1-21

クリスさんがカレンダーを豪快に捲った。11月と示された月捲りのカレンダーには、エンジュシティによく似た街並みの写真がその上半分を飾っていた。
その建物の背景には、目の覚めるような赤い紅葉と、天まで届くような高い塔があった。
顔を上げてあの町を歩くことをしなかった私には、到底、己の目で見ることなど叶わなかった風景だった。
ああ、顔を上げればこんなにも美しい景色が広がっていたのだと、認めれば少し、ほんの少しだけ悔しくなった。
けれど悔やんだところで私の俯きすぎた肩と首は強張るばかりで、一人で顔を上げることなどできやしないのだと解っていたのだから、どうしようもなかった。

そんなことを思っていた矢先、リビングの電話が大きな音で鳴った。
今は日曜、そして朝の9時を少しだけ回った頃であり、この家には全員が揃っていた。フラダリさんは音の鳴る方へと視線を向けて、アポロさんは「クリス」と彼女の名を呼んだ。
クリスさんは読んでいた本に栞を挟んで、安楽椅子からひょいと立ち上がり、スキップするように駆け出して、受話器を取った。

「おはよう、随分と早いのね、待ちきれなかったのかな?」

彼女は受話器を耳に当てるなりそう告げて笑った。いつものことだ。
電話の向こうに立つ人の声を聞かずとも、彼女はその電話が誰からのものであるのか、どういった要件であるのかを何故か、解っているのだ。
不気味だと思った。悉く常軌を逸した力だと思った。気味の悪い人だと忌避していたことだってあった。
けれどそんな彼女が毎晩、眠れない私のためにホットミルクを入れてくれている。屈託のない笑顔を湛えて、易しく優しい言葉を紡ぐ。そうした人であることも知っていた。
だから私は、彼女を嫌えなくなった。感謝と羨望と畏怖と、罪悪感。そうしたもので私の、彼女への想いは出来ていた。
彼女と知り合って2か月が経った。私は彼女の常軌を逸した力をずっと見てきた。だから私は、今更、彼女のそうした行為に驚くことをしなかった。驚けなかった。

「今そこにいるのよ、代わるから少し待っていてね」

そうして受話器を耳から離した彼女は、くるりとこちらへ振り向き一歩を踏み出す。私を見ている、私の方へと向かっている。そう気付いた瞬間、さっと顔が青ざめた。
嫌です、と拒む隙さえ与えないように、彼女はソファへ身を沈めていた私の傍へとそっと屈んで、私よりもずっと温かいその手で冷たい受話器を、握らせた。

「貴方のお友達から電話だよ」

その「友達」が誰であるのか、解ってしまったから私は益々顔を青ざめさせて首を振った。
今更、彼女に合わせる顔などない。彼女にかけるべき言葉など見つからない。私は彼女が嫌いだ。彼女を嫌わなければ立っていられなかった。
「貴方を拒んでごめんなさい」などと謝罪の言葉を紡ぐ勇気など、勿論なかった。
けれど私が首をいくら振っても、彼女はニコニコとした笑顔を崩さないままに、私の腕をぎゅっと掴んで動きを封じたままでいた。
その手の力は、私が受話器を取ることを約束するまで緩められないのだろうと、そう思うに十分な迫力を有していたのだ。

「ごめんね、シェリー、私を嫌ってくれて構わない、でも、それでも貴方はこの電話に出なきゃいけない。
貴方は、貴方とフラダリさんの時間を守ってくれた人に、お礼を言わなきゃいけない」

「……でも、私、」

「ありがとう、じゃなくたっていいんだよ。シェリーの一番好きな言葉でいいんだよ。それで、ちゃんと伝わるわ。だってこの電話の向こうにいるのは、貴方の親友なんだもの」

私の、一番好きな言葉。
それをこの受話器に向かって、私の「親友」に向かって紡ぐのは、何かが大きく間違っている気がした。

「彼女」はそうした謝罪の言葉をあまり紡がない。彼女は謝罪よりも感謝の言葉を好む人だ。怠惰よりも努力を重んじる人だ。謙虚よりも強欲を重んじる人だ。
世界を悉く閉ざすのではなく、自ら世界を開く人だ。ポケモンが大好きな人だ。不誠実と理不尽を嫌う人だ。私とは、何もかもが違い過ぎる人だ。
それなのに私は彼女に焦がれた。彼女のようになれるのだと思い上がった。けれどなれなかった。絶望は犯人を求めて彷徨い、そして私は彼女を拒んだ。
私はきっと許されない。「私を嫌わないで」と懇願し続けた私の方から彼女を嫌ったのだから、今更、その想いは私になど向けられるべきではない。私は拒まれて、然るべきだ。

けれど今、この電話の向こうには彼女がいる。

本当に彼女が私を拒んでいるのなら、こんな電話は掛かってこなかっただろう。
そしてこれが、私を叱責するための電話であるのなら、クリスさんはこの電話に出ることを強要しなかっただろう。
それくらいのことが解る程度には、私の知性は正常な形を保っていた。
そうした冷静な判断ができるようになった「私」を作ったのは、他でもないこの2か月なのだと、そうしたことだって解っていた。
だから私は受話器を取り、私の一番好きな言葉を、私が、一番楽になれる言葉を告げるために息を吸い込んだ。

「ごめんなさい、シア

すとん、と心が落ち着く音がした。
ごめんなさい、は彼女のための言葉ではなく、私のための言葉だ。そうした狡い音を理解した上でその言葉を選ぶ私は、やはりとても矮小な人間なのだろう。
でも、貴方はこんな私と話をするために電話をかけてくれた。だから私はまた思い上がろうとしていた。私は貴方に拒まれないのかもしれないと、思い上がってしまった。

シェリー?」

そしてその思い上がりは、受話器の向こうで震える優しいメゾソプラノを聞いた瞬間に、嵐のような勢いで、朝日のような鮮やかさで、あっという間に「真実」へと姿を変えたのだ。

私はわっと泣き出した。溢れてくるものを何度も何度も左手で拭いながら、けれど決して右手の受話器は下ろさなかった。
どうしたの、大丈夫?シェリー、泣かないで。そうした彼女のメゾソプラノを聞きながら、まるで幼子のように声を上げて泣いた。止まらなかった。

「受話器、取ってくれてありがとう。声を聞かせてくれてありがとう。シェリークリスさんのところで元気にしていることが解って、本当に嬉しい」

彼女の誠実さは、受話器を通したところで微塵も薄れなかった。その声音が、その抑揚が、明らかに私を案じたものであること、心から安堵していることを雄弁に示していた。
私は彼女の誠意に相応しくない人間だ。解っている、解っていた。そして、それはきっと彼女に限ったことではない。私は誰もに相応しくない。
シアにも、クリスさんにも、フラダリさんにも相応しくない。カロスにだってそうだ。仕方なかったのだ。
それでも、もう私は彼女のこの安堵を、クリスさんの厚意を、フラダリさんの言葉を、疑えない。

「ねえ、きっと私は貴方と一緒にいちゃいけなかったんだよね。私の言葉は貴方に無理をさせていたんだよね。
シェリーはずっと、旅を辞めたかったんだよね。カロスから出ていきたかったんだよね」

「ごめんなさい……」

「いいよ、そうしていい。他の誰が許さなかったとしても私が許すよ。シェリーはいつまでだってそこにいていいんだよ。私ともう二度と会わなくたっていいんだよ。
だけどもし、……もし、こんな酷い私をまだ友達だって言ってくれるなら、会いたいと思ってくれるなら、その時はいつでも呼んでね。私、いつだって直ぐに飛んでいくから」

世界一速いクロバットで?
そう紡ぐことすら忘れていた。私は夢中で「今」と、嗚咽の合間にそう零した。
どうしたの?と尋ねる彼女に、私はあまりにもみっともない言葉を吐き出した。止まりようがなかった。

「今、会いたい!」

息を飲む音がして、そこで電話は切れてしまった。
クリスさんは少しだけ驚いたように私を見ていたけれど、直ぐにふわりと笑って私の頭を撫でてくれた。
「頑張ったね」という労わりの言葉には首を振った。きっと彼女の方がもっと、ずっと勇気を要したに違いないと思ったからだ。

2時間後、空の強風に髪を乱したままクロバットから一人の少女が下りてきたけれど、その女の子が「彼女」であると確信するまでに私は数秒を要した。
彼女は驚く程に痩せていて、その目元には暗い影が差していて、以前の、眩しいシアの面影を微塵も感じさせない顔つきをしていたからだ。
私のせいだと思い上がるに十分な痛々しさをその姿に孕んでいたからだ。

けれど唯一、彼女を彼女だとする色をその目に見つけた瞬間、私は彼女の名前を呼んだ。
彼女ははっと顔を上げて、その海の色に私を映すと、駆け寄ってきた。けれど私を抱き締めることはしなかった。

「生きていてくれて、よかった」

ただそう呟いて何度も両目を擦った。拭っても拭っても海は溢れてきた。

私よりも背の低い、小さな少女。けれどその身体に、零れてしまいそうな程の力を宿した少女。誠意をもって言葉を紡ぎ、言葉に恥じない行動を心掛けている少女。
貴方はあまりにも眩しく、私が隣に立てば私がその光に焼け焦げてしまうのではないかと思われた。貴方は私にとってそうした存在だった。
光は、影を焼き尽くして然るべきだと思っていた。

「貴方はどうして私を嫌いにならないの?」

そう尋ねれば、彼女ははっと顔を上げて困ったように肩を竦めた。
「だって、私がシェリーの友達でいたいんだもの」とおどけたようにそう紡いだから、私もおどけたように笑って「……もう、親友とは言ってくれないの?」と更に尋ねた。

「そうだね、私達は親友だったね。貴方は私の、かけがえのない親友だよね」

恐る恐る手を伸べれば、彼女はそれを喜ぶようにぐいとその手を掴んで抱き寄せた。
彼女は笑いながら泣いていた。私も同じように泣いていたから別に気にならなかった。彼女の少し伸びた髪を私の涙が滑っていった。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。彼女は笑ってそれを許しながら、ありがとうと繰り返した。何もかもが違い過ぎた。それでも私は焼け焦げなかった。


2016.11.16

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