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入学して半年が経った。
手に入れたのは、何十冊もの本の知識と、静かな時間と、素晴らしい成績と、

「やあ、早いね」

この、厄介な知り合いだけであった。

あの男、Nとは、主に図書館で頻繁に顔を合わせることとなった。
それまで周りの人間など気にしたこともなかったけれど、いざ探そうと顔を上げてみれば、その長身と鮮やかな髪は嫌でも目に付く。
傍に歩いて行けば、彼は私の声ではなくポケモンの声に振り向き、微笑んで隣の椅子を指差す。
それに座り、彼の隣で本を読む。後は別段馴れ合うこともない。図書館は沈黙を美とする空間であり、そのルールを破く気は私にもNにもなかった。
彼は彼でよくわからない数学や物理学の本に夢中になっていたし、私も私で本の世界に入り浸っていた。

そうして閉館時間になり、ウツギ先生に追い出され、もうすっかり暗くなってしまった外を歩いて寮に帰る。
わざと遠回りをして、就寝時間ギリギリまで芝生を歩き回る。

キミはとてもお喋りだね、とNに笑われたことがあった。しっかりしているのに、寝癖を直そうとはしないんだね、と嬉しそうに言われたこともあった。
どうにも彼は、今まで私が受けたことのない指摘を次々としてみせる。
そして、その全てが当たっている。
それはとても悔しい、解せない。私はNの本心どころか、いつも傍にいるミジュマルの声すらも拾うことができないのに。
しかし、それすら何故か心地良いのだ。こいつにならいいや、と思えてしまうのだ。

きっと人との会話に飢えていたのだろう。だから、こんな男との会話に満足してしまえるような人間になってしまったのだろう。
そうしたことをNに話してみると、「まさかキミには友達がいないのかい?」なんて、随分と露骨な言い方をしてくるので、
私は「あんただって同じでしょう」と笑って、彼の優しい孤独をからかってみた。

「そうだね、トモダチは沢山いるけれど、「友達」は……キミくらいだ」

ポケモンのことを指す「トモダチ」と、人間のことを指す「友達」。Nはその二つの音を、異なるイントネーションで巧みに使い分けていた。
その使い分けに気が付いてしまえる程には、私は彼との時間を重ねていた。重ね過ぎていた。
だから、おかしな彼の発言に眉をひそめることなく、クスクスと笑いながら「奇遇ね、私もよ」などと言えてしまうのだった。

おかしな私とおかしなNはいつだって一人で、一人と一人がこうして同じ時間を歩いているだけのことで、しかしただそれだけのことが、幸せだった。

ホグワーツにやって来た8月の頃には、この学園を囲む森の向こうに、絵に描いたような入道雲が浮かんでいた。
今はその白が、学園の屋根を、芝生を、埋め尽くしている。冬という季節は空に限らず、何もかもを白く塗り潰していった。

図書館の閉館時刻と同時に、外へ出る。やわらかな月光が雪を眩しく反射している。
降り積もる雪が生徒たちの足跡を隠してしまったようで、今朝から降り続いていたにもかかわらず、外はまるで早朝の新雪であるかのように無垢な様相を呈していた。
芝生も白い。ホグワーツも白い。足跡も白い。私とNの呼吸までも白い。
純朴を極めたその色は、私よりもきっとNに似合っていた。純朴が過ぎて異常でさえある彼だけれど、それでもこの冬の色は彼にとてもよく合うような気がした。

寒いね、と笑うNの首元には真っ赤なマフラーが巻かれていたので、私はえいと両腕を伸ばしてそれを奪い取ってみた。
自分の首筋に押し当てると、彼の体温が僅かに残っていて、妙に安心する温かさであったので、私は意地悪をしたことさえ忘れてほっと安堵の息を吐いた。

……残念ながら、ホグワーツのマフラーは寮によってデザインが指定されている。私が首に巻くべきは、深緑のマフラーだ。
故に私は、それを購入してすらいなかった。スリザリン、であることを知らしめるその色を、私はまだ好きになれていなかったのだ。
しかし寒さは容赦なく襲いかかって来るもので、Nの人肌が残っているマフラーを顔に押し当てて暖を取る、などという悪いことだってやってしまいたくなる。
彼は寒そうに肩を竦めたけれど、そうした悪行を働く私のことを本気で叱ったりはしなかった。

「返してくれないかな。寒いんだ」

「私だって寒いのよ。……ああ、それならこうすればいいわ」

私はマフラーをNに返し、足元の雪を掻き集めて小さなボールを作った。
何をしているんだい?と同じように屈んだ彼の顔面に、それを思いっきり投げつける。
案の定、彼は雪の降り積もる芝生の上へと派手にひっくり返り、両手で顔面の雪を咳き込みながら払い始めた。
それが終わる前に次の玉を作り、大きく振り被る。「トウコ!」と私を本気で咎める彼の声に、私を制止させる力などある筈もなかった。

「な、何をするんだ!」

「ほらほら、やり返さないと雪に埋れちゃうわよ?」

芝生の雪は柔らかい。それを掬い上げ、Nの上に降らせるようにかけた。
慌てて起き上がった彼も同じようにボールを作り、私に狙いを定める。危ない、と思った私は踵を返して走り出した。
逃げるなんて狡いじゃないか、という声がしたので、間合いを取って再び雪玉を投げた。
彼も負けじと投げてくるが、コントロールがなっていない。私よりずっと下手だ。

その間にも私は容赦なく雪を投げ続ける。
黒いロープが雪で白くなり始めた頃、彼は雪玉を作るのを諦めてこちらに駆けて来た。
球技は苦手でも、陸上競技は得意らしく、あっという間に追い付かれて飛び掛かられる。

「わっ!」

両者共に、冷たい芝生の上に飛び込むこととなってしまった。
あまりの冷たさに悲鳴を上げるが、おふざけが過ぎて温まった身体にはそれすら心地良い。

ああおかしい。彼が私が滑稽で堪らない。優等生を諦めてしまった私が、人であることに馴染めていない彼が、おかしくて堪らない。
私は起き上がることを放棄して、雪の上に四肢を投げ出してみた。月光が眩しすぎて、思わず目を細めた。

「あんた、足は早いのね。びっくりしたわ」

「トモダチと毎日走っているからね」

「ああ、そういえば、新しい「友達」にはいつ会わせてくれるの?」

「今はもう眠っているよ。休日の朝に図書館においで。一緒に行こう」

今ではもう、彼のペースに振り回されることもなくなった。純朴を極めたその歪に、いちいち怯んでいた頃の私はもう何処かへ行ってしまっていた。
代わりに、彼という人間がどうやって生まれたのか、どんな人生を歩んできたのかを、私はこれまでのNとの会話で少しずつ、知り始めていた。

小さい頃に親が、Nを置いて失踪したこと。ポケモンと話す素振りを見せていたがために気味悪がられ、沢山の親戚の家をたらい回しにされたこと。
その末に、遠縁の親戚であった一人の男のところに引き取られたこと。
ホグワーツで魔法薬学を担当している、偏屈で性悪な教師、ゲーチスが、今のNの引き取り手であるのだということ。
あの人格に問題のありそうな教師と、常識というものを悉く欠いたこの男との間にまともなコミュニケーションが構築される筈もなく、
それいらい、「家族」とは名ばかりの、冷たい生活を過ごしてきたということ。

……けれども「寂しくはなかった」ということ。Nの傍にはいつだってポケモンがいたこと。
けれどもそのポケモンと、魔法を介さず普通に話しているような素振りのせいで、2年遅れて入学してからも随分な孤独を極めてきたこと。
それでも、彼はポケモンと話せるという稀有な力のことを隠さなかったこと。そういった調子であの日も、私に話しかけてきたのだということ。

彼を構成していた「純朴を極めた歪」の正体を知ってしまった私は、しかし「だからどうした」と笑ってやった。
境遇など、私が配慮すべきことではない。それは彼の問題であって、私が関与すべきことではないのだ。
……私が幼馴染やスリザリン生と殆ど話をしないことに、彼が干渉しないのと同じように。

私にとって彼は、出会い頭に「可哀想」などという言葉を吹っ掛けた礼儀知らずな奴で、おかしな調子で笑い、おかしな雰囲気で私の図星を突き、
そして、こんな私のことを認めてくれた、とても厄介で大切な知り合いに過ぎない。

「ああ、こんなに楽しいのは始めてだ」

そう言う彼の笑顔に、その過去は邪魔をしない。
彼は彼のままで在れていて、そしてそんな彼の隣でなら私は私のままで在れる。
他に何を望むべきだったというのだろう。それで十分だった。

「奇遇ね、私もよ!」


2013.9.10

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