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1週間後にこの家を出ることとなった二人に、クリスは観光雑誌を数冊、譲ってくれた。
「折角ジョウトにいらしたんですから、残り数日で思いっきり楽しんできてください」という言葉に、二人は顔を見合わせて困ったように笑った。
実のところ、コガネシティやエンジュシティなど、近場はもうかなり散策してしまっていたからだ。

彼女の心をゆっくりと溶かすために、フラダリは随分と彼女を連れて様々なところへ向かっていた。
自然公園、エンジュシティの歌舞練場、和菓子の老舗、薄暗い森、その先にあったヤドンの町……。
そこで二人が交わした数少ない言葉、手に入れた形ある思い出も形の残らない思い出も、総じて二人は覚えていた。まだ、忘れるわけにはいかなかった。

「何処か、お勧めがあれば教えて頂きたい」

フラダリがそう告げるや否や、彼女はぱっとその顔に花を咲かせた。その様子を見ていたアポロが小さく、喉を鳴らすようにくつくつと笑った。

「鈴音の小道に是非行ってみてください!エンジュシティにある高い塔の近くに、一年中鮮やかな紅葉の道があるんです。私の、思い出の場所なんですよ。
本当はエンジュシティのジムバッジがないと入れないんですが、実は秘密の抜け道があるんです。今日だけ私のお友達を貴方に預けるので、彼に案内してもらってくださいね」

彼女は年季の入ったモンスターボールをフラダリの手に握らせた。中には彼女の空に似た色のポケモンが入っていて、射るような目で真っ直ぐに彼を見上げていた。
続いて彼女はスーツのポケットから、続けざまに3つのボールを取り出した。隣ではっと息を飲んだ少女に、彼女はふわりと笑ってその全てを差し出した。

「私にこの子達を預けてくれてありがとう。皆、とっても元気で可愛い、素敵な子だったわ。……ふふ、このままずっと一緒にいたいくらい」

「……」

「でも、この子達はちゃんとシェリーのことを覚えていたよ。貴方に会えなかった間も、皆はずっと貴方のことが大好きだったんだよ。だから、貴方に返すね」

彼女は震える手で3つのボールを受け取った。その拍子にボタンが触れてしまったのだろう、赤いカサブランカのフラエッテがボールから飛び出して、少女の頬にすり寄ってきた。
強い怯えを示していた目は、しかし瞬時に困惑へとその色を変えた。その様子にフラダリとクリスは顔を見合わせて、そして笑った。
まさか叱責されるとでも思っていたのだろうか。自分は嫌われて然るべきだと、そう恐れていたのだろうか。
ひどく彼女らしい考えだと思った。それすらも、今では微笑ましいと思えた。

彼女の拒絶は間違いなく、彼女を慕うポケモン達を傷付けただろう。その事実は揺らがない。
けれど、それでも彼等は少女を慕う。彼等はトレーナーを見限らない。ポケモンの想いは残酷な程に真っ直ぐで、折れない。
いくら彼女がポケモンを拒んでも、来ないでと泣き叫んでも、それでも彼等は彼女を慕い愛することを止めない。彼等の想いは揺らがない。

それがポケモンなのだ。それこそがこの不思議な命の持ち得る、最も大きな力なのだ。

少女は両手で恐る恐るフラエッテを包んだ。その小さく細い手にすっぽりと収まってしまう程の命は、しかしこれから彼女にかけがえのない力を与え続けるのだろう。
その想いに、想いの力に応えようと、彼女が何かしらの動きを見せればいい。彼等の力を受け取っても尚、何もしないのであるならば、しかし、それはそれでいい。

次のボールを押せばゲッコウガが飛び出してきた。鋭い目で、けれど真っ直ぐに少女を見つめるその命に、おずおずとその手に触れた。
ひどく安堵したように、その目はすっと細められた。そこに昔のケロマツの面影を見たのだろう、彼女は「あ」と小さな声を上げて、そして泣きそうに笑った。
窓を開けて、庭へとボールを投げた。現れたリザードンは首をリビングにすっと伸ばして甘えるように少女へとすり寄った。彼女は暫く迷った後で、頭を撫でた。

「わたしからもこのポケモンを返そう」

フラダリはポケットからボールを取り出して、宙に投げた。
現れたサーナイトはまるで以前の少女のように深く俯き、彼女と目を合わせることをいよいよ拒んでいるように思われた。
彼女ははっと息を飲み、そして、微塵の躊躇いも見せることなく駆け寄って抱き締めた。
身体を硬直させていたサーナイトは、けれど自分よりも少しだけ背の低い彼女の髪が、自らの頬を掠めたことに驚いて顔を上げた。

「ごめんなさい、私、君に酷いことを沢山言ったね。本当にごめんなさい……」

サーナイトが緊張に体を強張らせていたその短い間に、彼女は果たして何度「ごめんなさい」と告げたのだろう。
やがてその言葉が呪文のように聞こえ始めた頃、クリスが笑いながら間に入った。

「彼女はとても寂しかった筈だから、その分、これからいっぱいサーナイトと一緒にいてあげてね。勿論、ゲッコウガやリザードン、フラエッテとも」

「はい、解りました、私……」

「ふふ、大丈夫。皆はシェリーを嫌ってなんかいないよ。貴方が皆を拒んでも、皆は貴方を拒まないんだよ。そのこと、もう絶対に忘れないでね」

この2か月間、自らのポケモンに対して拒絶を貫き続けてきた少女を、しかしクリスはただの一度も責めなかった。
酷いことをと咎めることも、叱ることもしなかった。ただ、彼女の何もかもを笑って許していた。
そんな彼女が唯一紡いだ「叱責」めいたその言葉に、フラダリは少しばかり驚いた。聖母のような微笑みを絶やさない彼女は、しかしれっきとした人間だったのだ。
そうした、彼女の人間らしいささやかな叱責が、どうにも楽しいものに思われてフラダリは小さく笑った。彼女は不思議そうに振り向き、人差し指を口元に立てて静かに彼を制した。

翌日、二人は家を出てコガネシティの町を抜け、自然公園を通り過ぎ、ぼんぐりの生える道路を渡ってエンジュシティへと向かった。
フラダリの傍らにはカエンジシがいて、少女の傍らにはサーナイトがいた。
二人と二匹はあまりにも整った、等しい歩みを進めていた。ポケモンを連れ歩くという風潮に馴染み過ぎたこの地方で、彼等は何ら目立つことなくジョウトの空気に溶けていた。
新しい場所、見知らぬ文化、初めて見るポケモン。それら全てを二人は二匹と共有しながらジョウトを歩いた。
フラダリとカエンジシの間を泳ぐ空気はあまりにも常のそれであり、また久し振りに共に在れたことを喜ぶ友人のような温かいものであった。
一方の少女とサーナイトの間を繋ぐ空気はまだぎこちなく、張り詰めていた。互いが互いを恐れなくなるまで、もう暫くの時間が必要であるように思われた。

エンジュシティの片隅で、フラダリはクリスから預かったボールを投げた。現れたポケモンはくるりと踵を返し、近くの竹林へと入っていった。
慌ててその後に続いた二人と二匹は、夢中でその、水の色をしたポケモンを追いかけた。竹の葉先が頬を掠めた回数を数えられなくなってきた頃に、勢いよく、視界が開けた。
どうやら竹林を抜けたらしい。フラダリは安堵の息を吐こうとして……しかし、逆に息を飲み込むこととなってしまった。

まるで燃えているのではと見紛うような、そうした煌々とした熱い赤色が一面を覆い尽くしていた。土も木々も、見上げた空でさえ、紅葉の赤で覆い隠されていた。
「鈴音の小道」と呼ばれるこの場所は、しかし「小道」であることを忘れる程に広く、深く、どこまでも続いているように思われた。
時が止まったように赤い雨が降り続けていた。吹き付ける秋の風にさえその雨が混ざっていた。
隣で少女がクスクスと笑い始めたので、「どうした」と尋ねるように視線を向ければ、彼女はポケットからボールを取り出しながら、面白いことを口にした。

「だって、クリスさんの思い出の場所なのに、こんなにも赤いなんて」

成る程確かにそうだと思った。この空間で彼女を想起させる空の色は、天を覆う紅葉の隙間から見える僅かな空の他には一つもなかったからだ。
……けれどあるいは、僅かにしか見ることの叶わない場所だからこそ、彼女はこの場所から見える己の色を愛したのかもしれなかった。
もしくは空以外の同じ色を、此処で見つけることの叶った「何か」を、愛しているのかもしれなかった。彼女はそうした、ささやかな共有にこそ幸福を見出す人であると、解っていた。

少女は3つのボールを勢いよく投げた。フラダリもそれに倣って全てのボールを取り出した。
現れたポケモン達も、二人と同じように見慣れぬこの景色に驚きつつ、楽しそうに落ち葉のかけ合いを始めたり、木々の間を駆けたりして思い思いに楽しみ始めた。
フラダリはサーナイトの背中をそっと押した。驚いてこちらを見上げるその姿に、少女の面影を見ることは驚く程に容易かった。だからこそ彼は安心していた。
少女が此処まで世界を開くことが叶ったのだから、このポケモンの恐れが取り払われるのも時間の問題であろうと、そう思うことができたからだ。

「君も楽しんでくるといい」と告げて微笑めば、隣からゲッコウガが「みずしゅりけん」を繰り出すように、次々と落ち葉をサーナイトへと飛ばしてきた。
彼女は驚きわたわたと慌てていたが、やがてその赤い目をすっと細めて、不敵に笑った。
両手を掲げ、「サイコキネシス」の構えを取れば、赤い雨がふっと制止し、物凄い勢いでゲッコウガの方へと向かう。
それを眺めていたフラダリの横顔に、ばさり、と紅葉が投げかけられた。
あまりの量に思わずむせ返っていると、隣で少女が申し訳なさそうな、それでいて至極楽しそうな笑みを浮かべていて、彼は思わず、ふっと静かに笑った。

「ごめんなさい!」

彼女の得意とする音さえも弾んでいた。フラダリは足元の紅葉を掴んで投げ返した。
嵐のように吹き荒れる赤い雨はあまりにも美しく、何もかもを忘れさせるような、そうした、常軌を逸し過ぎた自然に二人は身を任せていた。任せ過ぎていた。
彼は「数日後にはこの少女を置いていかなければならない」ということを、少女は「楽しいなどということを思ってはいけない」ということを、忘れていた。そうした、雨だったのだ。

「やっぱり私、貴方の色が好きです!」

「!」

「好きな色も、好きな飲み物も、好きなお菓子も、貴方と出会ってから出来ました!貴方を思い出せる全てを、好きになれました!」

だから、そうした言葉を紡ぐことが叶ったのだって、きっと雨のせいであったのだ。
そう解っていながら、フラダリは心を揺らさずにはいられなかった。赤い雨が彼の心臓を強く叩き、震わせていた。


2016.11.16

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