8

思いっきり歯を食いしばった。潰れて粉々になってしまうのではないかと思うくらいに強く、何もないところを噛み締めて、嗚咽が漏れ出ないようにとみっともなく願った。
私は貴方を否定しようとしてこの葉っぱを落とした訳では決してないのだと、貴方にこの世界の真実をちゃんと見てほしくて葉を手に取ったのだと、
しかし中途半端に憶病な私は口にすることができず、ただ、泣きそうな顔で微笑む彼を見上げることしかできなかった。
失意のどん底に落ちた彼を引っ張り上げるための言葉を、しかし私は紡ぐに紡げなかったのだ。今、口を開けばまだ嗚咽が零れてきそうだったからだ。
彼はそうした、悉くみっともない私の口から溢れてきそうな弱々しい嗚咽と、私の目から流れる透明な血が止まるまで、ただ静かに微笑んで、私の前に立っていた。

夜風がふわふわと彼の長い髪を揺らしているようだった。
その彼の、新芽のように淡く儚く、けれど確かな鮮やかさをもった髪が揺れる様をはっきりと目で捉えられるようになった。
それは私の目に張っていた透明な血の膜が、ようやく薄くなった証拠でもあった。
けれど私は、自分が泣いていないと確信できるようになってからも、噛み締めた歯を長い間、緩めることができずにいた。

「N、世界は数式や図形の外にあるのよ」

けれど私は長い、あまりにも長い沈黙の後でそれを破った。この長すぎる沈黙の音を掻き消すことができるとして、それはやはり私でなければいけない気がしたのだ。
私がこの沈黙に終止符を打たなければ、次に聞こえてくるのはこの青年の嗚咽であるのかもしれなかったからだ。
私よりもずっと背の高い、私よりも少しばかり年上である筈の、けれど私よりもずっと幼く純粋なこの青年の涙を止める術など、私が持ち合わせている筈がなかったからだ。
そして何より、目の前でどこまでも人らしい笑みを湛える彼は、そのまま一言も言葉を発することをしない彼は、私の言葉を待っているように思われたからだ。
彼は自らの嗚咽ではなく、他でもない私の言葉を待っているのだと、そう思い上がっていたからこそ私は口を開いた。
彼を許し、導くための力が私の言葉にあるのだと、信じていなければ不安に押しつぶされそうだったから、そんな懸念など全く考えずに、ただ必死に言葉を重ねた。

「私達の住処は、線がどこまでも続いていて、黒と白が決して混ざらなくて、一陣の風も吹かなくて、嘘だってただの一つもないような、そんな場所には決してないのよ。
私達は、必ず交わる線の世界にいるの。風が気紛れに吹いて、白と黒は一度混ざれば二度と元には戻らなくて、皆が狡くて嘘吐きな、そんな世界にいるのよ。
私もNも、此処にいるの。此処でしか生きていけないのよ」

それはきっと、半ば自分に言い聞かせた言葉であったのだろう。

「逃げよう」と促して彼の腕を取った。こいつとなら何処までも逃げられると信じていた。
逃げた先には、狡い大人もつまらない嘘も存在しない世界があるのだとして疑わなかった。
私達はこのイッシュから逃げることでようやく自由を手にすることが叶うのだと、私は本気で信じていたのだ。

けれど違った。私やNが何処に逃げようと、私達に垂れた糸はどこまでも付いてくるのだ。
何処にいても、何処にもいかずとも、その糸を垂らす空からは逃げようがないのだから、私達はその糸によって不自由になるしかなかったのだ。
その不自由に苦しんでいるのは私だけだと思っていた。その糸が私にしか見えなくて、彼は自らの背に垂れ下がる白い糸に気が付いていないのだと。
だからこそ、私がその糸を引き千切らなければいけないのだと。

しかし、彼にもその糸は見えていたのだ。彼は自らに垂れる糸が己を不自由にしていることに気が付いていた。
それでいて私のようにその糸を切ることができず、その勇気を持てない自分をもうすっかり、諦めてしまっていたのだ。彼だって私と同じ、その糸に吊られた人間だったのだ。
「生まれ直すことなんかできやしない」そう告げた彼を、確かに私は、糸が彼の背に垂れる前の状態に戻してやることなどできないのだろう。
けれど、私は諦めない。糸があるなら切ればいいだけのことだ。そのための刃がないのなら私が引き千切ればいいだけのことだ。
だって私の糸を切ったのは、他でもない彼である筈なのだから。私の心を自由にしてくれた彼に、私にだって同じことができる筈なのだから。

「私の言葉を信じられないのなら、ポケモンの声を聞きなさい。あんたの真実はいつだってそこにあったんでしょう?」

私はもう一度、自分のポケットからボールを取り出して彼の眼前に掲げた。読んでみなさいと自らの目で訴えた。
けれど驚くべきことに、彼は少しだけ面白そうに肩を竦めて笑った後で、その、かけがえのないトモダチを閉じ込めているボールを、私の方へと押し返したのだ。
「そんなこと、聞くまでもないことだよ」そう告げる彼の声はほとほと冷え切っているように思われた。
すっと身体が冷える心地がしたのは、おそらくこの夜の風のせいではないのだろう。

「ボクの中でも、きっともう答えは出ていたんだ。世界には数式で表しきれないことが多過ぎることにも気付いていた。キミに勝てないであろうことだって解っていた。
数式の解をボクは既に手にしていたにもかかわらず、キミの言葉を求めたんだ。
キミの言葉が、ボクの散らかった心を在るべき形にしてくれるような気がして。……キミならボクに代わって、英雄になってくれるような気がして」

最後の言葉に凍りついた。背中を冷たいものがと伝った。彼の言葉はまるで氷のようだ。
冗談じゃないわ、と逆上してみせたけれど、その声すら弱々しいものになっていて、そのことに私は益々苛立つ。苛立ち、そして悲しくなる。

「あんたの代わりなんて何処にもいないわ。私の代わりはいくらでもいるかもしれないけれど、あんたに代わることは誰もできない。私だってなれない。
万が一私にそんな恵まれた素質があったとして、それでも私はあんたの代わりなんかになってやらない。そんなこと絶対に認めない!」

泣きたい、とさえ思った。けれどどうして私が泣くことができるだろう?
自分の全てを否定された、刺すような重い心地、それを細い身体に抱えて立っているのがやっとであるかのような彼が、あまりにも人らしく穏やかに笑っている。
……それなのに、どうして彼と同じ苦しみを抱けない私が、彼以上に苦しそうに振舞うことが許されるというのだろう?

「……キミはまるでボクの心を読んでいるかのようだね」

そうした、吹き荒れる感情の嵐を押し留めるのがやっとであるような私とは対照的に、彼はどこまでも穏やかに首を傾げて、色素の薄い目をすっと細めてみせる。

「ボクがそうした、感情を表出する術をよく知らないから、代わりにキミがボクのそうした何もかもを引き取っているように思える。
ボクはポケモンの声を聞くことができるけれど、キミにもそうした力があるのかい?」

「……そんな大層なもの、持っていないわ」

しかし彼のそうした、あまりにも穏やかな表情というのは、彼の本意ではなかったのかもしれない。彼だって私のように、泣いたり縋ったりしたいのかもしれない。
けれど彼はそうしない。それは彼の意思によるものだと思っていたが、そもそも彼はそうした「感情を表出される術」を知らないのだと言う。
そんなことがあるのだろうかと思った。私はまだ、彼の全てを知らなかった。だから知らないなりに、私の紡ぎ得る最大の誠意で応えた。

「人の心を読むために、あんたのような超能力も特別な訓練も必要ないわ。相手のことを大事に想っていれば、そんなこと、きっと簡単にできるのよ」

「……キミはボクのことを大切に想っているのかい?」

ああ、そこから説明しなければいけないのかと、少しだけ愉快な気持ちになってしまった。
そういえば私は、旅先でこいつと会う度に嫌な顔をしていたような気がする。
その、何を考えているか解らない顔に向かって、嫌いだとか付いて来ないでとか、そうした言葉を投げつけたことだって一度や二度ではなかった筈だ。
そうした相手が、まさか自分を大切に想っている筈がないと、彼がそのように想定していたとして、けれどそれは仕方のないことなのかもしれないと思った。
今回のことに限っては、落ち度は私にあったのだろう。

「そうよ、あんたのことは嫌いだけれど、とても大切なの」

……ねえ、N。貴方と解り合うために、私はどれ程の言葉を重ねなければいけないのかしら。
ポケモンの声に依存し過ぎた貴方が人らしく生きられるようにするには、どれ程に長い時間が必要なのかしら。
けれどそんなこと、本当に必要なのかしら?

貴方と同じ言語で会話をしたいと思わない……と言えば、きっと嘘になる。
私は貴方と同じ世界が見たい。貴方と、普通の人と話すように言葉を交わしたい。人であるということを淀みなく許せるようになった貴方と、話したいことが沢山ある。
けれどそれは必ずしも、貴方を理解するために不可欠なものではないのだろう。
そんなものがなくとも、この世界の真実たる何もかもを押し付けずとも、きっと貴方の糸を切ることは可能なのだ。貴方を助け、守り、救うことはきっとできるのだ。

貴方がもし人の心の読み方を知りたいなら、私は誠意の限りを尽くして教えてみせる。
けれど必要ないと拒むのであれば、それでいい。貴方が選べばいい。

貴方の糸を切る作業は、そうした小さなことから始まるのだ。

「キミはボクが欲しいと思った言葉をくれるね。……キミは人の心を読むことを当然だと言うけれど、ボクにはそれは、限りなく奇跡的なことであるように思えてならないんだ」

私にとって当然のことを、彼はしかし「奇跡」と呼ぶ。けれど私だって、ポケモンの声を聞くことができる彼を、奇跡のような存在だと思っている。
私達は、互いにないものを持っているのかもしれない。それが、あまりにも都合よく、互いに欠けたものを埋め合わせてくれているのかもしれない。
それはまるで片割れのようだと思った。私達は互いが互いの傍に在ることで、ようやく正しい形を取ることができるのかもしれなかった。

「ボクはプラズマ団の王として、大勢のヒトに大事に育てられてきた。けれどキミのように心を読んで、ボクが必要とする何もかもをくれるヒトはただの一人もいなかったよ」

そんな私の片割れは、私がそうしたように、私が彼にとって特別であることを彼の言葉で示してくれる。
貴方だけは私の味方でいてくれる。そんな思い上がりに似た温度を持つ言葉を、他でもない彼が、他の誰でもない私に紡いでいる。

「ボクはきっと、とても酷い人間なのだろう。
今まで多くのヒトに支えられてきた筈なのに、ボクはカレ等の願いを背負って、キミと戦わなければいけない筈なのに、その全てを否定するキミの言葉が嬉しいんだ。
こんなこと初めてだ。初めてなんだよ」

「……歩みを否定されたことが?それとも、心を読まれたことが?」

彼は静かに首を振った。
木々の隙間から月が降りた。彼の背に垂れた糸は、淡く儚く煌めいていた。

「そうじゃない、嬉しいことが初めてなんだ」


2016.4.8
(「不思議の国のアリス」より、可愛らしい小瓶と、その傍らにあるメモを手に取り読む女の子)

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