やはりジョウトとカロスでは標準的な身長が異なっているらしく、手首や足首の辺りが少々、心許ない様相を呈していたのだ。
クリスはそうした二人を見て一頻り笑ってから、「とても似合っていますよ」と、遅すぎるフォローを入れた。
そんな「慣れないもの」に身を包んだ二人は、コガネシティのフラワーショップから1本の苗木を受け取り、クリスの自宅兼事務所の隣にある小さな庭へと運んだ。
枯れた朝顔はいつの間にか片付けられ、代わりに土を掘り起こすためのシャベルが2本、壁へと立てかけられていた。フラダリはそれを手に取り、1本を少女に渡した。
少女の腕に余りそうな程に大きなそのシャベルで、二人は今からこの庭に穴を掘ることになっている。
「君は、土仕事の経験は?」
「……庭の花に水をあげたり、雑草を抜いたりしたことはあります」
「ではこの件に関しては、君の方がわたしよりも少し詳しいということになるようだ」
そう告げれば彼女は困ったように笑い、「私も、木を植えたことはないんですよ」と付け足してから、
けれどシャベルの扱いは心得ているようで、勢いよくそれを振りかぶり、土へと突き刺して、足でぐいとシャベルを押して掘り進み始めた。
成る程、そのようにするのかと合点がいったフラダリは、彼女に倣うようにしてシャベルを土へと突き刺す。
足を乗せて体重を掛ければ、思いの外すんなりと深くまで掘ることができた。勢いよく掘り起こせば、土の匂いが鼻先を掠めた。
「休憩しながらやってくださいね、肩を壊しちゃうかもしれないから」
クリスが心配そうにそう告げる。少女は振り返って「大丈夫ですよ」と笑う。フラダリも大きく頷いた。
そう、たとえシャベルを持ったことがなかったとしても、土仕事の経験が皆無であったとしても、肩を壊すことになったとしても、やり遂げなければならない仕事だったのだ。
何もかもを与えられて過ごした二人が唯一、この女性のためにできることを、どうしても手放す訳にはいかなかったのだ。
『シンボルツリーは、この子が生まれた年に植えたいなって思っていたんです。できれば梅のような、ジャムにも果実酒にもできそうな果実をつける木がいいですね。』
何か恩返しがしたいと申し出たフラダリに、彼女は頼んだのは「シンボルツリーの植樹」という力仕事だった。
彼女の子供が生まれる予定日は来年の春であり、今年に苗木を植えるのは不適切であるようにも思われたが、フラダリがそれを指摘するより先に、
「あら、この子は既に命の形をしているんだから、この子が生まれたのは今年で合っていますよ」という、彼女らしい言葉が飛んできたものだから、
彼は笑ってそれを受け入れ、少女を連れて苗木を探しに出かける他になかったのだ。
二人でフラワーショップに向かい、果物の苗木のカタログを見せてもらった。
檸檬、梅、林檎といった有名な果物が散見される中、マルメロという特殊な果物の苗木を選んだのは他でもない少女だった。
「可愛い形の実ですね」と、彼女はその見た目に好感を持ったようだが、フラダリはその果実が果実酒にも砂糖漬けにも使えるということと、甘い香りを放つという点に注目し、
これならクリスの期待をいい意味で裏切ることができるだろうと考え、購入を決意した。それが、4日前のことだ。
苗木は少女の両手に抱えられそうな小ささだったのだが、庭の大きな石を取り除くために、フラダリと少女はあまりにも深く土を掘らなければならず、かなりの力と時間を要した。
土と石は思いの外、重かった。シャベルを動かしながら、もう11月だというのに二人の肌は汗ばんでいた。
やっとのことで石を取り除き、苗木のための空間を作ったところで、ようやく苗木を植える瞬間が訪れた。少女はクリスとアポロを呼び、苗木を持つように促した。
「あら、シェリーとフラダリさんが頑張って作ってくれた穴なのに、私達が植えてもいいの?」
「だってこのマルメロは、クリスさんやアポロさんの子供と同じ時間を生きるんでしょう?お父さんとお母さんが植えてくれた木だって知れば、きっと喜ぶと思います」
フラダリもクリスも一様に驚いていた。
何かいけないことを言ってしまっただろうかと、少女は顔を曇らせたが、その口から「ごめんなさい」が滑り出るより先にアポロがくつくつと喉を鳴らすように笑った。
「貴方はそんな、気の利いたことを言える賢い子だったのですね」と、からかうように告げて苗木を受け取った。クリスは少しばかり躊躇った後で、苗木にそっと触れた。
二人は掛け声を合わせることすらせず、静かに苗木をそっと植えた。喉を震わせずとも二人の呼吸は共鳴していた。二人は真に夫婦の形をしていたのだ。
それから二人はシャベルを使うことなく、掘り起こされたやわらかい土を両手で掬って、マルメロの根を覆い始めた。
二人の薬指に嵌められた約束の魔法は土に汚れていて、けれど彼等はそのことさえも喜ぶように穏やかに笑っていた。
いつの間にか、木の周りにあの虫ポケモンがやって来ていた。彼等は二人を祝福するように、その幸福を称えるように、ふわふわと秋の空を泳いでいた。
「フラダリさんもやってみませんか?シェリーも、ほら、おいで!」
土のついた手にそう手招きされ、フラダリと少女は顔を見合わせて彼等の方へと歩み寄った。
1本の、まだ頼りない細さをしたマルメロの木を4人で囲み、周りの土を掬っては少しずつ根に被せた。
そうしたことを淡々と繰り返しているうちに、フラダリは面白いことに気が付いた。それがどうにもおかしなことに思われて、笑い出さずにはいられなかった。
「土は、こんなにも温かいものだったのですね」
「!」
「そんな当然のことを、わたしは今頃になって、まだ生まれてすらいない命に教えられてしまった」
アポロは声を上げて笑いながら「おやおや、私の子供はこの上なく優秀に育ちそうだ」と、冗談なのか惚気なのか判断しかねる言葉を得意気に零した。
クリスは驚いたようにフラダリを見ていたが、やがて少しばかり拗ねたように「あら、私だって、この子に沢山のことを教えてもらったんですよ」と告げた。
少女はそんな彼等の声を聞きながら、そっと柔らかな地面へと手を差し入れた。
秋の日差しをたっぷりと浴びたその土の温度を指先で感じ取り、「あったかい」と陽だまりのような笑みを零す姿に、フラダリは思わず目を細めた。
*
夕食にホワイトシチューを食べて、入浴を済ませ落ち着いた頃、少女はクローゼットの中身を取り出し、鞄の中へと詰め込み始めた。
明日の服だけを残して、丁寧に1枚ずつ畳む、その顔色はやはり少しだけ優れない。
おそらくフラダリも顔色も同じようになっているのだろうと、解っていたから彼は何も言わなかった。
時計の針が10時を回った頃、部屋の電気を落とした。
慣れない力仕事で疲れていたこともあり、いつもよりずっと早くに睡魔が訪れていたのだ。
この調子では直ぐに眠れてしまいそうだと思っていると、隣のベッドから「フラダリさん」と彼を呼ぶ音が聞こえた。
闇に慣れた目でも、1m程離れたところで布団を被る少女がどのような表情をしているのか、見極めるのは困難であった。おそらく少女にも、フラダリの表情は見えていないのだろう。
「明日にはもうこの家を出ているなんて、信じられない」
「ああ、わたしも上手く心の整理ができずにいる」
「……でも、貴方と一緒に暮らすこと、貴方の傍で眠ること、そうした何もかもに慣れてしまった私の方が、もっと、信じられないんです」
この少女にとって、フラダリは長く「畏れ多い」存在であったのだろう。
『こんなにも立派な人が、私のために言葉を尽くしてくれている。』
彼女のあの言葉は、ただただ、彼女にとっての真実を映していたのだろう。けれど長くそうであったにもかかわらず、彼女はその畏れ多さを今、忘れている。
異常な事実を正常だと認識することを覚えてしまった彼女は、再び訪れる「フラダリの不在」という「正常」に、耐えられるのだろうかと不安になっているのだ。
「私、貴方がいなかった頃に戻れるかなあ」
彼の不在と死が同義だとしていた、あの頃の倒錯的な思考に戻ることができなくなっているからこそ、彼女は不安に思わざるを得なくなっている。
そしてその不安はきっと、フラダリのそれと悉く共鳴している。
「戻らなくていい」
そう告げれば、少女の息が止まる音が聞こえた。「わたしも戻れない」と付け足せば、いよいよおかしくなったのかクスクスと笑い始めた。
戻れない。戻らなくていい。わたし達はきっと、ずっと愚かなままでいい。
目を閉じれば土の匂いが思い起こされた。秋の日差しを浴びた温かい土の手触りを、知らなかった頃にはもう、戻りようがなかったのだ。
あのマルメロの木は、どれくらいの月日をかけて大きくなるのだろう。どのような花を咲かせるのだろう。どれくらい経てば、甘い香りのする果実をつけるのだろう。
生まれてくる子供がマルメロの砂糖漬けを「美味しい」と思えるようになった時、あるいは大人になって、クリスやアポロと共にその果実酒を飲み交わせるようになった時、
……あの、小さな黄色い虫ポケモンは、名前すら知らないその「幸福」の象徴は、変わらずあの庭を訪れているのだろうか。
2016.11.16