1-7

滑舌のよい男性の声で、コガネシティへの到着を告げるアナウンスが車両に響いた。
あれから2回程電車を乗り換え、ようやく辿り着いたこの土地に、しかし男は来たことがあったのだろう、慣れた様子で立ち上がり、少女にもそれを促した。

「カロスのような華やかさも、イッシュのような賑やかさもないが、此処に住む人とポケモンは一様に自由で優しい。数年前に旅行で訪れた際も、とても親切にしてもらった」

「……」

「君も、気に入ってくれるといいのだが」

くしゃくしゃに丸められた紙袋を、男は少女から引き取ってゴミ箱に捨てる。
ざわめきで溢れかえる駅のホームへと足を下ろせば、圧倒される程の人込みが二人の目を穿ってきた。
傍らに大きなポケモンを連れて歩いている老紳士、腕に小さな鳥ポケモンを抱えて談笑する若い女性、彼等の声は一様に明るく、快活で、淀みなくそれぞれがこの場を支配していた。
混沌としたこの場所は、しかし少女を苦しめなかった。彼女は周りを見渡して大きく、深く息を吐き出した。

「ジョウト地方に来たのは、初めてです」

「では安心できそうだ、君を知る人間はきっとこの地にはいないだろうから」

わたしは、もしかしたら知られてしまっているかもしれないが。
そうした小さな懸念を付け足すことはしなかった。今はただ彼女の安心を守りたかったし、何より男も、自分を知る人間などこの地にはいないだろうと思い込んでいたかったのだ。
だからそうした懸念を口に出さなかった。言葉にしてしまえば、それはいよいよ現実になってしまうように思われたからだ。

「これからのことは、少し休んでから考えよう。今は休むべきだ、君も、……わたしも」

そっと手を伸べれば、やはり彼女は不安そうに眉を下げて躊躇い、すぐに首を振って拒否の意を示した。
男は笑いながらそっとその強情な手を奪い取った。彼女はしかしミアレシティの路地裏でのように、男の手を振り払ったりはしなかった。

「気にすることはない。君がわたしの手を取ることを嗤う人間など、この土地にはただの一人もいないのだから」

そう言って強く力を込めれば、少女は長い沈黙の後でそっと握り返した。
彼女の手は火を灯す前の蝋燭のように冷たく、しかしこれ以上力を込めればそれこそ、熱を持ったそれのようにドロドロと溶け出してしまいそうだった。
今、彼が手を握っている相手は、少女の形をした、少女ではない何かであるのかもしれなかった。

「……あの、私、」

少女の方から口を開くことは珍しく、男は思わず歩き始めていた足をぴたりと止めてしまった。駅の出口に向かう階段を上がる直前の出来事だった。
上の階から降りてきた、墨のように真っ黒なボブヘアーの女性が、するりと二人の真横を通り過ぎていった。一陣の風が吹いた。そして、その直後だった。

「待って!」

少女にとっても男にとっても、何処か懐かしさを思い起こさせるメゾソプラノが響いたのは。

両手に何冊もの本を抱えて駆け下りてくる「彼女」の姿を、目に収めたのは果たしてどちらが早かったのだろう。
男がその顔を階段の上に向けていた時には、既に少女も同じ方向を向いていたように思われた。
あるいは少女が上を見た時にも、既に男はそちらに視線を送っていたのかもしれなかった。
どちらが先だったのか、その瞬間の時はどのように動いていたのか、正しいことを知る人間は誰もいない。
けれど確実に、その女性が足を滑らせたその瞬間には、二人ともが彼女を視界に認めていた。彼女の体がぐらりと傾く様を、二人ともがしっかりと見ていたのだ。

あ、と彼女は小さな声を上げて、すとんと体を階下に落としかけた。空色の髪が彼女の落下より少し遅れて、ふわりと花が咲くように広がった。
男は動いていた。少女は動くことができなかった。

階段の上から下まで転がり落ちてもおかしくなかったその女性は、咄嗟に男が伸べた腕に受け止められて怪我を免れていた。
男は少しバランスを崩したものの、倒れることはせずしっかりと彼女を抱き留めていた。半ばパニックになりかけているその女性の目は、嵐の前のようにぐるぐると渦巻いていた。
彼女の腕に抱えられていた大量の本は、落ちるべきであった彼女の落下を引き取るようにバサバサと階段を転がり落ちて、動けなかった少女の足元に積み重なり、沈黙した。

「危ないところでしたね。……怪我は?」

「……」

ぱちぱちと恣意的な瞬きをした青い髪の女性は、しかし次の瞬間、自らが大怪我を被るかもしれなかった先程の一瞬を完璧に忘れてしまったような、
そうした、あまりにも間の抜けたふわふわとした笑顔を見せたものだから、男は少なからず面食らってしまった。
微動だにすることのできなかった少女は、その笑顔で我に返ったように呼吸を思い出し、自らの足元を埋め尽くすその本を拾おうと膝を折り、手を伸べた。

一冊、二冊と拾い上げて、予想を遥かに凌ぐ重量が自身の手にのしかかってきていることに彼女は驚き、そして溜め息を吐いた。
紙というものは思いの外、重いものであるらしく、10冊にもなるとまるで鉛のようであった。こんなものを抱えていればバランスを崩すのも止む無きことであるように思えた。
『多肉植物200種』『シンオウ旅行記(下)』『ポケモン生物学概論Ⅵ、海水に住むポケモンの進化と生態』など、分厚い本が多く、5冊も拾えば鉛のような重さになった。
最後に200ページ程の、見知らぬ言語で書かれた文庫本を手に取り、溜め息を吐いた。
十冊の本を抱えて走るなどという荒業を、今、男が受け止めているあの女性がやってのけていたという事実がどうにも不気味でならなかった。気持ちが悪い、と思った。
自らの力に似合わないものを抱えて歩く彼女は、まるで私みたいだと、少女はこの時、そう思っていたのだ。

「ありがとう。本当に助かりました。……あ、あれ?」

「!」

「もしかして、フラダリさんですか?」

あどけない笑みを浮かべた女性は、男を真っ直ぐに見上げてからその名前を言い当てる。
本を抱えた少女は驚いたが、男も彼女に見覚えがあったらしく、驚いたようにその青い目を見開いてから苦笑した。
「……まさか貴方に会えるとは思っていなかった」確かに男はそう紡いだ。
少女のような幼さを残すその女性はクスクスと笑いながら立ち上がり、灰色のワンピースの裾を少しばかりつまんではにかんだ。
けれど次の瞬間、愕然とした表情のままに十冊の本を抱えた彼女に気が付いたのか、あっと小さく声を上げて駆け寄り、本を引き取ろうと手を伸べた。

「ありがとう、シェリー

抉るような怯えが少女の腕を凍り付かせた。
相当な重量を持つそれらを支えるだけの力を失った腕はだらりと垂れ下がり、ふわふわと寄る辺なく揺れた。本がバサバサと乾いた音を立てて落下した。
青い髪の女性は咄嗟に、一番小さな文庫本だけを掴み取った。まるで自らの子供を守るようなその必死な表情は、しかしこの鉛色の目をした少女には悉く不気味に映ったのだ。
その「不気味」な様相というのは、何もこの女性の表情のみに起因するものでは決してなかったのだけれど。

何故、貴方は私の名前を知っているの。

この女性に見覚えはない。こんなにも美しい色の髪をした人と、たった一度でも会話をすれば忘れる筈がない。
少女の記憶にこの姿はない。けれど記憶にない姿をしたこの少女は、自分の名前を言い当てた。少女はどうしようもなく恐ろしくなって肩を強張らせた。
しかしそんな彼女の動揺を汲んだかのように、女性は眉をくたりと下げて「ごめんなさい」と謝罪を奏でた。自らの常套句を奪われてしまったことに少女は益々失望し、俯いた。

「貴方のことは貴方のお友達から聞いて知っていたの。彼女、とても詳しく話してくれていたから、ずっと前から知っている友達みたいに思えてしまって」

私に友達なんていません。
そう告げようとした言葉を、彼女は優しい笑みで禁じた。少なくとも少女にはそう思えた。
彼女がそうした否定の言葉をひとたび告げてしまえば、いよいよこの不気味な女性は恐ろしい本性を現してしまうのではないかと思ったのだ。
その底知れぬ彼女の何かしらによって、自分はいよいよ握り潰されてしまうのではないかと、少女は本気でそう、恐れていた。だから何も言わずに深く俯いた。

ふわふわと優しい笑みを湛えながら、女性は許しを請うように首を傾げる。肩上で切りそろえられた、ウエーブのかかった青い髪がふわふわと揺れる。
少女の拒絶を代弁する、重苦しい沈黙すら楽しむように女性はクスクスと微笑み、男にそっと視線を移す。悪戯を思い付いた子供のような、あどけない、残酷な目であった。

「ねえ、もし旅行でこちらにいらしたのなら私の家に来ませんか?ジョウトで観光をするにも宿が必要でしょう?
部屋には余裕があるし、それに、貴方達と話したいことが沢山あるんです」

「いやしかし、そこまで世話になる訳には、」

「ふふ、それじゃあ言い方を変えましょうか。私とこの子の命を救ってくださったお礼をさせてください」

全ての本を拾い上げ、ひょいと細い腕に抱えた女性の腹、その中に「何」が飼われているのか、きっと彼女が口を開かなければ誰も知ることなどなかっただろう。
こんなにも不気味な「幼い」女性が、一つの命を抱えて生きているという事実が、俯いたままの少女には、ただひたすらに気持ちの悪いもののように思われてならなかった。

「もう命の音が聞こえるんです、素敵でしょう?」

誇らしげに告げる、その「命の音」が、他でもない、その小さな腹の中に在る心臓の音であるのだと、しかし少女は察しない。察することができない。
命の音、などという大それた言葉を自らの鼓膜に受け入れ、同じように微笑むには、この少女はあまりにも疲れていた。疲れすぎていた。

その「気味の悪い女性」は、しかしもう一度少女に視線を向けて、彼女の拒絶と蔑視さえも受け入れるかのようにふわりと微笑んだ。

「私、クリスっていうの。貴方に会えてとても嬉しいわ」


2016.10.14

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