15

君は授業に出ていないのかい?
たった一言、そう尋ねれば済むだけの話であった筈なのに、プラターヌの口は上手くその音を作ってはくれなかった。

「……カフェオレ、今日は私が買ってきました」

そんな彼の前で、少女は涙を乱暴に拭ってから、足元に置いてあった馴染み深いカップを手に取った。
ローブから短い杖を取り出して、ぎこちなく一振りすれば、おそらく冷え切っていたであろうそれは適切な温度になった。
どうぞ、とこちらに差し出されたカフェオレを受け取り、お礼の言葉を紡ぎながら、プラターヌは益々疑念を深める。隣で同じようにカフェオレを飲み始めた彼女を、覗き見る。

入学してまだ半年も経っていないのに、彼女は無言呪文を使いこなしている。
……それ程までに優秀な生徒の名前を、フラダリが把握していない筈がない。
いや、仮に彼女が優秀でなかったとしても、フラダリは全ての生徒を平等に重んじただろう。彼は誰か一人だけを恣意的に覚えるような人間では決してない。
では、何故この少女はフラダリの記憶から逃れているのだろう。

「君はもう無言呪文を使えるんだね」

彼女の手から、彼女の分であった筈のカフェオレがするりと取り落とされた。
スローモーションのように緩やかな速度で落下したそれは、けれどばしゃりという惨い音を立てて、雪の上に豪快に撒き散らされた。
甘さと苦さを絶妙に混ぜ合わせた香りが、湯気と共にふわっと二人の間を濃く満たした。
彼女は空になったカップだけを所在なく拾い上げて、そこにぽろぽろと涙を落とした。白いカップは、夜顔と同じ色をしたそれは、けれどあの花のように美しく揺れたりはしなかった。

「……シェリー、話してくれないか。どうして防衛術の授業に出ていないのか、どうして無言呪文を使いこなせているのか、どうして1年生の名簿に君の名前がないのか」

彼女は深く、深く俯いたまま、こちらを見上げようとはしなかった。腕の中のラルトスも同じように俯くのみで、その赤いツノは淡い明かりしか放っていなかった。
静かだった。俯いたままの少女も、淡い光しか放たなくなったラルトスも、次の言葉を待っているプラターヌも、誰もが凍り付いたまま、時だけが流れ続けていた。
唯一、時の流れを思い出させるかのように振り続けている雪は、けれどただの一つも音らしきものを奏でなかった。

「言えません」

その雪が彼女のストロベリーブロンドに降り積もり、まるであの日の夜顔を思わせる様相になり始めた頃、彼女は泣きながらぽつりと、そう零した。
「どうして?」と尋ねる自分の声が随分と遠くに聞こえて、ぐらり、と視界が揺れて、かくん、と膝が折れた。
ああしまった、この沈黙は時間稼ぎであったのだと、気付いた時にはもう、遅すぎた。

「だって、言ってもきっと貴方は忘れてしまうから」

「……シェリー、待ってくれ、」

「私が全部、忘れさせるから」

冷たい雪の上に倒れ、視界の半分を白く覆われた状態でも、彼女の短い杖がプラターヌの方に向けられてることに、彼は気付いてしまった。察してしまった。
フシギダネ達がプラターヌを守るように飛び出してきたけれど、少女が優しく笑うだけで、彼等はすぐに引き下がり、おずおずと少女に道を譲ってしまった。
「大丈夫だよ、ちゃんと迎えは呼んであるからね」と、彼女は泣きながら、笑いながら、嗚咽の合間にそう告げるのだった。
やわらかな雪の塊を割くように、彼女の涙はぽたぽたと落ちた。
この下に夜顔はあるのだろうか。夜顔は彼女の涙を覚えているだろうか。夜顔には彼女の涙と笑顔の理由が解っているのだろうか。夜顔は、夜顔は。

ボクはこの少女の何を知ったつもりでいたというのだろう?

何も知らない。何も解らない。
彼女が息をするように「ごめんなさい」と紡いでいた理由も、何もかもに怯えるように生きていたその理由も、「1年生」と偽った理由も。
彼女が何者であるのかも、何故プラターヌの前に現れたのかも、何故、よりにもよってカフェオレに薬を混ぜたのかも、何故、杖を向けているのかということも。
何も知らなかった。何も解らなかった。

教師であった筈のプラターヌは、しかし常に救われる側であった。彼はこの少女の何をも救うことができていなかった。
だから、こうなっても仕方がなかったというのだろうか。これは救われる側に甘んじた自分への罰なのだろうか。自分は許されてなどいなかったのだろうか。
けれど、もしそうであったとしても、あまりにも酷い。だって彼女はこれからプラターヌに、悔いることさえ、懺悔することさえ、許しを乞うことさえ、禁じようとしているのだから。

「貴方はもう、私がいなくても大丈夫ですよ」

大丈夫な筈がない。だって、仮にボクが大丈夫であったとして、君は?
一人ではまともに息をすることもままならないような君は、これからどうやって生きていくというんだ。
いつか君が一人になるとき、ラルトスが君を置いていってしまうとき、そのことをボクが覚えていなければ君に駆け寄れない。君が一人になることを止められない。

けれどそうした「全て」が杞憂であったのだと、プラターヌは次の瞬間、気付いた。

何故なら彼女が杖を一振りするや否や、その長く伸びたストロベリーブロンドが一瞬にして半透明の白銀へと変わったからである。
その折れそうな指も、頼りなく伸びた足も、黄色いネクタイも、ライトグレーの瞳も、全て、全て色を失い、半透明の儚い白を呈してしまったからである。
彼女の、辛うじて人の形を取ったその姿の向こう側には、すっかり命の気配を落としてしまった、ただ虚しい冬の雪景色が淡々と、続くのみであったからである。
この少女に「命」など在りはしなかったのだと、その透けた身体があまりにも雄弁に示していたからである。
彼女が一人になってしまうことをプラターヌが案じるまでもなく、彼女はこの広いホグワーツの中で、おそらくは何十年もの間、ずっと一人で存在し続けていたからである。

『だって、皆が楽しそうにしているんです。大勢の話し声が聞こえて、笑っていて、ふざけ合っていて、でも、私は一人で……。』
たとえば、彼女がずっと抱えていた「一人であることへの恐れ」は、この数か月の間に始まったことなどではなく、
彼女が生きていた間、いや死んでしまってからも、何十年も、もしかしたら何百年もの間、抱え続けてきた呪いのようなものであったのだとしたら。

『だって、こんなにも綺麗なのに。こんなにも、温かいのに。こんなにも!』
たとえば彼女がぎこちなく紡いだ全ての言葉、全ての音が、彼女の生前の、命の欠片であったのだとしたら。
プラターヌはずっと、そうした彼女の命の断片に触れ続けてきたのだとしたら。

『でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ。』
『……私が成長できないままでいたら、この子も進化できないまま、死んでしまうんでしょう?私を置いて、私より先に……。』
たとえば彼女は既に、ポケモンとの別れを経験していたのだとしたら。自分よりも先に死んでしまった「ラルトス」の、優しくも残酷な姿を思い出していたのだとしたら。
彼女は未来への懸念ではなく、過去への憂愁に泣いていたのだとしたら。

『どうして命が美しくて、優しくて、呆気なくて、残酷なのか、分かったんです。先生が教えてくれたんです。だから私、もう怖くありません。』
『貴方が私にしてくれた命の授業、忘れません。』
たとえばプラターヌに命の教えを乞うた彼女には、既に「命」がなかったのだとしたら。
彼女の「恐怖」は、生きている者のそれとはもっと別のところにあったのだとしたら。

『愛すると、長く生きたいと思えるようになるんですか?』
『愛すると、先に死にたいと思えるようになるんですか?』
たとえば彼女が、ゴーストなのだとしたら。

『ごめんなさい。』
たとえば彼女の「謝罪」には、ずっとプラターヌを騙し続けてきたことへの罪悪感が溶けていたのだとしたら。

『それでもボクは君と一緒に生きたいと思っているよ。』
たとえばプラターヌの願いは、どう足掻いても叶わないものであったのだとしたら。

魔法で作っていたと思しきラルトスの幻影は、煙のようにふわりと夕闇に溶けてしまった。
半透明になったその身体では、もう空になったカップに触れることもできないらしく、僅かに甘く苦い香りを遺したそのカップは、雪の上にぽす、と虚しい音を立てて転がった。
どうやらプラターヌのカフェオレに盛られたそれは痺れ薬であると同時に、強力な睡眠作用をも含んでいるものだったらしく、
寒くて冷たくて悲しくて寂しくて、眠ることなど到底できない筈であったにもかかわらず、彼の目蓋はゆっくりと、確実に下りてきていた。

「貴方が元気になってよかった」

「……」

「私は大丈夫です。この姿だと人前に出て行かなくてもいいし、怖い思いもしなくていいし、一人であることを恐れなくてもいいし、とても楽なんです。
そうした、命のないところに戻るだけなんです。今までずっとそうだったんです。だから、大丈夫」

大丈夫、が子守歌のように思われた。それ程にプラターヌは眠かった。眠りたかった。
渦巻いていた遣る瀬無い憤り、悲しさ、寂しさ、そうした類のものが眠りの海に飲まれていった。海が好きな彼女の作る海は、虚しく、けれどとても心地良かった。

次に目を覚ました時、きっと彼はこの少女のことを忘れているのだろう。
彼女はもう「気弱なホグワーツの1年生」ではない。おそらくはプラターヌよりもずっと長い間「魔法使い」であり「ポケモントレーナー」であった人間なのだ。
その身に命を有していなくとも、魂は魔法を覚えている。ホグワーツにやって来た人間は、誰しもがそうやって杖を振り、魔法を唱えて、生きていく。
だからきっと、プラターヌはこの少女の魔法を止められない。彼女の魔法はきっと成功し、プラターヌは彼女をすっかり忘れてしまう。解っていた。だからこそ寂しかった。


「君と、生きたかったなあ」


ぽたりと、プラターヌの上に落ちてきた彼女の涙は、いつかのゴーストが落としたそれのように、ひやりとした冷たさを遺すのみで、やはり霧のように煙のように、消えた。
けれどあの時と違ったのは、その涙が一粒に留まらなかったことだ。
彼女は倒れたプラターヌの真上で、声を上げて泣いていた。拭いきれない涙が一粒、また一粒と落ちてきて、そのうち数えきれない量になってきたため、プラターヌは思わず笑った。
この少女はそのような泣き方もするのだ。命を燃やすような泣き方さえもやってのけるのだ。命がないにもかかわらず、それは命のような涙であったのだ。

「オブリビエイト」

ああ、そんなに悲しいなら、ボクに薬など飲ませなければよかったのに。そんなに寂しいなら、ボクに杖など向けなければよかったのに。そんな呪文など唱えなければよかったのに。
ボクは君が「何」であっても、そこに「命」がなかろうとも、君が「魂」だけであったとしても、構わないのに。


2017.3.22

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