「今ならきっと、嫌なことは嫌だって言えるわ。狡い大人を、下らないイッシュを拒んで、これが私だって胸を張っていられる気がするの」
カップラーメンの器を洗いながら、私はそんなことを口にした。
伸びきった麺を少しずつ口に運んでいた彼は、私のそんな戯言に驚いたように顔を上げた。ぽちゃんと、掬いきれなかった麺がスープの中に落ちてクリーム色の波紋を立てた。
どうしたの、と尋ねれば、彼はいよいよ困り果てたようにその、色素の薄い目を右に左にと動かして、最後、首を傾げてから小さく息を吐いた。
それは溜め息と表現することさえ躊躇われる程の、細くささやかなものだったのだけれど、それでもその息には「感情」があるように思えたのだ。
その息には、人でなければ込めようのない何もかもが溶けているように思ってしまったのだ。
「キミは勇敢だね。そうして自分の考えを、あまりにも容易く変えてしまえるんだ。それはこれまでのキミを否定することにはならないのかい?」
そして彼の口からそのような言葉が出てきたことに、私は少なからず驚いた。
人であるための全てを何処かに置き忘れてきたような彼が、しかしそうした、私と同じ目線に降りてきているという事実は、私の心臓を不思議な温度で揺らした。
だから、こんなことを言ってしまったのだと思う。
彼とこのように、ただ静かに、穏やかに言葉を交わせることが、どうしても嬉しすぎたからこそ、私は饒舌になってしまったのだと思う。
「……そうね、確かにこれまでの私からしたら、今の、我が儘で傍若無人な私はみっともなく映ってしまうのかもしれないわ。
でも、いいの。私が今までの私に認められなくてもいい。他の狡い大人に褒められなくても、幼馴染や博士に見限られようと構わない。だってあんたがいるから」
「……」
「世界の全てが私を嫌っても、きっとあんたは違うんでしょう?私が一言「N」って言えば、あんたはいつだって私のところへ来てくれるんでしょう?」
そうした、あまりにも傲慢な思い上がりを行使して得意気に微笑んだ。
こいつは私の首を絞めていた黒い糸を切った。再び勢いを取り戻して私の身体に垂れ下がるべきその黒は、先程、伸びきった麺と一緒に飲み下した。
『何がキミの自由を奪っているのだろうね?』
彼のこの言葉がなければ、私はきっとあの糸に甘んじたままだった。だからきっと私は、この不気味で不思議な彼に感謝すべきなのだろう。
そして、まだ彼の背中に糸が、彼のレシラムと同じ白い糸が垂れ下がっているのであれば、その糸を切る手伝いをしなければいけなかったのだろう。
だからこそ、「あんたは絶対に私を見限らない」などという思い上がりは紡げても、「だから私は英雄になんかならない」とは、どうしても言えなかったのだ。
まだ糸に絡められたままのこいつを、一人にしてはいけないように思われたのだ。
「……ヒトは厄介だね」
けれど残念なことに、彼はそうした私の変化を、私が自由になることができたという、私にとっては大いに歓迎して然るべきであった変化を、喜んではくれなかった。
ただ私が、Nのたった一言で考えをすっかり変えてしまったという、その事実に彼は驚き、そして、少しばかり訝しんでいた。
彼の紡ぐ「厄介だ」という声音には、そうした嫌悪めいた音が含まれているような気がしたのだ。
「だからキミはイッシュに住むヒトが嫌いなのだろう?キミはそうした、ヒトの厄介なところを疎んでいるのではないのかい?」
厄介……とは、少し違うかもしれない。
確かに私はイッシュが嫌いだ。そこに巣食う狡い大人達が大嫌いだ。
自ら戦うことをせず、こんな14歳の子供に全てを押し付け願いを託そうとする、無力な癖に悉く狡猾な彼等のことが、どうしようもない程に、嫌いだ。
けれど厄介だから嫌いだ、とは言い切れない気がした。私は今、こうして嫌いなものを堂々と嫌いだと言える自分のことはそこそこ、気に入っている。
自分だってそうした、厄介な人間の姿を取っているのだと、解っていながら私は私を気に入っている。
確かに私はイッシュの狡い大人が嫌いだけれど、人間のことは嫌いではない。私は、私が人間であることを悔いたことなどただの一度もない。
「あんたは人間が厄介だから疎んでいるの?」
けれどこいつの、人間に対して深く根差した負の感情は、私のそれよりもずっと重く深いものであるのかもしれなかった。
私のそうした嫌悪と葛藤は、彼一人の存在と、その彼が発したたった一言により取り払われたけれど、彼のそうしたものは、私のような容易さでは取り去れないのではないかと、
彼の華奢な背中に垂れる糸はその実、あまりにも太く頑丈なものであるのかもしれないと、思ってしまったのだ。
そうした私の、あまり喜ばしくはない推測を肯定するように、彼は困ったように笑いながら、「彼自身の言葉」ではなく、「ポケモンの言葉」を伝えてみせる。
「ボクはポケモンの声を反映して、ヒトに解る言語で伝える存在にすぎないからね。
ボクの知るポケモンは確かにヒトを憎んだり恐れたりしていたけれど、ボク自信の感情はあまりそこには関係のないことだ」
だから私は、そうした彼にもう一歩、踏み込んだ。
身を乗り出して、もうスープしか残っていない彼のカップラーメンを奪い取った。
きっとこの中には彼の糸は溶けていない。「ヒトは厄介だ」と口にした彼の背中には、おそらく見えない白い色がまだ、垂れている。
だからこそ私は「そうじゃないの」と告げて、色素の薄い彼の目を、スープのように揺蕩うその目を覗き込むに至ったのだ。
「関係あるかないかを聞いているんじゃないわ。あんたが、どう思っているかを聞いているのよ」
貴方は貴方であることを悔いているのか?
あまりにも抽象的で漠然とした、突飛な質問を、しかし私は至って真面目に投げかけた。
それはこの、限りなく同じ姿をしている筈の、それでいてどこまでも相容れない姿をした彼の、もっと奥深くに踏み込むための言葉だった。
相容れない筈の彼に歩み寄る、そのための問い掛けだったのだ。
私がどう思われようと構わない。呆れられようと嫌われようと、見限られようと関係ない。そうした思い切りは私を悉く勇敢にした。
その勇敢を振りかざして、私はNに答えを求めた。こいつの答えをこいつの口から聞くために、私は普通なら許されないであろう距離まで詰め寄り、強引に尋ねたのだ。
相手に踏み込めば、拒まれてしまうかもしれない。傷付いてしまうかもしれない。そうしたリスクが分からぬ程、私は幼くはなかった。
そうした、他人との適切な距離というものを、私は子供ながらにしっかりと理解しているつもりでいた。
だからこそ、こうしたNへの質問が、そうした「適切な距離」を逸脱したものであることくらい、解っている。解っていて尋ねたのだ。
私には彼からどんな言葉が返ってこようと、傷付き絶望する覚悟ができていた。
「嫌いじゃないよ」
けれど私のそうした覚悟を、彼の声音はそっと優しく否定した。そのような覚悟など要らないのだと、あまりにも柔和に笑ってみせたのだ。
ポケモンを傷付けるヒトのことなど、嫌いだ。
彼ならそう言うと思っていた。彼の掲げた理想に従うなら、彼はそう答えるべきである筈だったのだ。
けれど彼は人間のことを嫌いではないと言う。ヒトを許すことができないと、自分はヒトではないのだと疎む一方で、彼はヒトへの憎悪を微塵も見せない。
そして、彼のそうした発言に嘘がないことくらい、私は熟考せずともよくよく解っている。
「ボクはヒトのことは嫌いではないよ。だってキミはヒトじゃないか、トウコ」
「……」
「ボクはヒトであるキミのことは嫌いではない。寧ろ好きだ、気に入っているよ。そして少しだけ、羨ましい」
羨ましい?彼が紡いだ最後の音を看過することができずに、私はそう繰り返して首を捻った。
彼の言葉に嘘がないと解っていたからこそ、その一言は大きく膨れ上がって私の思考をひどく圧迫するに至ったのだ。
私は暫く考える時間を設けようとして、沈黙した。けれどやはり「変なの」という陳腐で間抜けな感想しか浮かんでこなかったのだ。
私よりもずっと勇敢なこいつは、極自然な形でその勇敢さを発揮するこいつには、恐れるものなど何もないのではないかと思っていた。
彼にできることで私にできないことがあったとしても、私に聞こえないポケモンの声を私は聞くことができる、などということが起きたとしても、
その逆、すなわち私にできるようなことを彼ができないなどという、そんなこと、起こり得ないように思われたのだ。
「トウコ、ボクもキミのようになれるだろうか?」
私がこいつを羨ましいと、不気味で不思議なこいつの生き方を眩しいと思うことはあれど、何もかもをその手に持つ彼が、私に同じような光を見ることなど、あり得ない。
私はそう思っていた。本気でそのように考えていたのだ。だからこそ、私は彼にとって最も残酷な言葉を、これから掛けてしまうことになったのだけれど。
「……ああ、そうだ。モンスターボールを貸してくれてありがとう。やはりキミのトモダチはとても嬉しそうだね」
至極嬉しそうに微笑んだ、そのあまりにも穏やかで幸福めいた表情を、これから私は呆気なく砕いてしまうのだけれど。
2016.4.8
(「ハムレット」より、川を流れる愛しい女性と、彼女が既に亡くなっていることをどうしても認めたくない男)