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彼女は彼女が思っているよりもずっと、多くの人に愛されていた。フラダリはそのことにただ、胸を撫で下ろしていた。
問題は彼女の周りの人間ではなく彼女自身にあったのだと、そして、その憂いがようやく取り払われようとしているのだと、いよいよ確信するに至ったからこその安堵であった。
秋風の吹き荒ぶ中、泣きながら笑っていた二人の少女は、暫くして互いの腕をそっと緩め「寒いね」と囁き合ってクスクスと笑った。
少女の方は己の涙を拭うことに忙しいようであったが、もう一人の少女、シアは、遠くに立つフラダリの姿を認めると、ぱっとその顔を輝かせて駆け寄ってきた。
『シェリーを助けてくれてありがとう。』という、青いインクで書かれた美しい文字が彼の脳裏に呼び起こされた。
この少女があの整った大人びた字を書いたのかと、そう疑ってしまう程に彼女の背は低く、その所作はどこまでも幼かった。
「シア」はもっと背の高い大人びた姿をしているのだと、彼は何の根拠もないままにそう思っていたのだ。「小さすぎる」と思ってしまったのだ。
「初めまして、フラダリさん。私、シアといいます」
真面目な声音でそう自己紹介した彼女は、しかし照れたようにふわりとその表情を崩した。
ひどく痩せた、脆そうな子だった。しかしあの少女がこの姿を見て驚いていたところからして、これが「本来の彼女」の姿では決してないのだろう。
『貴方は、貴方とフラダリさんの時間を守ってくれた人に、お礼を言わなきゃいけない。』
つい2時間ほど前の、クリスの言葉に従うのであれば、フラダリも同じように、この少女にお礼を言わなければならない筈だ。
そう思いフラダリは慌てて口を開こうとしたが、それより先に彼女がクスクスと笑い始めたので、その言葉を引っ込めさせざるを得なくなってしまった。
「貴方にはずっと前から会っていたような気がします」
「……カロスを訪れたことのある人間であれば、わたしの名前は自然と耳に入ってしまうものだと思いますよ」
「いいえ、そうじゃないんです。シェリーを通して貴方の存在をいつも感じていたから、こんな風に思ってしまうんだと思います。
私、貴方が赤を好きであることも、正義感に溢れた人であることも、シェリーを大切に思っていることも、解っているんです。そうした、理由だったんですよ」
おや、と思った。この少女の語り口は少しばかりクリスのそれに似ていたからだ。
この少女も本が好きなのだろうかと思った。物語の中に生きる人の心をリズミカルに叙述する、そうしたエンターテイメントに触れ過ぎているのではないかと勘繰ってしまった。
もっともこの少女はあの女性の「お友達」であるのだから、彼女の面影を有していたところで何の不自然もないのかもしれなかった。
「貴方がわたしとシェリーの時間を守ってくれていたと聞きました。ありがとうございます」
そう告げれば、彼女は驚いたように目を見開き、先程までの楽しそうな表情をさっと曇らせて大きく首を振った。
「少し違うんです」と困ったように告げる彼女は、背の高いフラダリを臆することなく真っ直ぐに見上げる。フラダリはその真摯な青い瞳から目を逸らすことができない。
「私は貴方に責められこそすれ、感謝されるようなことなんて何一つしていないんです」
「……それは、どういうことですか?」
「貴方の愛した美しいカロスを、美しいままにしておくことができませんでした。私はイッシュの人間だから、……どうしても許せなかった。ごめんなさい」
あの少女に対して「ありがとう」と、彼女と対極に在る感謝の言葉ばかりを紡いできたこの少女は、しかしフラダリに対しては一転して「ごめんなさい」という言葉を選んだ。
その大きすぎる差異にフラダリが驚いていると、その小さな背中をぽんと叩いたクリスが、まるで悪戯を思い付いた子供のように笑った。
「シアちゃんは勇気の子なんですよ」
そう言って無理矢理二人の会話を切り終えた彼女の意図をフラダリは読めない。おそらくこの、背の低い少女にも解っていない。
けれど解らないなりに彼女はクリスの意向を尊重したのだろう。同じように笑って、それ以上の言葉を紡ぐことをしなかった。
*
丁度いい椅子があるといいなあ。そんなことをうそぶきながら、クリスは埃一つ被っていない椅子を3階の倉庫から引っ張り出してきた。
当然のように冷製パスタは5人分茹でられて、椅子は4つから5つになった。二人が此処に来た日と全く同じメニューに、何処か懐かしさを覚えながら少しずつ食べた。
おそらくこの家にやって来て直ぐの頃は緊張で味など解らなかったのだろう。少女は2か月遅れてようやく「美味しい」と、ただそれだけの感想を零すことが叶っていた。
クリスは「よかった」と、至極幸福そうに笑っていた。
シアはコーヒーを飲める人間であったらしく、「ミルクと砂糖は?」と尋ねるクリスに、毅然とした、それでいて少しばかり得意気な表情で「ブラックで」と言い放った。
ミルでカラカラと豆を挽く音を、まるで子守歌であるかのように目を細めて眠そうに聞いていた。
そのうち本当に眠ってしまったので、クリスがその間に少女の髪を弄って遊んでいた。
シェリーも一緒にしようよ、とクリスが手招きすれば、少女は一瞬の躊躇いの後で、自らの髪を束ねていたリボンを解いてから、ふわりと笑ってその悪戯に続いた。
クリスが三つ編みをして、少女がその髪を白いリボンで束ねた。フラダリとアポロはそうした彼女達を静かに笑いながら見ていた。
目を覚ました少女は、自らの髪に施された悪戯に驚きつつも、クリスがその後ろ姿を写真に撮って嬉しそうに見せれば、驚いたようにその青い目を見開いた。
「このリボン、使ってくれていたんだね、ありがとう!」
その言葉でフラダリはようやく、その白いリボンがこの少女からの贈り物であったことを知った。
けれどリボンを使っていた当人もそのことを知らなかったようで、「……シアからのプレゼントだったんですか?」と、驚いたようにクリスを見上げてそう尋ねた。
彼女は肩を竦めて至極楽しそうに笑った。悪戯がばれた子供のような、彼女の叱責を待っているかのような笑顔だと思った。
そのリボンが、クリスを経由して少女に渡されたのだと推測することはあまりにも容易にできた。
それならば、クリスが意図的に贈り主の名前を伏せた理由も、推して知るべしといったところだろう。
この強情な少女に拒む理由を与えないための、そしてその少女を想う贈り主の気持ちに応えるための選択だったのだろう。
リボンの贈り主であるシアは、そうしたクリスの配慮をフラダリと同じように推し量ったらしく、困ったように笑うだけで何も言わなかった。
贈られた側である少女はしかしその理由に思い至らなかったようなので、クリスは言葉を尽くして彼女の理解を促すことを選んだ。
「言ったでしょう?貴方はちゃんと愛されているんだよ。貴方のことを大好きな人は、こんなに沢山いるんだよ」
当然のことを誇らしげに告げてクリスは笑う。少女はその言葉をゆっくりと噛み締めて、笑う。
*
「ねえ、貴方はいつか、フラダリさんと別れなきゃいけなくなると思う」
帰り際、シアはそんな言葉を口にした。
フラダリとの別離は己の死と同義である、という風に捉える歪んだ姿勢を崩さず、「貴方に殺されることこそ幸福である」と微笑んでいたあの少女は、
そうした幻想的かつ破滅的な幸福を抱かなければ美しく笑うことの許されなかったこの少女は、
しかし、近いうちに訪れるであろう彼との別離を冷静に受け止め、彼がいない時間を生きることを想定できるようになっていた。
故に彼女はその言葉に取り乱すことも、首を激しく振って拒絶の意を示すこともしなかった。ただ悲しそうな顔で小さく頷き、俯くことなく真っ直ぐに彼女を見ていたのだ。
彼女はその瞳に死の色を映さずとも、笑えるようになったのだ。
「でも、その時は私が傍にいるよ。フラダリさんが貴方のところへ帰ってくるまで、いつまでだって一緒にいる。
カロスが嫌ならイッシュで暮らせばいい、此処が好きならクリスさんに頼んでいさせてもらえばいい。あの土地に戻りたいなら、……その時は私も応援する、支える!」
深い海のような目で真摯に彼女を見上げ、誠実な言葉を凛とした声音で紡ぐこの少女は、紛うことなき彼女の「親友」だった。
それ以上にこの勇気ある女性を称える言葉を、フラダリは思い付くことができなかったのだ。
「貴方がどんな選択をしても、貴方は一人にはならないよ。貴方が生きていてくれるだけで、私、とても嬉しいんだよ」
ああ、貴方もわたしと同じなのか。そんなことを思いながらフラダリは微笑んだ。
彼女にとってもこの少女は「いてくれるだけでいい」「生きていてくれることが幸福だ」と、声高に奏でることのできる存在であるのだと、そう認めれば温かい心地が彼を満たした。
シアはきっと優秀な人間であったのだろう。その小さな背中を慕う人間も、その才能を汲み取り、手を差し伸べる大人も、数多くいるのだろう。
フラダリとて、この小さな少女に決して劣らない力と知恵を備えた人間であった。無謀とも取れそうな大きすぎる勇気を持て余すきらいさえあった。
シアにとっての「かけがえのない存在」は他にも大勢いるのだろう。
フラダリは、この少女一人にここまで執心しなければならない程に追い詰められている訳では決してなかったのだろう。
それでも、シアもフラダリもこの家へと集まり、この、ひどく臆病で卑屈な少女を支えている。貴方は、君は、生きていていいのだと、そのままでいいのだと訴えている。
愛しているのだろうか、情けをかけているのだろうか、責任を感じているのだろうか。どれも間違っているようであり、どれも正しいようにも思われた。
けれど少なくとも言えることは、フラダリがあの曲がり角でこの少女に出会わなければ、こうした全てを経験することなどなかったということだ。
『それに、私が悪い大人でなければ、きっと彼女とは出会わなかった。』
アポロの、かつての言葉がフラダリの脳裏を掠める。彼は出会いから更に遡り、運命に感謝する準備を、自身のこれまでを肯定する準備を始めていた。
フラダリはまだその域に立てない。今はただ、出会えたことをただ喜ぶより他にすべきことがない。
『私は縁を読むことはできないから。』
クリスの言葉が鈴のように揺れる。「邂逅」という不思議な力は、我々が触れて紐解くには、少しばかり大きすぎる。
2016.11.16