58

ウラウラ島へと向かう船と、メレメレ島へと向かう船。その両方がエーテルパラダイスの船着き場に停まっていた。
おそらく、此処にメレメレ島へと向かう船がなかったならば、彼はそのままウラウラ島へ赴く船へと乗り込み、その足ですぐにポケモンリーグへと向かっただろう。
彼の背中を強く大きく押した、ザオボーの「君でなければいけない」という言葉。その燃え上がるような祈りの温度が冷めないうちに、彼は山を登るべきであったのだろう。
けれど彼はそうしなかった。メレメレ島へと向かう船に、乗り込んでしまった。

これまでずっと、強くなるため、「彼女」のためにと走り続けてきたグズマの足は、けれどもしかしたら、弱くなってしまうかもしれないところへと向かっていた。
ずっと背負ってきた祈りや願いや後悔を、無価値なものとして貶められてしまう、そんなおそれのある場所に、彼は戻ろうとしていた。

「……なにやってんだ、グズマ」

自らをそう叱責しながら、それでも彼の足は止まらなかった。

勝手知ったるハウオリシティを大きな歩幅でずかずかと歩き、ポケモンセンターのある通りを更に北へと進んだ。
黄色い地面を乱暴に蹴って、草むらを一気に抜けた。緩やかな坂を登れば、彼のかつての箱庭はもう目の前であった。
潮風に揺れる小さなブランコ。トロフィーの並ぶ窓。開かれることのなかったドア。
いっぱいに見開いた目にそれらを焼き付ければ、彼の心臓はキリキリと締め上げられた。己を襲う感情の理由は解っていたから、グズマは特に動揺しなかった。

ただそこにいてくれるだけで、かけがえがない。

究極の愛を与えられ続けたグズマは、けれど「いなくなる」という最大の裏切りを両親に示すように、家を出た。
生みの親にそのような仕打ちを見せた自分が許せなかった。ささやかな幸福で満たされていた筈の家庭に、安息を見出せなかった自身がひどく腹立たしかった。

満足のいかない結果に対してあまりにも優しく賞賛されること、そもそも頑張ることさえも不必要なものであるとみなされてしまうこと、
どのように生きるべきだ、という指針を与えられないこと、強さの意味を教えてくれないこと、世界がどこまでも小さく閉じていること。
劣悪な家庭環境であるという訳では決してなかった。ただ、冒険心と野望を年相応に持ち合わせていた彼には、少年を極めたまま大きくなってしまった彼には、相性が悪すぎた。

そうした、悉く相性の悪い場所に、再び足を運ぶ必要などきっとなかった。グズマ自身の心を優先するなら、きっと訪れるべきでなかった。けれど、訪れてしまった。

自分が捨てた場所のこと、自分を確かに慈しんでくれた人のこと、そこで受けた、かけがえのない価値のこと。
彼はもう、忘れた振りをすることができなくなっていた。自分のことだけを考えることができなくなっていた。誰かの祈りを蹂躙することができなくなっていた。
そうした時間だったのだ。グズマという男にとって、この2か月というのは。

コン、コンとノックをする。此処は自分の家であって、自分が捨てた家だ。無断で勢いよくドアを開けることはどうにも躊躇われたのだ。
向こうから聞こえてきた、おそらくは父と呼ぶべき相手の足音に、グズマの心臓はまた暴れた。時が止まればいいと思った。
けれど等しく流れる時間によってそのドアはゆっくりと開かれ、記憶にあるよりも少しばかり年老いたその男は、グズマを見上げて、息を飲んだ。

「!」

「……なあ、入ってもいいか?」

この男も、おそらくキッチンで夕食を作っているのであろう母も、グズマを罵倒し、拒絶し、追い出して然るべきであった。
排斥された側には、排斥する権利がある。そうやってグズマの率いるスカル団はいきがってきたのだ。かつての彼にとって、それは常識であり、理念であった。
故にかつての彼が捨てたこの家に、今の彼が捨てられたとして、見限られたとして、それはしかし当然のことだったのだ。
然るべき報いであり、そこにグズマが逆上していい理由などある筈がない。解っていた。解っていたからグズマはただ短く許可を請い、口を閉ざした。
次に来るのは怒声か拳かと、じっと目を伏せて耐えていたのだ。

「はは、相変わらずお前はでかいなあ、グズマ。また背が伸びたんじゃないか?」

「……」

「お前の分の夕食は用意できていないが、それでもいいなら、入りなさい」

けれど父は泣きそうに顔を歪めながら、グズマが一度捨てた家に、彼を招き入れた。

ほら、とやや強引に背中を抱かれる。ぐいと押し込まれれば、懐かしい木の香りと、夕食のホワイトシチューの香りがグズマの鼻先をわっとくすぐった。
彼は笑えなかった。一切の表情を作ることができなかった。頬が痺れたように痛かった。何も言えなかった。
次に何か紡ごうものなら、頬をぴくりとでも動かそうものなら、それはひどくみっともないものにしかならないことが解っていた。
だから彼は、限りなく沈黙して歩みを進める他になかったのだ。

数年に及んだ彼の不在にもかかわらず、この箱庭の様相は、彼が此処を捨てたあの日から何も変わっていなかった。
テレビの脇に置かれたゴルフ用品は、彼の暴力性を受けて手酷く折れ曲がったままだった。
使える筈のないそれは、早々に廃棄されて然るべきであったそれは、けれどいつまでもこの箱庭に留まり続けていた。彼の罪はその光景によって優しく責められようとしていた。

「ねえ貴方、どちら様だったの?」

そう告げて、キッチンから姿を現した母もまた、グズマの記憶にあるよりも年老いた姿をしていた。
けれどこちらの反応は、父のそれよりもずっと厄介だった。彼女はあまりの驚きに、両手に抱えていたホワイトシチューの鍋を落としたのだ。

陶器製の鍋は当然のようにガシャンと大きく割れて、中のシチューがフローリングに勢いよく飛び散った。湯気の量にむせ返りそうになったが、それどころではなかった。
瞬間、彼は自らが泣きそうになっていたことも、みっともない顔をするまいと懸命に無表情を貫いていたことも忘れて、「いつものように」怒鳴ったのだ。

「おい!何ぼさっとしてんだ、さっさとタオルを寄越しやがれ!」

「わ、分かった!」

「アンタもなんでそんなところで突っ立っていやがる!火傷したいのか!」

「え?で、でもグズマくん、」

父にタオルを持ってくるように指示し、シチューの海に足を沈めたままの母をぐいと抱き上げた。
素っ頓狂な悲鳴を上げる母をソファの上へとやや乱暴に置いて、父が持ってきた大量のタオルを次から次へと床に敷き詰めた。
彼等がそんなグズマを呆気に取られた顔で見ていたことにも気付かぬ程に、グズマは焦っていた。慌てていたのだ。当然のことだった。

母が落とした鍋の片付けを息子が率先して行っている。これ自体は何ら驚愕すべきことではなく、少しの感心をもって万人に受け入れられるべき、正常なことであった。
けれどそこに「数年ぶりに返ってきた子供が」という装飾が付くだけで、彼の行為は一気に異常性を増す。
この状況は、異常な彼が為した正常な行動は、やはりどこまでも歪であり、異常だったのだ。だから父も母も唖然としていたのであり、彼等に非がある訳では決してなかった。
当然のことだった。

今も、昔も、誰かに非があった訳では決してない。非を探して責め合って罵り合って、そうやって殺伐と生きていかれる程、家族というのは冷たいものでは決してない。

確かキッチンにトングがあった筈だとグズマは咄嗟に思い立ち、上から2段目の棚を乱暴に開ければ、トングは彼の記憶を裏切らぬ位置にしっかりと佇んでいた。
シチューの海へと分け入り、トングでまだ熱い陶器を拾い上げてはゴミ袋に放り込んだ。
大きな破片も小さな破片も、等しくシチューを浴びていた。それらは皆、蛍光灯の光を弾いてキラキラと瞬いていた。

陶器を粗方拾い終えてから、グズマはシチューを吸ったタオルの片付けに取り掛かった。
重いタオルを一枚ずつ拾いながら、グズマは「何やってんだ」と悪態づきたくなった。
勿論その悪態は、シチューを取り落とした母に対するものではなく、咄嗟にこのようなことをしているグズマ自身に向けられるものであった。
けれどグズマが悪態づく前に、驚愕から持ち直した母が、彼の隣に屈んでタオルの回収を手伝い始めたため、彼はその悪態を飲み込まざるを得なくなってしまったのだ。

「おい、熱いから気を付けろ」

「大丈夫よ。いつも料理をしているんだから、これくらいの熱さ、どうってことないわ」

代わりに飛び出した言葉に、母は気丈な声音で言い返した。
こう言い出せば彼女が一歩も引かないことなど、彼女の息子であるグズマにはとてもよく解っていたから、彼はそれ以上の言葉を紡がなかった。
彼女は重いタオルをフローリングからはがしてグズマに渡し、グズマはそのタオルを父に渡した。
父はタオルを大きな袋に詰め込んでから、ソファに置いてある新しいタオルを取ってグズマに渡した。
グズマは新しいタオルでまだべたついている床を拭きつつ、母から濡れたタオルを受け取って、また父に渡した。

何回もそうしているうちに、母が背中を震わせて笑い始めた。何がおかしいんだよ、と吐き捨てるように口にすれば、今度は父までも声を上げて笑い出してしまった。
ふざけていやがるとグズマは思った。この惨状を前にして、こんなにものんきに笑えるなんて、馬鹿げている。
だから二人に釣られて笑ってしまったグズマとて、やはりいよいよふざけていたのだろう。
彼等は馬鹿だった。歪んでいた。誰もが誰もに合わさらず、誰もが安息を求めて失敗し続けていた。けれどそれだって、彼等にしか持ち得ない家族の形であった。

彼等は家族だった。ただ懸命に家族であったのだ。

「おかえりなさい、グズマくん」

シチューでべたついた、しわの目立つ手がグズマの大きな手にそっと触れる。
グズマは小さく、本当に小さく「ただいま」と告げて、さっとその手を振り払う。それが彼の限界であったから、仕方なかったのだ。


2017.2.4

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