5

ミジュマルが進化した。芝生の雪がすっかり溶けてしまった春の頃だった。
私が喜んだのは勿論だが、それ以上に喜んだ人間がいた。

「ああ、良かったね、進化できたんだね」

放課後、芝生の上に寝転がっていると、どこでどう私の噂を聞きつけたのか、Nがそう言って駆け寄ってきた。
進化して一回り大きくなったフタチマルを見つけると、彼はまるで自分のことのように嬉しそうに笑い、おめでとうと何度も口にした。
私もフタチマルへの進化には相当喜んだ筈なのだけれど、彼の反応を前にすると、私の祝福がひどくドライなものに思われてしまう。

「カレはずっと進化したがっていたんだよ。君の役に立ちたいと、ずっと言っていたからね」

ああ、そうだったのか。フタチマルはそんなことを思ってくれていたのか。
ありがとう、と私はフタチマルに微笑みながらそう告げてから、彼の長い髪を勢いよく引っ張った。
何をするんだ、と涙目で抗議する彼を冷たい目で見遣り、相変わらず狡い力ね、と思ったことをそのまま吐き出してやった。

……このもどかしさは、きっとNには一生解るまい。
聞きたいのに聞こえないもどかしさ、悔しさを、きっとNは一生理解することはないだろう。
その逆に、聞きたくないのに聞こえてしまう声があること、見たくないのに見えてしまう姿があることへの苦悩を、
見えたり聞こえたりしない私が理解できる筈もなかったのだけれど。

新しい本を借りに行かなければ、と思った。別に課題に追われている訳でも現実逃避がしたい訳でもなかった。
好きなことをしたいと思うことに、時間もタイミングも理由付けも必要なかった。
Nも行くよね、と誘い、歩き出した。彼は暫くの沈黙の後に、私の手元にある本を見て、奇妙なことを尋ねてきた。

「キミは何を目的に本を読んでいるんだい?」

「は?」

思わず足が止まってしまった。
怪訝そうに隣を見上げれば、問い掛けた本人は、何をそんなに驚いているのかといった風に首を傾げていて、私は益々困惑したのだった。

「だって、本を読むのは楽しいじゃない。あんただって、好きでなきゃこんなに図書館に通い詰めたりしないでしょう?」

苦し紛れにそう返してみた。彼は顎に手を当てて目を見開く。

「驚いたな。キミの今までの読書や勉強は、何か目的があって行われているものだと思っていた」

「目的がなくたって、楽しいものはあるでしょう」

少なくとも、その言葉に嘘はなかった。
今まで仕入れた知識が、何の役にも立たなかったとしても、この知識で何も変えられなかったとしても、それはそれで良い気がした。
人が知らないことを知っているのは気分がいい。人ができないことを容易くやってのけて見せるのは楽しい。
その優越感は自信に繋がる。知識と経験は自尊心を高めてくれる。それは、たとえ直接的に知識として生きずとも、ずっと私を支えてくれる。

「Nには、何か目的があるの?」

すると彼は目を輝かせて、まるで始めから用意していた詩歌であるかのように、それを歌うように、囁くように、告げた。

「『どうしてポケモンはヒトと共に在ることに喜びを見出すのか』」

「!」

「ボクはこの謎を解き明かしたいんだ」

それは、と私は自らの本音を飲み込んで、「随分と大きな夢ね」と揶揄するような口調を努めて作り、呟いた。
そうだろう、とNは肩を竦めて困ったように笑いながら、けれどもその目的に誇りを持っているような風で、傷付いた素振りを全く見せなかった。

……それは、彼が探し求めているその答えは、ポケモンの声が聞こえる彼にとって最も近い位置に用意されているようで、
けれどもその実、人間との触れ合いに欠け過ぎている彼にとって最も遠い位置に放り投げられているような、
そうした、とてもいじらしく純粋で、けれどもひどくアンバランスな目的であるように思われてならなかった。

その皮肉に胸を突かれる思いがした。今だけは彼の生い立ちを憎みたくなった。悔しさに掌を握り締めた。
何故「私が」悔しいのだろうと思ったけれど、理由など解らずとも今の私の胸を占めるその悔しさは本物だった。疑いようもなかった。

トウコ、君には夢があるのか?」

その言葉に不意を突かれて、私は当惑した表情のまま固まってしまった。
それでもNは私の答えを期待しているかのように、じっと私を見つめてくるので、何か言わなければと焦った。私は必至に考えを巡らせた。

夢、だなんて、そんなこと考えたこともなかった。
しかし、今の私の中には、確かにそれに似たものが渦巻いている。
彼の境遇、彼の意思、彼の展望、彼の言葉、それらが確かな質量をもって私を突き動かそうとしている。
もし「これ」を夢と呼ぶのなら、それはきっとこいつが、この男がくれたものだ。

「『どうして私達にはポケモンの声が聞こえないのか』」

正直、私の夢なんてどうでもよかった。叶わずとも私は痛くも痒くもなかった。
だから、彼のために私の夢を用意した。彼の夢を叶えるために、私は私の願いを叶えようと思った。

「……いいね」

彼は優しく笑う。

「ボクはトモダチの視点から、キミはヒトの視点から。ボク達の夢が叶えば、きっと世界は大きく変わるよ」

世界が変わる。彼はそんな大きなことをうそぶいて、小さな子供のようなキラキラした目をいっぱいに見開いた。

夢が叶うかどうかなんて、私は別にどうだっていい。
私の即興で作り上げ、何とか言葉にできた拙い夢を、何としてでも叶えようだなんて、そんなことは思っていない。
でも、ああ、お願いです。

「きっと、叶うわ」

彼の夢を叶えてください。
この、どこまでも純粋で無垢で、人に真っ直ぐな気持ちを向けることしか知らない、ポケモンのことが大好きな彼の夢を、叶えてください。
私が私であることを許してくれた、この優しすぎる人の夢を。ポケモンのことを知り過ぎていて、人のことを知らなさすぎる彼の夢を。
そのためなら、ああ、私は。

トウコ?」

「……何よ」

「何故泣いているんだい。ボクはもしかして、また、ヒトを不快にさせることを言ってしまったのかな」

貴方のために生きてやる、と思った。
貴方のために学び、貴方のために知識を使い、貴方のために勇気を奮ってやろう、と思った。
いつでも、いつまでも、貴方の傍にいようと思った。

「私はあんたから離れないわ」

それでも、そんな一途な誓いはどうにも私には気持ちが悪くて、とても似合わないように思われてしまったから、
私はこんな尖った、冷たい言葉で、こいつの自由を悉く奪ってやることにした。
そういうことに、しておこうと思った。

「絶対に、絶対に離れてなんかやらない。あんたは私のフタチマルが大事なんだろうけれど、私は違う。
あんたの気持ちなんて関係ない。あなたが嫌だって言っても、一生、付きまとってやるんだから。
あんたはそんな我儘で最低な人間に捕まったのよ、とても「可哀想」だわ」

人を馬鹿にするような、意地悪な笑みを作ろうとした。
彼は困ったように笑いながら、みっともない表情しか作れていないであろう私を静かに許した。

「そんなことをヒトに言われたのは初めてだよ」

「……奇遇ね、私も、こんなことを人に言ったのは初めてよ」

でも、ヒトの所作なんてまるで解っていないようなこの男が、まるで人になったかのように私の頭を撫でて、私の肩をそっと抱くから、
私は「調子に乗らないで」と豪快に笑い泣きをしながら、いつかのようにNを芝生の上へと押し倒した。


2013.9.10

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