16

「プラターヌ!」

バチン、と凄惨な音で目が覚めた。
あまりにも険しい顔で旧友に睨み下ろされ、プラターヌは何が何だか分からないままに緩慢な瞬きを繰り返した。
ぶたれたらしい左頬がヒリヒリと痛んだ。殴られた直後であるかのような激しい眩暈が彼を襲った。
寝ている人間をぶつ、などという、礼儀を重んじる彼らしくない行為に彼は面食らいつつ、至極まっとうな抗議をするために口を開いた。

「……君らしくないね、フラダリ。もう少しスマートな起こし方をしてくれてもよかったんじゃないかい?」

「ああそうだな、その通りだ。君がこのような天候の中、このようなふざけた場所で眠っていなければ迷わずそうしていた」

そう言われて初めて、プラターヌは自分が雪の中に埋もれていることに気付いた。
上体を起こして、辺りを見渡し場所を窺おうとしたけれど、叶わなかった。辺り一面が真っ白であったため、此処が何処であるのか全く見当が付かなかったのだ。
フラダリが呆れたように「禁じられた森だ」と告げなければ、彼はおそらくずっとそうしていただろう。
「何故、ボクはこのようなところに?」と訳が分からないままに首を捻れば、彼は哀れむようにプラターヌへと手を伸べて、告げた。

「君はゴーストに憑かれていたんだ」

防衛術の準備室に転がり込んだプラターヌは、そこで服を乾かしつつ温かいコーヒーを飲んで、暖を取った。
「コーヒーしかないが、構わないか」とフラダリが尋ねたことに、彼は少しばかり驚いてしまった。
いつも、この旧友と飲むのはコーヒーであった。プラターヌもフラダリもコーヒーが好きであったのだから、当然のことだった。
にもかかわらずフラダリは、ひどく申し訳なさそうな表情でコーヒーを差し出すのであった。プラターヌにはその意味がよく解らなかった。

「君は最近、カフェオレを好んで飲んでいた。覚えていないか?」

そう言われてようやく、プラターヌはその馴染みのある単語から、ここ数か月の記憶を脳の奥から引っ張り出すに至ったのだった。

確かにプラターヌはここ数か月の間、カフェオレを飲んでいた。甘さと苦さが絶妙なバランスで混ぜ合わされた、あの香りが好きだった。
ふう、と軽く息を吹きかけて、その香りが鼻先にふわっと巻き上がるのを楽しんでいた。
苦いコーヒーしか飲んでこなかったプラターヌだが、甘いものが嫌いだという訳ではなかったため、カフェオレという存在はあっという間にコーヒーの習慣を上書きしていった。

けれどそのカフェオレを共に飲んでいたであろう「誰か」のことを、プラターヌは思い出すことができずにいる。

「ああ、そうだよ。ボクは確かにカフェオレを飲んでいた。好きだったんだ。さっきだって飲んでいた筈だったんだ。……でも誰と、飲んでいたんだろう」

温かいコーヒーの入ったマグカップを彼は両手で抱えた。冷え切った指先は徐々に温められていった。
心地良い、と思うと同時に、寂しい、と思ってしまった。何故だろう、あの雪の温度を忘れてしまうことがひどく寂しいことのように思われてしまったのだ。
プラターヌは至極まっとうな人肌の温度に戻りたくなかった。それは「誰か」の温度ではなかったからである。
雪のように降っていた「誰か」の涙が、此処にいるといよいよ溶けてなくなってしまいそうに思われたからである。

「……死者は稀に生者を弄ぶことがある」

コーヒーのように苦い顔をして、フラダリは諭すように口を開いた。

「ゴーストという存在の性質上、生者が死者の経験や知識を上回ることは殆どない。故に生者は死者の思惑を往々にして汲み取れず、その結果、いいように使われることが多い。
君も習っただろう。ゴーストとはそういうものだ。命がないとはそういうことだ。あちらに悪意がなくとも、死者との関わりは生者にとって毒だ。何も実らない。何も生まない」

この旧友はどうやら、プラターヌがその「誰か」にいいように使われていたのだと、
だからもう金輪際、ゴーストというものに関わってはいけないのだと、そうした趣旨のことを言いたいらしい。
そんなことはないと、ボクは確かに彼女に助けられていたのだと、けれどそうしたことを声高に唱えようにも、できなかったのだ。

彼女に助けられた、彼女のおかげで自信をもって教壇に立つことができるようになった、彼女に勇気を貰った、泣き虫な彼女の涙はいつだって美しかった。
そうしたことをプラターヌは覚えている。けれどその記憶の中に溶けていて然るべき「彼女」の顔も、声も、名前も、まるで思い出せないのだ。
彼女との思い出は確かに残っているのに、その思い出を共有した相手を「彼女」だと断言するための決定的なパーツを奪われてしまったせいで、
彼はこの旧友の言葉を真っ向から否定することができず、ただ、口を閉ざしてうなだれるしかない。彼の至極まっとうな意見に反論する術を、彼は持たない。

「君の記憶には、そのゴーストのことなど何一つ残っていない筈だ。何も覚えていない相手のことに拘泥する必要などない。カフェオレを飲む必要も、きっとない」

やめてくれ。そんな風に「彼女」を貶めないでくれ。悪者にしないでくれ。
ボクは騙されたのではない。憑かれていたのでもない。ボクは確かに救われていたのだ。「彼女」がボクを救ったのだ。
……けれどその「彼女」をプラターヌは思い出せない。けれど忘れてしまったのだと、消えてしまったのだということを、認めたくない。
故に子供が駄々を捏ねるように、でも、と口を開くことしかできない。

「でも彼女は確かにいたんだよ。顔も、声も、名前も、覚えていたんだ。ついさっきまで本当にそうだったんだ」

「名前?」

フラダリは驚いたように目を見開いた。プラターヌは彼の驚愕の言わんとしているところが解らず、縋るように拗ねたように旧友を見上げた。
フラダリは黙って彼の隣に座り、コーヒーに口を付けながら、その涼しい青の目をすっと細めた。それは彼が何かを覚悟する時の、また何かを諦める時の癖であった。
「此処からは教師としての言葉ではなく、友人としての言葉として聞いてほしい」そうした前置きにプラターヌは思わず顔を上げた。フラダリは苦笑しつつ、続きを語った。

「勇気を分け与える美しいゴーストのことは、わたしも知っている」

「!」

「勇気など欠片も持ち合わせていないように見えるそのゴーストは、けれど誰かに勇気を差し出すことがとても得意であるようだった。
けれど役目を終えたと察するや否や、彼女は自らの記憶の全てを相手から消し去る。故にこのホグワーツで彼女と顔を合わせても、誰も彼女が「彼女」であると気付かない」

プラターヌはホグワーツの中央に伸びる長い廊下を思い出していた。
そこそこの霊感を持つプラターヌには、あの廊下に無数のゴーストの姿が飛び交っている様子が見えている。
つい先程も、寒さに体を震わせながらあの廊下を抜けて、この防衛術の準備室へとやって来たのだ。此処に来るまでにすれ違ったゴーストの数は、おそらく100を超えている筈だ。
もしかしたらあの中に「彼女」はいたのかもしれない。けれど仮にいたとして、プラターヌにはそれを「彼女」であると確信する術がない。
「彼女」がプラターヌにかけたのは、そうした残酷な魔法だったのだ。

「彼女はそうして、今日も何処かで誰かを勇敢にしている。と同時に、今日も何処かで誰かに忘れ去られている。彼女が望んだから、そうなっている。
……そういう訳で、彼女は我々のすぐ傍にいるらしい。我々が、覚えていないだけで」

「……」

「それを「憑かれていた」とするのは、教師であるわたしの見解だ。だが君の友人であるわたしの見解を言わせてもらえるなら、……君は運が良かった、ということになるのだろう。
そのゴーストの力を借りられる人間はそういない。君は、選ばれたのだね」

選ばれる、などという名誉なことがあるとすれば、それはプラターヌではなく、寧ろフラダリに授けられるべき栄光であった筈だ。
にもかかわらず、フラダリはそのゴーストを見たことがなく、逆にプラターヌは彼女と過ごした数か月をあまりにも鮮明に覚えている。
彼女の姿、声、名前、そうしたものを思い出すことは叶わないが、けれども時間は、言葉は、思い出は、残っている。

……この立派な旧友になくて、自分にはあるものなど、何処を探しても存在しないのだと思っていた。
けれども、選ばれたのはフラダリではなくプラターヌだったのだと彼は言う。彼でなければ彼女に会うことは叶わなかったのだと、その幸運を、幸いな運命を、称えている。

「会ったこともないし、もしかしたら忘れているだけなのかもしれないが、わたしは彼女に感謝しているよ。経緯はどうであれ、君は9月の頃に比べると随分、元気になった。
ここ数か月のわたしでは、君に勇気を差し出すことなど叶わなかった。わたしにできないことを、彼女がしてくれた」

ただ、とフラダリは釈然としないといった風に首を捻った。

「君はそのゴーストを、ホグワーツの1年生だと誤解していただろう。もしかして君の目には、そのゴーストのことが「生身の人間」として見えていたのではないか?」

プラターヌは苦笑しつつ「そうだよ」と頷いた。
彼女がゴーストであるとプラターヌが気付いたのは、つい先程、1時間前のことなのだ。
それまで、彼女は確かな姿をもって彼の前に現れていた。もう何色であったかは忘れてしまったけれど、その髪も、肌も、確かな「色」を持っていたことだけは確かだ。
フラダリが「そんな名前の1年生は知らないし、名簿にも載っていない」と口にするまで、プラターヌは本当に、あの少女がホグワーツの1年生であることを疑っていなかった。
それ程に彼女は生者を極めていた。彼女は鮮やかだった。彼女は生きていた。

「それも含めて、気になる点が3つほどある」

フラダリは凛としたバリトンで彼へと向き直った。
この聡明な旧友は、見たこともないゴーストの考察を、プラターヌ以上に真剣な面持ちで重ねていた。
彼はどこまでも真摯であった。そういう男なのだ、フラダリというのは。


2017.3.23

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