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フラダリさんは駅の売店で、おそらく土産袋を入れるために売られているのであろう、大きな紙袋を購入した。
袋を広げて、「代わりに入れてあげなさい」と告げる彼の言葉に従って、私は青い髪の女性から10冊の本を引き取った。
分厚く丈夫な紙袋の中に、その10冊をドサドサと乱暴に落とした。本を傷めつけるようなその行為は、おそらく私の、酷い八つ当たりだったのだろう。
そして、私のこうした醜い部分を、この気味の悪い女性は直ぐに見抜いてしまう。
「お願いシェリー、私をいくら傷付けても構わないから、本を傷付けないであげて。私の大事なお友達なの」
「……」
気持ちが悪い、と思った。そのニコニコとした人畜無害そうな笑みがどうしようもなく恐ろしかった。
けれど私は俯くことをせず、「ごめんなさい」と告げることさえせず、ただ彼女を、睨み付けた。剥き出しの、傷だらけのみっともない敵意を、彼女は気味悪く笑って許した。
……この女性が恐ろしいのであれば、目を逸らせばいい。いつものように俯けばいい。そうやって私はあのカロスで生きてきた筈だ。そうやって何もかもから逃げてきた筈だ。
けれど、此処はあのカロスではない。ジョウト地方だ。私とフラダリさんが何の恐怖も抱かずに暮らせる場所である筈なのだ。
そんな場所で、何故、私がこんな人のためにまた、俯かなければならないの。
私はまた、誰かに、誰しもに怯えて生きていかなければいけないの。ここはそうした必要のない、優しい土地なのではなかったの。
私はそうした自分に、そうすることを強いた世界に、いよいよ耐えられなくなって、だからこうして逃げてきたのではなかったの。
それとも、私は何処にも逃げることなどできないの?
重い本を詰め込んだ袋を提げて嬉しそうにお礼の言葉を紡ぐ彼女は、しかしそのまま困ったようにこてんと首を傾げてみせた。
どうしたのかと尋ねるようにフラダリさんも小さく首を傾げて続きを促す。私は彼女の次の言葉を待つ振りすらすることができない。
「折角ジョウトに来ていただいたから、何かこちらの名物でもご馳走できればよかったんですけど、今、持ち合わせがあまりないんです。
今日はお蕎麦にしようと思っていたけれど、生憎、二人分しか家にないので……何か代わりのものを考えますね」
「蕎麦?……ああ、あの灰色をしたパスタのことでしょうか?」
「ふふ、そっか、あれはカロスの人にとってパスタなんですね。素敵だなあ」
何が素敵なのか、この女性の言っていることが全く分からなかった。灰色の食べ物のことを至極楽しそうに語るこの女性が、悉く異質なもののように思われてならなかった。
フラダリさんの隣を歩き、私の半歩前で笑っているにもかかわらず、確かに彼女の姿は「そこ」にあるにもかかわらず、この女性は遥か遠くを見ているように思われた。
彼女の心は確かに此処にあるのに、彼女の意識は此処ではない何処かを彷徨っているように感じられた。
「今、此処にいる自分を演じている」ような、不気味なまでに完成された彼女の姿は、私にはとても気味の悪いものに映ったのだ。
それに、この女性がそうした不気味な気配を持っていなかったとしても、私はこの、少女のような女性を睨み上げることになっていただろう。
だってこの女性は私の名前を言い当てた。この女性は私を知っている。その理由など最早、一つしか思い至らない。
彼女の口にした「友達」は、きっと私があの地で見限った親友の姿をしている筈だ。この女性に私のことを告げ口した「友達」は、あの、深い海の目を持っているに違いないのだ。
私はやはり、何処にも逃げられなかったのだろうか?
*
コガネシティの駅を出れば、イッシュのヒウンシティを思い出させる高層ビルが立ち並ぶ大都会が私達を出迎えた。
此処は私の知らない町。誰も、私を知らない町。つい数分前までそう思っていたにもかかわらず、世界はそうした「夢」を見続けることを許さなかった。
甘えるな、と、世界に糾弾されているようだった。喉を強く抑えて、俯きたくなった。
絶望に息を詰まらせる私の方へとフラダリさんは振り返り、「怖がらなくていい」と示すように、私の知らない、気味の悪い女性の紹介をしてくれた。
「クリスとは数年前、ミアレシティで出会ったんだ。観光に来ていたらしくてね、ミアレやハクダンを案内したことがある。
あれからもう8年程経っている筈だが、少し背が伸びて髪型が変わったくらいで、面影はあの頃の少女のままだ」
「あら、貴方だってあまり変わっていないように思いますよ」
「大人は変わらないものだ。君はこの8年で、子供から大人になった筈だろう?」
「ええ、だから沢山、変わりましたよ。見た目は変わっていなくても、私はあの頃の私とは全然、違うんです」
この気味の悪い女性、……クリスさんは、ワンピースの左のポケットに手を差し入れ、徐にボタンのようなものを取り出した。
キラキラと黄金色に輝くそれを見て、フラダリさんは目を丸くし「……弁護士バッジじゃないか」と驚いたような声を漏らした。
「5年前に手に入れた、私のペンです」と得意げに笑うクリスさんを、やはり私は気味の悪いものとしか見ることができなかった。
バッジがペンになる筈がない。こんな、ただ綺麗なだけのバッジで文字が書けるはずがない。
キラキラと輝くバッジをいくら集めたところで、私は強くなどなれなかった。あんなもの、何の役にも立たなかった。
「……ああ、そうだな。君はペンと剣が欲しいのだといつも言っていた。では君の剣も?」
「ええ、あの頃のまま此処に」
クリスさんはその「ベンゴシバッジ」を左のポケットに仕舞ってから、次に右のポケットに手を差し入れて、二つのモンスターボールを取り出した。
花を首元に宿したポケモンと、波を纏ったような水のポケモンがじっとこちらを見上げていた。
これが、彼女の「剣」なのだと私にも解った。ひどく傲慢な人だと思った。相変わらず気持ちの悪いことを言う、と本気で思っていた。
だって、たった2匹に何ができるというのだろう?仮にこの2匹がとてつもなく強かったとして、けれど、それが一体何になるというのだろう?
それは所詮、貴方の力ではないのに。貴方は悉く無力な存在である筈なのに。
……それなのに、この女性は何故、こんなにも穏やかに不気味に笑っているのだろう。
「貴方は?フラダリさん」
「わたしは、……いえ、止しましょう。何もできなかった男の話など、下らない」
「ふふ、本当かしら?それは貴方の絶望と虚脱感が、その目を曇らせているだけなのかもしれませんよ」
まるで見てきたようにこの女性は語る。私はこの女性が恐ろしい。空色の目と空色の髪を持つ彼女がどうしようもなく、怖い。
彼女の空色は、見る者を威圧する恐怖の色だ。私は青い色が嫌いだ。
「貴方の手は「何もできなかった」程に小さなものではなかった筈です。貴方は一人じゃないんです。
そんなこと、貴方の隣を見れば直ぐに解ることであった筈なのに、もう忘れてしまったんですか?」
咎めるように、諭すように彼女は紡ぐ。私は、怒鳴りたくなった。
黙って、貴方がフラダリさんの何を知っているというの。あの苦しい最中に、死を覚悟したあの瞬間に、穏やかなこの町で呑気に本を読んでいたであろう貴方に、何が解るというの。
「私よりもずっと無知で無力な子が、けれど自分の持ち得る全てを尽くして走り、沢山の人の力を借りて途轍もなく大きな仕事をしたケースを、私は知っていますよ」
けれどそうした憤りも、彼女のその言葉にさっと冷えて、溶かされて、なかったことにされてしまった。
恐怖に顔を青ざめさせる私の前で、しかし彼女は容赦なく微笑み、私が目を逸らし続けていた真実を突き付ける。
「ね、シェリー、貴方のお友達だよね。貴方はその子から、ラルトスを受け取っていたよね」
その瞬間、海の目をした少女の姿が脳裏に浮かび上がった。
やめて、やめてと強く目を瞑っても、暗闇の中でぼんやりとその海の色は消えることなく揺蕩い続けた。シェリー、とメゾソプラノで私の名前が呼ばれていた。
彼女の記憶を掘り起こすだけの覚悟をしていなかった私にとって、その呼び声は耐え難いものだった。けれどそうした抗議をこの女性にするだけの度胸もなかった。
「シェリー、カロスは楽しかった?」
度胸などない、筈だった。
けれどこの瞬間、少女は自分にそうした「度胸がない」ということさえも忘れて大声で怒鳴った。
「楽しくなんかなかった!」と、腹の底から吐き出した激昂の音にフラダリさんは目を見開いていたけれど、私は構わずまくし立てた。止まらなかった。
「カロスなんて大嫌い、私はもう二度とあんなところになんか戻らない!」
「それならずっと此処にいればいいよ」
私の激情をなかったことにするかのような、陽気かつ呑気な提案が彼女の口から零れ出た。
勢いを削がれた私は、肩を落として沈黙する他になかったのだ。
「フラダリさんと一緒に、いろんなところへ行って、いろんなものを見ておいで。……大丈夫よ、此処は怖い場所なんかじゃないわ。
ジョウトには貴方を苦しめていたおかしな言葉も、貴方が親しくならなければいけなかったお友達も、此処に留まることを求める博士も、誰も、何もいないの。
だからシェリー、貴方は好きなだけ此処にいていいし、私の家が嫌になったら直ぐに出ていけばいいし、この町が息苦しければ、何処へ行ってもいいんだよ」
私は怯えていた。戸惑っていた。だからこの女性が、クリスさんが、私のことを「知り過ぎている」という事実に気が付かなかった。
私はもう、誰かの物語のレールを走らされているのかもしれなかった。この気味の悪い女性との出会いは、その序章に過ぎないのかもしれなかった。
2016.10.22