この土地には、神話がある。
理想と真実、二つの想いを携えてイッシュを統べた、二人の英雄と、二匹のドラゴンポケモンの神話が。
しかしその二匹のポケモンが、普段は白と黒の石の姿で眠っていることはあまり知られていない。
更には現在でもその神話の通りに、ポケモンの眠るその石が、王家の者により継承され続けていることもまた、多くの民には知る由もないことだった。
この土地に語り継がれている神話は、遠い過去の産物。それが、この少女の住む町でも常識となっていたのである。
『神話の石、ダークストーンの継承者を探す。協力されたし。』
それ故にその日、全ての民に届いた、王家の紋章が刻まれた手紙は、この静かな町を震撼させた。
神話は今も生き続けていた。その事実を民の多くは疑ったが、王家の者がダークストーンを持ってこの町に現れるようになってからは、その懐疑の声も潰えてしまった。
そして、数日かけて、全ての民に「ダークストーンの継承者に相応しいか否か」の試験が課されることになったのだ。
5歳の子供から、80歳を超える老人までが、町の大通りに長蛇の列を作り、その「試験」を受けさせられた。
といっても、その内容はごく簡単なものだ。1分もあれば済む。ダークストーンを手に取り、その石からゼクロムが現れれば合格、現れなければ不合格だ。
民の多くは「自分がダークストーンの継承者かもしれない」と期待し、意気揚々と試験会場である広場に列を作った。
ダークストーンの継承者となることが、何を意味するのは町の人間は解っていなかった。
ただ、神話に登場するポケモンの主となれる。それを名誉あることだと解釈し、期待を込めてその石を手に取ったのである。
だがダークストーンは、そんな人間を嘲笑うかのように、誰の手にも反応しなかった。
……ところで、城の者は町の全員に試験の通知を送ったが、その通知に従わなかった者も当然のように存在した。
病に伏せていた者、町の外に出稼ぎに行っていた男、幼すぎる子供、など。
大通りで美容所を営む両親の、今年17歳になる少女もそのうちの一人だった。
彼女はただ「面倒だから」という理由だけで、自宅の前にできた、試験を受けるための大行列に加わることなく、その様子を2階の窓から見ていたのだ。
「何が楽しくて、あんな列に並んでいるのかしら」
クスクスと笑いながら、少女は窓の下に広がる行列を見下ろす。この行列のせいで、いつもの穏やかな町の風景が台無しだ。
この地域の城は、城下町と呼ばれるこの町からも、更に離れた場所に建てられている。
「城下町」と呼ぶことすら憚られる程の距離だったが、呼称の便宜上、周辺の町や村は、城に最も近いこの賑やかな町を城下町として扱っていた。
そんな「遠い城下町」に、王家の者らしき人物が、歩いて30分程かかるこの場所までやって来ているのだ。
少女は眩しい日差しに欠伸をする。毎日、本当にご苦労なことだと思いながら、その、暑そうな服を身に纏った王族の者たちを見下ろす。
この地を統べる彼等を、町の民は見上げることこそすれ、決して見下ろすことなどしない。
だからこそ、2階からその様子を眺められるこの窓を、少女はいたく気に入っていたのだ。
少女はこの窓から、外の様子を見るのが好きだった。外には宇宙に届く空が広がっていて、そこから視線を下ろすと、人の営みなどなんと小さなことかと思えるのだ。
ダークストーンを手にしたから何だというのだ。人々にもてはやされたから何だというのだ。
そんなもの、要らない。何も欲しくはない。今のままの暮らしが、穏やかに続いてくれさえすればそれでいい。
慎ましやかな生活でも構わなかった。両親の仕事を手伝い、町の女性の髪を美しく整える毎日を少女は愛していた。
そのうち、近所に住む男性と結婚して、平凡な家庭を築くのだろう。私はこの町にそうして埋もれていきたい。たまに空を見上げる余裕さえあれば、それでいい。
少女は、心からそう思っていたのだ。
「ねえ、キミ!」
それ故に、少女が見る側であった筈の窓を見上げ、自分の名を呼ぶその青年に、僅かな不快感を抱いたのだ。
「……」
若草色の髪をした青年だった。顔立ちには少し幼さを残していたが、その長身が彼を少年ではなく、青年に見せていた。
透き通るテノールで呼び掛けられた少女は、不機嫌を隠そうともせず、その整った眉にしわを寄せて返事をする。
「……何?」
「降りてきてくれないか!」
何処にでもいそうな、少し背の高い男。少女には彼がそんな風に見えた。
けれど真っ直ぐに自分を見上げるその目が、あまりにも眩しい輝きを宿しているように見えて、その、名前も知らない青年の懇願を聞かざるを得なかったのだ。
この町では見たことがない人間だったため、少女は階段を駆け下りながら首を捻る。
ショートパンツでドアを軽く蹴破るようにして開け、店の前で待っている男性へと少女は歩み寄った。
陽の光を反射する白いシャツと、両腕に付けられた奇妙なアクセサリが少女の目に飛び込む。やはりこんな青年に見覚えはない。
少女は大きな溜め息を吐いてから、背の高い彼を睨み上げた。
「何の用?私、あんたのことを知らないんだけど」
少女のその言葉に周りがざわめく。青年は呆気に取られたような顔をして、しかし直ぐに肩を震わせて笑い始めた。
ごめんね、と謝りながら、彼は握り締めていた右手を少女の方へと差し出した。
「ボクのトモダチが、キミを呼んでいるんだ」
「……は?」
「トモダチは「間違いなくこの町にいる」と言うから、ずっと此処で探していたんだ。会えてよかったよ」
……嫌な、予感がした。
それはとても思い上がった予感で、つい先刻の少女なら「馬鹿じゃないの?」と一笑に付すことのできるものだったのだろう。
けれどその傲慢で思い上がった予感は、青年の握り締められた右手の中に黒い石を見つけたその瞬間に、真実へと変化し、少女の顔を青ざめさせた。
嫌だ。少女は踵を返して店の中へと逃げようとしたが、気配なく現れた3人の男が、扉の前に立ち塞がってしまった。
白髪に黒いマスクをした男たちは、どうやら城の住人らしく、この陽気に似つかわしくない、分厚い衣服を身に纏っている。
そんな彼等が少女の腕を掴み、無理矢理、あの青年の前に突き出させたのだ。少女は拒絶に身をよじるが、彼等の手から逃れることはできなかった。
「や、やめてよ!私の手に、反応する筈がないじゃない!だって私は、」
「大丈夫だよ、ゼクロムはキミを呼んでいる。キミにも、声が聞こえているだろう?」
長身の青年は穏やかに笑いながら、少女の手に黒い石、ダークストーンを握らせる。
愕然としたまま少女は困惑した。何が起こっているのだろう。どうして私の手の中で、その丸い石が光っているのだろう。
この青年は一体、何を言っているのか。石の声なんて、聞こえる筈がない。この青年は頭がおかしいのだ。だって、そうでなければ、こんな。
今すぐにでもその石を放り投げてしまいたいと少女は思った。だが、少女の肩を押さえ、腕を突き出させた3人の男たちがそれを許さなかった。
いつの間にか、少女の家の周りには大勢の人が集まっていた。彼等はその黒い石が風と光を纏って、みるみるうちに大きなドラゴンポケモンの姿になっていくのを、見ていたのだ。
「……どうして、私が、」
そんな少女の呟きは、ゼクロムの咆哮に掻き消された。町の人間は、そのポケモンにわっと歓声を上げる。
少女は目眩のする頭を抱えながら、その黒いポケモンをきっと睨み上げた。その巨体の中に埋め込まれた赤い眼光にも怯まずに、少女は明確な憎悪をもって彼を見上げたのだ。
どうして、私が。
少女は、自分の愛していた些細な日常がまさに今、ガラガラと崩れていく音を聞いた気がした。
「城下町の皆さん、ご協力ありがとうございました。ゼクロムはこの少女を英雄と認めたようです。彼女は今日から、このポケモンの継承者となります」
少女は思った。ああ、どうして神様って奴はこんなにも残酷なのだろう、と。
自ら力を、強さを求める人間にはそれを頑として与えない癖に、要らないと突き返そうとする者に対しては、それを押し付け、足枷として、動けなくするのだ。
「……私は、要らない」
「……」
「こんな力、要らない。私は、継承者になんかならない」
どうしてこうなってしまったのだろう。どうして神様って奴は、自分にこんな素質を、望んでもいない才能とやらをお与えになったのだろう。
少女にはそれがどうしても理解できなかった。だって彼女は、それ程多くを望まなかったのだ。
少女はただ、自分の運命を、自分の手で定めたかった。それだけだった筈なのに。
「それを決めるのはお前ではない、ゼクロムだ。このポケモンがお前の運命を決める。お前はそれに従わなくてはならない」
白髪の男が、冷たい声音でそう告げる。
2015.5.27