「キミが正直に生きる勇気を持ったのだから、ボクも同じように、認める勇気を持とうと思ったんだ。
ずっと目を背け続けてきたものに、向き合わなければいけないと、今キミの前でそれができないのであれば、これからもずっとできやしないだろうと」
私は言葉の一切を忘れてただ、沈黙という狡い音ばかりを連ねていた。
Nはそんな私を許すように、淡々と自らの思いを語り続けていた。
「キミが、ボクのたった一言で呆気なく考えを変えてしまったとき、キミの生き方はなんて煩雑で忙しないのだろうと思った。
そうした整然としていない生き方は美しくないのだと、世界に根付く数式は迷ったり変化したりすることなど有り得ないのだと、そうあってはいけないのだと、思っていたから」
「……」
「けれどそうした、あまりにも正直に生きるキミの姿は、美しかった。「これが私だと胸を張っていられる」と、あれ以上に美しく屹然とした声を、ボクは聞いたことがなかった。
キミの存在はいつだって、数式や図形の外にあった。ボクはキミが羨ましかった。キミのようになりたかった」
その言葉にかぶせるように、「あんただってなれるわ!」と私は叫んでいた。
そこには彼に縋るような、懇願めいた響きがあったことはどうにも否めない。
私は私の嫌悪してきた狡い大人と同じ色をした声音を彼に向けてしまっていた。解っていながら止まらなかった。
私が私の糸を切ることができたのだから、あんたにだってできない筈がないと、教えを説くように、諭すように言い聞かせようとした。
けれど彼は「無理だよ」と首を振り、自分はもう、戻れないところまで来てしまったのだという姿勢を崩さない。だから私は更にまくし立てた。
これ程までに必死になったことが未だ嘗てあっただろうか。
私はNの腕を掴んだままに自らの過去をぐるぐると思い出そうとしたけれど、記憶の海はあまりにも平凡に凪ぐばかりで、これに類する激情を弾き出してはくれなかった。
「戻れないなんてこと、有り得ないわ。これはあんたの問題なのよ、あんた以外の誰も、あんたの進む道を決めることなんてできないの」
そんな当たり前のことを、私は貴方に言われるまで忘れていた。
『何がキミの自由を奪っているのだろうね?』
あの言葉をくれたのは、他の誰でもない、貴方だ。
それなのに、貴方がすっかり忘れてしまってどうするの。貴方は私に勇気を示してくれたのに、どうしてその勇気を自分の道にも振りかざそうとしないの。
彼を叱責する言葉は星の数程に浮かんできたけれど、私はもう、先程のように怒りに任せて酷い言葉を並べることはできなかった。
彼の「できない」というどうしようもない不自由の理由に、私は少しばかり思い至ってしまったからだ。
彼はきっと恐れているのだ。踵を返すこと、これまで歩いてきた道を引き返すことを怖がっている。
そうした恐怖は益々、彼の背に垂れる白い糸を強固なものにしているように思われた。
きっと私の背中に伸びていた糸だって、そうした「恐怖」がべっとりと張り付いていたのだろう。
私もNも、そうした恐怖の奴隷になっていた。時の流れと共に強度を増したその糸は、益々私達を不自由にした。
私にとってその恐怖の中身とは、皆に見限られることだった。彼等の願いを拒んで嫌われること、見損なったと軽侮されることを何より恐れていた。
そんな私の恐怖を取り払ってくれたのは他でもないNだ。私の消え入りそうな声音に飛んできてくれたこの男。どうしたんだいと私の目線に屈んでくれたこの青年。
世界の全てが私を嫌っても、こいつだけは私の絶対の味方であり理解者でいてくれる。そうしたあまりにも思い上がった確信が、私から恐怖の糸を切り落とすに至ったのだ。
こいつにとっての恐怖はおそらく、「これまでの自分が否定されること」にあるのだろう。
これまでの歩みを否定されることはすなわち、それだけに心血を注いできた彼が、これからの歩みに見出すべき意味を失うということになる。
『それでもボクは生まれ直すことなんかできやしないんだ。』
これまでの全てをなかったことになどできない。間違いは間違いのままに残り続け、これからの歩みに生かすべき糧など何一つ存在しない。
彼はそう思っているのだ。だからこそ引き返すことを怖がっているのだ。
自らの背に張り付いた糸の存在に気付きながら、それでもそうした白い糸に吊り下げられることに甘んじているのだ。
貴方がその糸を切れないのなら、代わりに私が切ってやる。
けれどこいつの糸はどうやって切られるべきなのだろう。私よりもずっと勇敢で自由に思われた彼に、本当の勇気と自由を贈るにはどうすればいいのだろう。
彼の全てを紐解くには、私は彼のことを知らなさすぎた。けれど、だからといって、私の無知なんかで易々と諦めきれるような存在ではなかった。
こいつのことが嫌いだ、大嫌いだ。けれど私はこいつを絶対に見限らない。他の誰がこいつを揶揄し、軽侮しようとも、私だけは絶対に見限らない。
私がどこにいようと飛んできてくれて、いつでも何があっても私の味方でいてくれる。そんなあまりにも美しい確信をくれたこの人のことを、私は必ず、救ってみせる。
「N、世の中は変わっていくものなのよ。私もNも成長するし、ポケモンだって強くなる。それに合わせて考えを変えていくのは自然なことよ。
ずっと同じ形を取るものなんか、あんたの好きな数学や物理の中にしかないわ」
「……そんなことはない。数学も物理もこの世界が作ったものである筈だ。
そうした素晴らしい数式の生みの親たる世界が曖昧な、答えのない形をしているなんてことはあり得ない」
「確かに数学や物理で証明できる物事もあるけれど、でも私達が生きているのはそういう世界じゃないのよ」
「でもボクは今までそうした世界で育ってきた!」
……残念なことに、私はまだNのことを知らなかった。
彼がどのような環境で育ち、どのような教育を受け、どのようなポケモンとばかり心を通わせ、どういう経緯でプラズマ団の王となったのか、その全てを私は知らなかった。
だから彼の叫んだ「そうした世界」がどういうものなのか、解らなかった。私は彼の世界を紐解けないままだった。
しかし紐解けずとも、彼がこちら側の世界で見つけた真実に困惑していることは理解できたのだ。
こちらの真実と彼の真実とがあまりにも噛み合わないことに驚き、狼狽し、逡巡して結果、諦めるに至ったのだと、そう推測することはあまりにも容易にできたのだ。
こいつにとって、線はどこまでも真っ直ぐに伸びるものであるし、平行線は決して交わらないものであるし、物体はいつだって加速度的に落下するし、
白と黒が異なる色を呈することなど有り得なくて、円周率はどこまでも果てしなく続いていて、メビウスの輪はきっと綺麗な数式で表現できる代物であって、
……きっとそうした、紙や数字の上にだけ成り立つ世界こそが、彼の他ならぬ「真実」であったのだろう。
ポケモンはいつだって人に虐げられ、傷付けられていて、ポケモンは素晴らしい存在である筈なのに人がその素晴らしさを汚していて、
だからこそポケモンと人は離れるべきなのだと、そうして初めて、彼の愛するポケモンは完全な姿をとるのだと、それが彼の真実なのだと、私はようやく、理解する。
そうした真実を構築してきた彼の背景を私はまだ知らなかったけれど、それが彼の真実であったことは疑いようもなかった。
だからこそ、彼は彼の愛したポケモンと別れる覚悟を決めていたのだ。
けれど、違う。彼の真実であった筈の世界は此処にはない。
線はいつか曲がるし、平行線に見えるものだって果てしなく続ければいつかは交わる。白と黒が混じれば灰色になるし、この空間にはいつだって風が吹いている。
ポケモンと人は、こんなにも幸せに穏やかに暮らしている。
私にとっての真実はそうした形をしていた。そしておそらく世界の真実だって、そうした形をしているのだろうと思い上がっていた。
少なくとも私には、Nのそうした真実を「間違っている」と否定できるだけの全てが揃っている。
「ねえ、あの上にある葉っぱを取ってくれない?」
突然の話題の転換に、彼は勢いを殺がれたような拍子抜けた声音で「……これのことかい?」と確認を取り、
しかし私が頷くと、特に躊躇いを見せることなく、私の手では届かないような高い位置にある葉を一枚だけ千切ってくれた。
「ありがとう」とお礼を告げてから受け取り、彼の眼前に掲げる。
首を傾げる彼の目を、その葉を通してしかと見上げ、「見ていて」と無言で訴えてから、そのたった一枚を宙に落とした。
ひらひらと宙を舞い、吹いてきた夜風に舞い上げられたりくるくると踊ったりしながら、やがてそれは静かに土に落ちて、動かなくなった。
たった一枚、けれど確かに私の知る真実の形を取ってくれたその葉に、彼はいよいよ瞠目した。
物体は、数学や物理の世界のようにただ淀みなく真っ直ぐに落ちることはあり得ないのだと、そう示すための道具なんて、この一枚で十分だったのだ。
「……どうして、真っ直ぐに落ちないんだい?」
どうして、と問われたところで、私は答えなど持ち合わせていなかった。けれど答えられることがただ一つだけあった。
それはおそらく世界の真実ではないのだろう。この現象を伝えるための適切な言葉は、もっと別にあるのだろう。
けれどNはこれまで、彼の真実とする持論をずっと私に振りかざしてきたのだから、私だって、私の世界はこうであるのだと示したところで、構わない筈だ。
「そんなの、ひらひらと落ちた方が綺麗だからでしょう」
あまりにも長い沈黙がこの場を支配していた。言葉を発することをしない私達の代わりに、風が、木々が、囁いていた。
やがて彼は「……ああ、そうだったんだね」と声を上げて笑い始めた。まるで私のような豪快で快活な笑い方は私を少なからず驚かせ、同時に不安にもした。
何が彼を愉快にさせたのかを解りかねていたから、私はその笑い声に同調することができずにただ怪訝な顔で沈黙していた。
やがて一頻り笑い終えた彼は、更にもう一度、私の見たことのない表情を浮かべてみせる。
「ボクの見てきた世界というのは、この葉っぱ一枚で容易く覆されてしまうような、そんな、あまりにも呆気ないものだったんだね」
「!」
「ボクはそうした、ひどく呆気ない存在だったんだね」
違う、と叫ぼうとした声は、彼の泣きそうな、どこまでも人らしい笑顔に飲み込まれた。
陽はすっかり落ちていた。すぐ近くに都会町があるとは思えない程に、木々の隙間に見える星空は透き通っていて、眩しくて、私は彼の代わりにまた、泣いた。
2016.4.8
(「椿姫」より、最後の日記を書く女性と彼女の細い指に握られた万年筆)