懸想の火の赤らむ所以

(生徒だった少女と、先生だった青年の話)

ヒオウギシティにはポケモンジムがある。ヒオウギシティには学校がある。
その二つの情報を聞いていた私は、隣町のヒオウギシティには大きな建物が二つもあるのだと、そうした推測をしていたのだった。
だから「そこ」に初めてやってきた時、ひどく驚いてしまった。まさかポケモンジムと学校が同じ建物の中にあるなんて、思いもしなかったのだ。
けれどもその事実は私をがっかりさせるものでは決してなかった。寧ろ、わくわくしていた。教室の窓から、かっこいいジム戦が繰り広げられているところを見られるからだ。

チェレン先生がジムリーダーとしてバトルをしている姿はとても素敵だった。負けることもあったけれど、それでも彼のバトルはいつだってキラキラしていたのだ。
勝利を手にしたときは挑戦者を励ましつつ出口まで見送り、敗北したときは自らのポケモンを労わりつつ、笑顔でジムバッジを挑戦者に渡していた。
バトルを終えたとき、彼の白かった筈の頬は高揚に赤く染まっていた。ポケモンバトルをすると、頬が赤く染まるのだということを、私はチェレン先生の顔を見て知るに至った。
どういう訳だか、それを窓から見ていた私の頬も熱くなっていた。ポケモンバトルというものはどうやら、する人の頬も見る人の頬も仄赤くしてしまうものらしい。

チェレン先生は皆の人気者だった。彼のことを「かっこいい」「素敵」と褒めはやす女の子は大勢いた。
また、バトルの強いチェレン先生は、男の子の憧れの的でもあった。彼は挑戦者にこそ敗北することがたまにあったけれど、生徒に負けたことはただの一度だってなかったのだ。
にこやかに笑いながら、彼は教師としての威厳とジムリーダーとしての風格を保っていた。
そんな彼がトレーナーズスクールの皆から慕われていたとして、それはしかし、当然のことであったのだろう。

私も、その「かっこいい」「素敵」とする女の子の輪に入って、そうだねと同意し、かっこいいよねと頷いていた。私だって少なからず、チェレン先生のことを慕っていた。
けれど私はその時、まだチェレン先生に熱い感情を抱くには至っていなかった。
故に私の「そうだね」「かっこいいよね」というのはただの、世間話に笑いながら相槌を打つような感覚でしかなかったのであった。

確かにチェレン先生は素敵だ。彼のバトルはとてもスマートだし、黒板を使わず、口頭で、あるいは実戦で行われる授業はとても分かりやすい。
バトルフィールドの土の匂い、風の冷たさ、そういうものと一緒に、私はこれまでの授業で習ったことを、彼の声と共に思い出すことができていた。
彼がしてくれる授業、彼のしてくれる話、彼の繰り広げるバトル、その全てがキラキラしていた。

……このように、魅力的なところを多分に備えた人であることは確かだった。
でもチェレン先生は「先生」だ。まだ10歳だった私には、先生、と呼ばれている彼が随分と年上の、違う世界に生きている人のように思われていたのだった。
チェレン先生は素敵な人、遠くで羽ばたくかっこいい人。それでよかった。彼に強烈な、燃え上がるような感情を抱いたことはなかった。抱きようがなかった。

けれどもその、先生と私の間で大きく隔てられていた筈の「世界」が、ある日偶然、重なることとなってしまったのだ。

「君の字はとても綺麗だね」

その日は作文の授業があって、文章を書くのが好きな私は、原稿用紙5枚にびっしりと、ポケモンのことやポケモントレーナーのことを書き連ねていた。
あまりにも夢中になっていたものだから、他の子供達がもうとっくに書き終えて、次々に教室を出て行ってしまっていたこと、
教室には私とチェレン先生しか残っていなかったこと、それらを、私は彼に声を掛けられるまで、まるで気が付いていなかったのだ。
彼は私が書き終えるのを待っていてくれたのだ、とようやく察して、さっと顔を青ざめさせて「ごめんなさい!」と謝ったのだけれど、
彼は優しく笑って首を振りつつ「出来上がるまで待っているから、焦らず、ゆっくり書きなさい」と言ってくれたから、
私は再び原稿用紙に顔を引っ付けるようにして、残りを夢中で書き続けたのだった。

最後の一文を書き終えるや否や、私はガタンと席を立って、5枚を軽く整えてから先生の方に向けて出した。
彼は「最後までよく頑張ったね」と私を褒めてくれてからそれを受け取り、もう一度、

「……うん、やっぱり君はとても綺麗な字を書くね」

と告げたのだった。
私は自分の字がそれ程、整っているとは思えなかったのだけれど、丁寧に書こう、という風には努めていたから、その努力を認めてもらえたようで、とても嬉しかった。
チェレン先生はそのまま教室を出て行こうとしたのだけれど、そのポケットから何かがひらりと私の足元に落ちてきたため、私は慌てて彼を呼び止めた。
「何か落としましたよ」と告げて、そのメモのようなものを取り上げて、……そして、私は首を捻ってしまった。

読めなかったのだ。とても失礼なことだけれど、本当にそうだったのだ。
そこに書いてあるのが「文字」であるのだということに、私は一瞬の間を置かなければ気付くことができなかった。
けれど、それが文字であると気付いてからも、何て書いてあるのか分からなくて、これはどういうことだろう、と考え始めていたのだけれど、
そんな私の手から、彼は慌てたようにそのメモを奪い取ってしまった。
その時の彼の顔は、まるでポケモンバトルを終えた時のように赤く染まっていたのだった。

「……」

……もしかしたら、これが先生の字なのかしら。先生の字はとても下手なものだったのかしら。
だから黒板を使わなかったのかしら。だからいつもパソコンで作ったプリントで授業をしていたのかしら。皆の前で文字を書きたくなかったのかしら。そういうことだったのしら。
けれど、この立派な人にも「できないこと」があるという事実は、私を落胆せしめるものでは決してなかった。
むしろそれは、私の中にあまりにも仄甘い温度で落ちてきたのだ。そっかあ、と喜びたくなるような重なりであったのだ。

「誰にも、言わないでくれるかい?」

恥じるように、悔いるように、祈るように、彼は弱々しい声で苦笑しつつそう告げた。
私は大きく頷いてから、でも、と首を捻った。

「文字が上手じゃなくても、誰もチェレン先生を嫌いになったりしませんよ」

すると彼は、私のその言葉を受けて、本当に嬉しそうに微笑んだのだった。
その瞬間の、雷の落ちるような、氷の割れるような、風が耳元をつんざくような「音」は、きっと私にしか聞こえていなかったことだろう。
存在しない筈の音を、静かな教室に鳴り響いたその音を、私だけが聞いていた。この場において恋をしていたのは私の方だったのだから、当然のことだった。

……チェレン先生は皆の人気者だ。皆に慕われている。そして私も先生を慕っている。
でもその日から、私の、チェレン先生を見る目は少し、皆とは違ったものになっていた。
彼は全能ではない。彼はかっこいいところばかりを有している訳では決してない。彼にもできないことがあり、彼にも少しだけ恥ずかしいところがある。
何故だか私はそのことにひどく安堵していた。彼との世界が重なったことが、どうしようもなく嬉しかった。今までよりもずっと、チェレン先生を近くに感じたのだった。

毎日、懸命に教師とジムリーダーの二つをこなす彼が眩しくて、ああ、好きなのだと、好きになってしまったのだと、気付いた頃には全てが遅すぎた。
恋というものに落ちた私が、その仄甘い奈落から一人で屹然と這い上がることなど、できそうになかったのだ。

だから私は、このよく分からない頬の仄赤さを弾けさせてしまいたくなった。

お手紙を書こうと思った。チェレン先生が綺麗だと言ってくれた文字で、私の気持ちを伝えようと思った。
僅かなお小遣いでシンプルな便箋を買った。鉛筆を強く握り締めて、そこに芯の先をそっと置いた。
……けれども、おかしなことが起きた。どうにも上手くいかないのだ。書けないのだ。
作文のように、ノートのように、私の鉛筆はスラスラと動いてはくれなかった。何度挑戦しても、へなへなとした、頼りないものにしかならなかった。
心臓がドキドキして、頭がくらくらして、倒れてしまいそうだった。
私は思うように書けないことが悔しくて、彼の褒めてくれた字を再現できないことが悲しくて、遣る瀬無さに泣きながらたった一言、

「好きです」

とだけ書くのがやっとという有様であった。

けれどもっとおかしなことが起きた。たったそれだけのお手紙を渡して、彼がそれに視線を落とした途端、その白い頬がふわっと赤くなったのだ。
まるでポケモンバトルをしている時のようだった。まるで自らの汚い文字を恥じている時のようだった。
何故だかそれを見た私の頬も真っ赤になってしまって、二人はいよいよ押し黙って時を待つほかにないのだった。
恋をすると顔が赤くなるのだ。ポケモンバトルをする先生を窓から見ていた私、その頬が赤らんでいたのは恋をしていたからなのだ。私は、ようやく気付いた。

「……君が此処を卒業して、大人になったら、もう一度この手紙をくれないか。その時には僕も、君のことを好きだと言えるようになっているだろうから」

長い、長い沈黙の後で彼はそれだけ言った。
まだ10歳の私には、大人というものになることは途方もなく先の話であるように思われて、とても長い時がかかるような気がした。
今じゃ駄目なのかしら、などと思ってしまうあたり、私はまだ、彼が教師であるが故の事情を理解できていなかったのだ。
理解できないまま、それでも、今ではいけないのだと、待たなければいけないのだと、長い時がかかるのだと、そうした少し難しい事実を受け入れなければならなかった。

けれど私は駄々を捏ねたり拗ねたりしなかった。あまりにも素直に、元気よくはいと返事をしたのだった。
何故ならチェレン先生は私の気持ちを否定しなかったからだ。受け取ることはしてくれなかったけれど、それでも、許してくれたからだ。
今はそれで十分だと思った。それ以上など望むべくもなかった。

「君が大きくなるまで待っているから、焦らず、ゆっくり大人になりなさい」

まるで作文を書いている私を待っているときのような、あの日を思い出させる優しい口調でそう言ってくれた。
それから、と付け足すようにして、彼は耳まで真っ赤にしてこんなことを告げるものだから、私までいよいよ真っ赤になってしまったのだった。

「……ありがとう、僕を好きになってくれて」

それで本当に待っていてくれたのだから、パパは本当にお馬鹿さんだったのよ。
そんなことを歌うように語りながら、ママは僕の隣でピンク色のカクテルに口を付ける。今のママの顔が赤いのは、お酒を飲んでいるからなのか。それとも恋をしているからなのか。

「馬鹿とは心外だな、君が好きだから待っていただけだっていうのに」

パパのグラスにはお酒ではなく、僕と同じオレンジジュースが入っている。僕は酔っていない。僕の顔は赤くない。けれどもパパの顔はどうにも赤いのだ。
僕は二人の顔を見比べて、全く同じ色をしていることに気付いて、ああ、二人は今でも飽きることなく恋に落ちているのだと、それはお酒の赤ではなく恋の赤なのだと、確信した。
僕はそんな二人を見ているとどうにも気恥ずかしくなる。でもそれ以上に何故だか嬉しくなる。

僕の頬もいつか赤くなるのだろうか?

2017.4.14
はと麦さん、ちょっとだけ遅くなりましたがハッピーバースデー!

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