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おそらく、イッシュという広い世界は、そこに住む人々の持つ願いというものは、ただのポケモントレーナーでしかなかった私には重すぎる代物だったのだと思う。
これは一介のポケモントレーナーである筈の私と、ポケモンの声が聞こえるという少しばかり不思議な力を持っているだけの、私と同じポケモントレーナーである筈のNとの、
ちょっとした喧嘩事であり、互いに噛み合うことのない理想に辟易しているだけであり、そのぶつかり合いはひどくありふれた、些末なものである筈だったのだ。

けれど何故か、私やNが望むと望まざるとにかかわらず、その喧嘩事の規模はあっという間に広げられていたのだ。閉じることなどできなくなっていたのだ。
私の願いはそのまま、ポケモンと一緒にいたいと望むイッシュのトレーナーやポケモンの願いとなり、Nの願いはそのまま、彼を王様と慕い崇めるプラズマ団の願いとなった。

プラズマ団の王たる彼にとっては、彼等の願いを背負うことなど造作もないことであったのかもしれない。
けれど私にはそんなこと、できなかった。イッシュに住む、数え切れない程に多い願いを背負おうとする意欲も、彼等を代表して戦うだけの覚悟もなかった。
私は「彼等」のために戦っているのでは決してないのだと、私は私のために、私のポケモンのために戦っているのだと、そう声高に反論するための度胸さえもなかった。

「これがダークストーンだ。君にこれを持っていてほしい」

狡い彼等への狡い感情ばかりが膨れ上がっていた。にもかかわらず、私は差し出されたその石を拒むことができなかった。彼等の願いを断れなかった。
まるで見えない大きな糸に踊らされているかのように、私はみっともなく頷いていた。嫌ですと、いいえと首を振るだけで拒絶の意思は示せる筈なのに、できなかった。
「私」が、私の意思に反して一人歩きをしているように思われた。
彼等の願いと私の願いは全く同じであった筈なのに、彼等の願いを一身に背負った私は最早「私」ではなかった。

貴方達だって、ポケモンと一緒にいたいんでしょう?それなら、どうして自分で戦わないの?どうして自らあいつ等に立ち向かおうとしないの?
何の力もない癖に、何もしようとしていない癖に、願いだけは一人前に振りかざして、私にばかり押し付けて。
いつ、私が貴方達の願いを背負うと言ったの?いつ私がこの世界を代表して戦うなんてことを承諾したの?

それは、私とあいつだけの喧嘩のための道具や舞台を、私とあいつ以外の連中がせっせと用意したり整えたりするような、あまりにも馬鹿げたことであるように思われた。
そうした舞台の作り手である彼等は大真面目に、そこで戦う人間は私でなければいけないのだと口にする。自分で戦ったこともない癖に、私だけに全てを押し付ける。
私は彼等を恨み、呆れ、そしてそんな下らない彼等の願いを拒めない自分に、ほとほと嫌気が差していた。

旅って、こんなにも息苦しいものだったのかしら。
そんな私の苦悩を共有してくれる人など、この狡い世界に一人だっている筈もなかったのだけれど。

10番道路でチェレンやベルと別れた。この先にポケモンリーグがあると、私はそこへ行かなければいけないのだと、解っていた。
けれど踏み出す足は鉛のように重く、吸い込む空気には少しの酸素も含まれていないように感じられた。
いよいよ立っていられなくなって、私は黄色い地面に膝を折った。春の日差しをたっぷりと浴びた土は、生きているかのような温かさを私の肌に伝えてきた。
そうして初めて、私は、自分の身体が無機物のように冷え切っていることを知ったのだ。

殺される、と思った。その瞬間、私はこれから対峙しなければならない相手の名を呼んでいた。

「N、」

あんたは苦しくないの?
そう尋ねたかった。尋ねられるものならそうしたかった。
けれどいつだって、あいつは自分の言いたいことだけまくし立てて、私の言うことなど何も聞かずに去っていった。まともな対話をすることさえ叶わなかった。
そんな相手と私はこれから戦おうとしているのだと、思い返せば益々、息苦しくなった。幾ら吸い込んでも苦しさは消えなかった。

あいつは宣言通り、チャンピオンに勝つだろう。私はそう確信していた。
私にダークストーンを押し付けたような狡い奴に、あいつが負けるとはとても思えなかった。
そして私も彼と戦うことになるのだろう。絶対に勝てると信じてはいないけれど、それでも、勝てるのではないかと少しばかり思い上がっていた。
今まで彼と戦ってきて、彼に敗北を期したことはただの一度だってなかったし、ポケモンと一緒にいたいという私の思いに嘘はなかった。本気だった。
いつものように彼等を信じて、全力で戦う。そうすれば自然と、勝利は私の方へと転がってくるのではないかと思えた。
けれど幸運にも私が勝利を掴んだとして、そうして「ポケモンは人と一緒にいるべきだ」という私の理想が真実の形を取ったとして、私の願いが叶ったとして、
あるいはもし、私が彼に敗北を期したとして、彼が彼の望んだ世界を手に入れたとして、

私やNはそれを喜ぶことができるのだろうか?そこにちゃんと「私」と「N」はいるのだろうか?

「どうしたんだい?」

「!」

弾かれたように顔を上げた。
そこには私が先程、消え入りそうな声音で紡いだだけである筈の彼が、私の都合のいい妄想でも幻覚でもなく、確かな実態の姿でそこに在り、私の顔に影を落としていた。
彼は膝を折り、私と同じ目線へと屈んだ。私の目を覗き込むように真っ直ぐな視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。

「レシラムが教えてくれたんだ。ダークストーンの所有者がボクを呼んでいると。ボクと話をしたがっていると」

それは驚くべきことだった。彼が、来てくれたのだ。私は一人だと思っていた。けれど違ったのだ。
私の、あんなにも小さな呼びかけは、誰にも届く筈の無かった声は、しかしこの青年にだけは届いてくれるのだと、そう認識すれば、急に息がしやすくなった。
一生分の酸素を送り込まれたのではないかと錯覚する程だった。彼の存在は、先程までの息苦しさをなかったことにしてしまったのだ。

私が一言「N」と彼の名を呼べば、彼は私が何処にいようと、今のように駆け付けてくれるのではないかと思えた。
このあまりにも広く、あまりにも狡い世界の中で、彼だけが唯一の味方であり、理解者であるように思われた。
イッシュに住む連中の願いを背負った立派な姿でなく、一人で地面に蹲り、前に進むことができずにいる不恰好な姿をした、そんな私と同じ目線に屈んでくれた彼だけが、
私の敵である筈の彼だけが、私とは相容れない位置にある筈の彼だけが、私が立ち止まることを許してくれるのではないかと、そんな風に都合よく、思い上がってしまった。
そうして、彼の、私よりも少し背が高いだけの、私よりもずっと細い腕に縋ってしまったのだから、私はきっと、どうしようもなく弱い人間だったのだろう。

「逃げよう、N」

彼は色素の薄い目を大きく見開いて、驚愕の表情を浮かべた。
私はその目にまくし立てた。いつも彼がしているように、彼の言葉を許すことなく饒舌に紡いだ。止まらなかった。止まりようがなかった。

「あんたはこんなところにいちゃいけない。このままチャンピオンに勝って英雄になって、ポケモンを解放できたとして、そんなことであんたが救われる筈がない!」

「何を言っているんだい?ボクは、」

「このままじゃ、あんたも私も食い潰される!」

Nの華奢な肩に、細い腕に、背中に、見えない糸がびっしりと垂らされているような気がした。彼もまた踊らされているだけなのではと思ってしまった。
そしておそらくその糸は、私の身体にも垂らされている。その糸によって私は此処まで来たのだ。ずっと、彼等の願いを背負いながら、何とか此処まで歩いてきた。
けれどもう、限界だ。

「……キミは何か勘違いをしているようだね。その話に付き合ってあげたいけれど、ボクには時間がないんだ」

「あんたはそれでいいのかもしれないけれど、私は違う!私は時間が欲しい!」

あれ程、紡ぐことを躊躇っていた拒絶の言葉は、しかしこの青年を前にすれば驚く程に呆気なく私の口から零れ出てしまった。
そんな、私らしくない度胸と勇気はおそらく、彼に対する確信から来るものだったのだろう。
この人は私の唯一の味方だと、私と同じなのだと、そうした思い上がった確信があったからこそ、そんなことをまくし立てることができたのだろう。

「こんなところで、イッシュの狡い大人に利用されたまま、あんたと英雄ごっこをするなんて絶対に嫌。私はもう、いい子なんかにはならないわ」

長い沈黙が落とされた。
ここで彼が私を拒んでしまえば、いよいよ私は、私の身体に垂れ下がる見えない糸に従う他になくなってしまっていたのだろう。
息苦しさと身体の重さに嘘を吐いたまま、こいつと戦わざるを得なくなっていたのだろう。
けれど彼は驚くべきことに、私のそうした、「英雄」に悉く相応しくない私の懇願を、「ではその申し出を聞き入れよう」という言葉ですんなりと肯定した。

「元より、キミにその覚悟が出来ていないのであれば、ボクと戦う気にもなれないだろうし、ボクも自らが英雄に相応しいと確信することなんてできないからね。
キミがもう少し時間を必要とするのであれば、それに付き合うのが王たるボクの使命であるのかもしれない」

「……」

「その時間を得るための場所が此処ではいけないと言うのなら、いいよ。ボクもキミと一緒に行こう」

そうして伸べられた救いの手を、私は迷うことなく取ってしまった。
「ありがとう」と告げれば、彼は困ったように、なぜお礼の言葉を紡がれているのか解らないといった風に首を傾げて、笑った。
ぷつり、と糸が切れる音がした。私を吊り下げていた何もかもの絶える音であるように聞こえた。
その心地よい音には、自由という名前が付いているのだと信じていた。


2016.4.5
(「ドン・キホーテ」より、お伽話の中に身を投じた老人と、その狂気の中に生きる姫)

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