1-9

大通りから脇に逸れ、フラワーショップのある細い道を更に奥へと進んだ先に、その建物は佇んでいた。
硝子製の扉に手を掛けて、クリスは慣れた手つきでぐいと引き、フラダリと少女を「迎え入れる」。
この建物こそが彼女の家であり、彼女が働く事務所であるのだと、しかし事実として認識できても、直ぐに受け入れることは男にも少女にも難しかった。
見た目にして14歳程度の少女が会社を経営しているような、そうした、悉く不釣り合いな様相がそこにはあった。
フラダリはその違和感を、彼女の持ち過ぎた才能によるものだろうと認識して感嘆の溜め息を零した。少女はただ、気味が悪いと思っていた。

「……おや、お客様ですか?」

入ってすぐのところに構えられた空間、壁一面を本棚に囲まれたその中央で、仕事をしていたらしい男性が椅子からすくっと立ち上がり、歩み寄ってきた。
空色の髪をした、この女性に悉く似たその人物が、彼女の血縁者であると推測してしまったのは不可抗力であったのだろう。
事実、少女はそう思っていた。だが男は、彼の左手に嵌められた指輪と、女性がコガネシティの駅で口にした「命の音」という単語から、正しい解を導き出した。
この男性こそ、彼女が共に生きることを選んだ相手なのだと、そう認識して思わず微笑んだ。
この「少女」は、もう結婚できるような年齢になっていたのだ。「少女」が少女の姿のままであったとしても、時は流れ、彼女は確かに変わっていたのだ。

「ただいま、アポロさん。この二人とはさっき、コガネシティの駅で出会ったんです。私が本を抱えて階段から転げ落ちそうになっていたところを助けてくれたんですよ」

「……また貴方は。図書館で借りる本は一度に5冊までにしておきなさいと言った筈ですよ」

呆れたように肩を落とした男性、アポロは二人に向き直り、「危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」と頭を下げた。
「いつもこのようなことがあるのですか」「ええ、日常茶飯事というやつです」「貴方も苦労しますね」「おや、解っていただけますか」
そんなやり取りをしばらく重ねていると、女性はクスクスと笑いながら「もう、アポロさんもフラダリさんもやめてください」と困ったように抗議する。
そんな三人を、少女はまるでテレビの向こうの出来事を眺めるように、ただ茫然と目線をそちらに向けるのみであった。瞬きすら億劫であるように感じていたのだ。

「それで、この二人はこれから暫くジョウトを観光するみたいなんです。折角だから、空いている部屋をお貸ししようかなって。いいですか?」

「ええ、私は構いません。貴方が4人分の食事を作る覚悟ができているのなら、の話ですが」

「任せてください、2人も4人も同じようなものですよ」

2人が4人になるということは、すなわち食材の分量が倍になるということなのだから、「同じようなもの」ではないのではないか。
フラダリはそう思ったが、そうした彼女のあまりにも大雑把な認識を、この男性は指摘しなかった。
「ではお願いします、私は部屋の掃除をしておきましょう」と、困ったように笑いながら告げるのみであったのだ。
不思議な絆だと思った。この男もクリスのように、常人には持ち得ない何もかもを持った人間なのだろうかとフラダリは少しだけ疑った。
しかしおそらく、アポロというこの男性は「普通」の人間なのだろうとフラダリは察していた。何故なら彼の隣で肩を強張らせていた彼女が、この男を恐れなかったからである。

「暫く待っていてください」と言い残したアポロは、駆け足で2階へと上がっていった。
残された二人を、クリスが奥の部屋へと案内する。フラダリは少女に目配せをして静かに彼女を呼ぶ。不安そうに眉を寄せながら、けれど彼女は付いてくる。

ロビーと面接室を隔てた先にあるドアを開ければ、そこには人の温もりを感じさせる、ありふれた、しかし品のある空間が広がっていた。
木製の丸いテーブル、白いソファ、空色のカーペット、クリーム色のカーテン、そうした全てが、陽の差さないこの空間において、まるで自らが光を放っているかのように瞬いていた。
二人の幸福な煌めきを視界に収め、男は思わず微笑んだ。少女は思わず目を逸らした。

「あの女性のことを恐ろしいと思っているのだろう?」

そう告げれば、少女は縋るように男を見上げた。
貴方はそうではないの、とその鉛色の目があまりにも雄弁に、泣き出しそうにそう訴えていたから、彼は穏やかに笑って首を振る。

「あの女性は私と君のことを口外したりなどしない。だから不安に思う必要などないんだ」

「……貴方は、少し勘違いをしています」

少女は冷たく言い放ち、俯く。両手が強く握り締められる。

「確かにあの人は怖いけれど、でもあの人達が私のことを知っていようと知っていまいと、不気味でも、不気味じゃなくても、私は結局のところ、不安だったと思います」

彼女の不安を増幅させるかのように、カーテンがふわりとはためく。どうやら窓は空いていたらしい。
晩夏の乾いた風が二人の肌を掠める。少女は静かに長く息を吐く。両手の拳は解かれない。

「カロスにいてもジョウトにいても変わらない。私は、私から一番逃げたいものからはどうやっても逃げることなんて、できなかったんです」

君は何から逃げたかったんだ?
そう尋ねようとして、思い留まった。フラダリは解っていたのだ。
もし彼女がその問いに答えてくれたとして、自分には、彼女の逃れたい何者かを彼女から引き剥がすことは決してできないのだろうということ。
彼女の逃れたい何か、少なくともフラダリのことではないその「何か」を、彼女から引き剥がしてしまえば、もう、そこにこの少女はいないのだろうということを。

「貴方だけならいいのにって、思っていました」

「ジョウトでの暮らしが?」

「いいえ、全てが」

そう告げて彼女はようやく笑う。拒むように、諦めたように笑う。
「私と貴方だけならいいのに」とは、決して口にしない。それが、フラダリの押しとどめた問いに対する答えなのだと、解っていたからフラダリは笑えなかった。
フラダリが笑えた時に彼女は笑えず、彼が笑えなくなった頃にようやくこの少女は笑う。どこまでも相容れなかった筈の二人の時間は、果たして、いつまで約束されるのだろう。

トマトソースの冷製パスタをフォークでくるくると巻き取る。隣で少女はそれを黙々と口の中に押し込んでいる。
美味しいとも、美味しくないとも口にしない。だからフラダリは少女の分まで喉を震わせなければならなかった。
饒舌に言葉を放つことは彼にとって造作もないことであったが、ここまで彼女に言葉を諦められてしまっていることに彼は少なからず驚き、動揺していた。
故にその発言が少々のぎこちなさを呈していたとして、しかしそれは当然のことだったのだろう。

二人暮らしであるにもかかわらず、テーブルの脇には同じデザインの4脚の椅子が並べられていた。フォークもテーブルクロスもコップも、全て揃っていた。
まるで二人の訪れを解っていたかのようなこのもてなしに、フラダリは驚きつつも偶然だろうと思っていた。少女はただひたすらに、気味が悪いと思っていた。

そうした「不気味」な様相を更に増しつつあったこの空間で、少女の向かいに座っていたクリスが、カチャリと小さな音を立ててフォークを皿に戻した。
少しばかり身を乗り出すようにして、「ねえ、シェリー」と彼女を呼ぶ。少女はびくりと肩を跳ねさせ、フォークを持つ手に力を込めて窺うように沈黙する。
こちらの話を聞く姿勢にはなってくれていると認識したのだろう、クリスは嬉しそうに微笑んで口を開いた。

「私ね、貴方とフラダリさんがジョウトでの暮らしを楽しめるようにしたいの。そのために、何か私ができること、あるかしら?」

その言葉に少女はぱっと顔を上げた。そしてフォークをやや乱暴に皿へと落とし、椅子の下に置いていた鞄の奥に手を差し入れた。
何をしようとしているのかとフラダリはその隣で首を捻っていたが、やがて彼女が4つのボールを取り出し、何食わぬ顔でテーブルの上にそれを転がすものだから、
自らも思わず、パスタを食べる手を止めて息を飲んでしまったのだ。彼女の行為の意味するところが読めてしまったから、フラダリは顔を青ざめさせる他になかったのだ。
けれど彼女は、この少女がそうすることを解っていたかのように、「可愛いポケモン達だね、どうしたの?」と、何の恐れも示さず笑顔で続きを促す。

「貴方に、引き取ってほしい」

ボールがカタカタと震えた。少女はそれを見るまいと、ものすごい勢いでそれらをクリスの胸元へと押し付けた。

「いいよ」

けれど、少女の限りない愚行を、この女性は笑顔で許した。直ぐにそれらのボールを一つずつ握り締め、まるで我が子を得たかのようにいよいよ幸福そうに微笑んだのだ。
少女は勿論のこと、フラダリも同様に驚いていた。パスタの味の感想を述べるどころではなくなっていた。

3人がフォークを皿の上に戻した、奇妙なこの食卓において、しかしアポロだけが黙々と、何食わぬ顔でパスタを口に運んでいた。
それは、冷める心配のないように予め冷やされたこの「冷製パスタ」さえも、彼女の筋書きであったことに気付いていたからこその行動であり、
つまるところ、「このようなこと」は彼にとって日常茶飯事であったのだろう。
だから彼は動じず、驚かず、ただ目の前の美味しいパスタを味わう他になかったのだろう。そして、それでよかったのだろう。

「でも私、この子たちのこと、何も知らないの。だからどうやってお世話すればいいか、また私に教えてくれる?」

その言葉に、沈黙を守っていたアポロが、パスタを口に含んだまま小さくふっと笑った。
クリスは困ったように笑いながら彼を見て「もう、アポロさん、笑わないで」と、その笑いの理由も何もかも解った上で、戯れるように彼を窘めた。


2016.10.27

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