導けない

(「恋の方程式は」の続き)

1か月が経ち、ようやく出来上がった絵をお披露目した。
彼はピカチュウのように目を丸くして、30号のキャンバスいっぱいに描き込んだ大きな「作品」を、じっと食い入るように見つめていた。
垂れ下がる藤が風によって僅かに揺れている様を見つけると、その傾きに合わせるように首を傾げていた。
水辺が紫色を眩しく反射する様を描き込んだところに視線を移して、本当に眩しがっているかのように目を細めてくれた。

1メートル四方に近い大きさのあるキャンバス、その細部に沢山の描き込みをしていたのだけれど、流石に何分も眺めていれば「それ」に気付かれるのも当然のことであった。
藤の木に隠すように描き込んだ一人と一匹を見つけた彼は、それを指差し僅かに微笑んだ。
私は顔を赤くしながら「ごめんなさい」と謝ったけれど、彼は不思議そうに目を見開きつつ、「特に気分を害してはいない」と言うように、緩やかに首を振るのだった。

「でも、勝手に描くなんて失礼でしたよね、本当にごめんなさい。貴方と一緒にこの絵を描けてとても楽しかったから、この中に貴方のことを残しておきたかったんです」

貴方との時間が名残惜しかったから、貴方がいなくなっても貴方を思い出せるように描き込んだんです、とは、とてもではないけれど言えなかった。
けれど言わずとも、彼には見抜かれてしまっているのかもしれなかった。
私がこの時間を名残惜しく思っていること、私が彼を忘れたくないと思っていること、私が彼に恋をしていること、その全てを、彼は既に察しているのかもしれなかった。
呆れられてしまうだろうか。それとも一笑に付されるだろうか。少し恐ろしくなってきつく目を閉じれば、何処からともなく「描いて」という声が聞こえた。

「……」

「また、描いてほしい。君が描いているところをもっと見たい」

心地良く、癖のない、バス寄りのテノールボイスだった。抑揚を忘れたかのように淡々と紡がれたその音は、けれど紛うことなき「彼」が発した声であった。
ああ、声が出せない訳ではなかったのだ、とか、ただ喋るのが恥ずかしかっただけなのかもしれない、とか、
それにしたって1か月間ずっと無言だったなんて、とか、ああでもやっと声を聞くことができた、とか、思っていたより少し高い声だった、とか、
あらゆる衝撃、歓喜、困惑、安堵、そうした何もかもが頭の中でぐるぐると渦を巻いて、どうにも感極まって、泣きそうになった。

「それじゃあ、次は何を描けばいいのか、一緒に探してくれませんか?」

彼は帽子の奥でそっと微笑み、子供のように少しだけ顔を赤らめて頷いた。
奇跡のようなこの時間は、どうやらもう少し、続くようだ。

新しい場所はすぐに見つかった。ポニの海岸を抜けて、ポニの険路をずっと北へ向かうと、見たこともないような立派な大樹があったのだ。
バトルツリーと呼ばれているその場所には、凄腕のポケモントレーナーが集うらしい。
ポニの険路から目を凝らしてみると、確かにその木の枝には階段が螺旋状に組み立てられており、そこを駆け上がっているポケモントレーナーの姿を確認することができた。
平らな岩場にキャンバスを置いて、「此処にします」と告げると、彼は何故だかとても面白そうな顔をして、その後で大きく頷いてくれた。

キャンバスに鉛筆で下描きをしてから、薄く色を置いていった。藤を描いていた時には大きすぎると感じた30号のキャンバスにも、この1か月余りですっかり慣れてしまった。
まだ絵の具をべっとりと塗るような段階ではないから、乾くのを待つ必要もない。
故に私の手は休憩を挟むことなく、キャンバスの上をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。彼はピカチュウと一緒に、私のすぐ隣で、絵筆の忙しない動きを眺めている。
彼と私の距離は、ポニの花園にいた頃と比べると随分、短くなっていた。詰められた距離を、しかし私は窮屈だとは感じなかった。むしろきっと、嬉しかった。

私がキャンバスを広げてから、彼がやって来るまでの時間は驚く程に短い。
決まった時刻にここを訪れている訳ではないにもかかわらず、彼は私がキャンバスを広げてから10分と経たぬ間に必ずやって来る。
「何処かで私を監視しているんでしょう?」と、冗談交じりにそう尋ねてみたけれど、
彼は焦ったように大きく首を振って、無実を証明するように、大きな手で真っ直ぐにツリーの方角を指差すだけだった。
彼がポケモントレーナーであることは私も知っていたけれど、まさかあの場所に挑戦する程の実力の持ち主であるとは思いもしなかった。
私はとても失礼なことに、彼が「強いポケモントレーナー」であるということにただ驚いてしまった。そんな酷い表情をする私を、けれど彼は困ったように微笑んで許してくれた。

彼は毎日、バトルツリーの方角からやって来る。彼は毎日、あの大樹を駆け上っている。彼は毎日、あのツリーの頂上に立つことを夢見て、あの場所で熱いバトルを繰り広げている。
きっとあの木の上から、私がキャンバスを広げているところが見えるのだ。彼はそれを見つけるや否や、挑戦を中断して此処に来てくれているのだ。

あの大樹は彼の戦いの舞台で、私はそこを描いている。私は彼の輝きの片鱗に触れることが叶っている。
その事実は私をどうしようもなく高揚させた。まるで彼と一緒に戦っているかのような、そうした傲慢を働きそうになる程であったのだ。

「貴方が戦っているところを描いてみたいなあ」

傲慢ついでにそう呟いた次の日、彼は少し変わったプレゼントをくれた。バードウォッチングなどによく使われる、双眼鏡だった。
ポッポの絵が小さく描かれたそれを私が受け取るや否や、彼は踵を返してバトルツリーの方角へと駆けて行ってしまった。
お礼の言葉を言う暇もなかった。慌てて「待って!」と彼を呼んだけれど、彼は橋の上まで駆けたところで勢いよく振り返り、ツリーを指差しつつ、たった一言、

「見ていて」

とだけ告げて、また私に背中を向けて駆け出すのだった。
呆気に取られたままの私を置いて、彼はあっという間に見えなくなってしまった。

何を「見ていて」なのだろう。私は何を見ればいいのだろう。途方に暮れかけたその時、バトルツリーの頂上に誰かが姿を現した。
赤い帽子を被ったその「誰か」に、心当たりを覚えないほど私は鈍い人間ではなかった。
夢中で双眼鏡のレンズを目に押し当てれば、モンスターボールを少年のように大きく振りかぶる彼の姿があった。彼はどういう訳だか、バトルツリーの頂点に立っていたのだった。

彼の繰り出したリザードンと、相手のトレーナーの繰り出したアシレーヌは、互いに鋭い視線をぶつけ合っていた。ピンと張り詰めた空気に私は思わず身震いした。
長い沈黙の後で、彼は相手のポケモンを指差し、大きく口を動かして指示を出した。
勿論、私にはその声が聞こえない。ポニの険路に突っ立っている私のところまで、声が届くことはどう考えても在り得ない。
けれど、その瞬間の彼の横顔はどうにも幼い少年のようで、とても楽しそうで、生き生きしていて、静かにただ美しくて、私は、息を飲んだ。
無音のうちに放たれたその美しさに、私はあの藤を重ねずにはいられなかった。彼にはやはりどうにもあの静けさが似合うのだった。声など、きっと要らなかったのだ。
そう考えると、静かなあの場所で静かな彼に会えたのは、至極当然のことであったのかもしれなかった。藤も、彼も、なるべくして黙したのだと、本当にそう思えたのだ。

「ポケモントレーナーのレッド」という人物が、あの頂点で挑戦者を待つ側の存在であったことを、私はこの日、初めて知った。

リザードンは信じられないような速さでフィールドを駆けた。その強さはただ「圧倒的」の一言に尽きた。
あわよくば彼が連れている他のポケモンも見られるのではないかと期待していたけれど、彼はリザードンだけで相手のポケモンを全て戦闘不能の状態にしてしまった。
相手の黒髪の少年は、悔しそうに、けれど何処か嬉しそうに笑って、彼に握手を求めた。彼はそっと握り返してからリザードンをボールに戻し、少年の退場を見送った。
そして身体をこちらに向けて、帽子のつばをくいと少しだけ持ち上げて、合う筈のない視線がぶつかって、その白い頬が僅かに赤くなって、右手をほんの少し、振ってくれて。

「……」

そのまま彼はもう一度、リザードンをボールから出して、その背中にひょいと慣れた様子で飛び乗って、バトルツリーからこちらへと、物凄いスピードで降下してきた。
ああ、どうしてそんなにも速く来てしまうのだろう?そんなに慌てて来たところで、此処にはみっともない顔をした私しかいないのに。
私は貴方の静かな戦いの姿に恋をした、しがない絵描きに過ぎないのに。

それでも彼を乗せたリザードンはあっという間に私の方へとやって来て、彼はふわりと私の目の前に飛び降りて、
先程のバトルの余韻を引きずっているかのようなキラキラとした視線で「どうだった?」と問うように小さく首を傾げるものだから、
私はどうにも恥ずかしくなって、嬉しくなって、胸がいっぱいになってしまって、

「貴方のことが好きです」

こんな、とんでもない告白をしてしまって。

……彼は呆れなかった。嫌そうな顔もしなかった。けれど喜ぶことも、安堵することもしなかった。ただその少年のような目を大きく見開いて、こてん、と首を傾げていた。
「人を好きになるとはどういうこと?」と尋ねてしまいそうな、恋などというものをまるで知らないような、そうした、どこまでも幼い視線が私に真っ直ぐ向けられていた。
ああ、恋をするってどういうことなのだろう。人を好きになるってどういうことなのだろう。どうして彼を好きになってしまったのだろう。何をもって彼を好きだと言えるのだろう。
解らない。彼の純な問いかけに対する適切な答えを私は持たない。想いを立式するための何もかもが足りない。彼も私も覚束ない。恋の方程式は導けない。
それでも恋だった。それでも静かな貴方が、幼い貴方が、美しい貴方が好きなのだった。

「貴方が戦っているところをもっと見たいってことです!」

すると彼は帽子を少しだけくい、と押し上げて、とても嬉しそうに笑ってくれた。

バトルツリーの絵には、当然のように、私の恋の結晶が描き込まれた。
1か月かけて30号のキャンバスを埋め尽くした私は、今度は小さな8号のキャンバスを手に取った。
彼のピカチュウ、彼の履き古したスニーカー、二人と一匹で飲み干したサイコソーダの空の缶、彼がくれた双眼鏡、そうした小さなもの、愛しいものを沢山、沢山描いた。
彼はそんな私の姿をただ静かに見ていた。

彼が来ないとき、私は彼がくれた双眼鏡を構えて大樹の頂上を見上げる。そうすれば彼に会えるからだ。彼が戦っているところを、見られるからだ。
少年のような幼い目でリザードンやラプラスに指示を出す、その横顔は最高に美しかった。
挑戦者と交わされる力強い握手に少しだけ嫉妬して、彼の視線に舞い上がって、思わず手を振り返したりもして、そうした小さな時間、愛しい時間を沢山、沢山重ねた。
私はそんな彼の姿をただ静かに見ていた。

今日も彼に会えた。明日も彼に会える。奇跡のようなこの時間はまだ、終わらない。
絵は増え続けている。もうすぐ、個展を開けるくらいの数になる。双眼鏡のお返しとして、個展のチケットを彼に渡せたらいいなと、思っている。

そういう訳で、私は今日も恋をしている。静かな彼に、恋を知らない彼に、恋をしている。

2017.4.3

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