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ギラティナの背に乗せてほしいと、少女の代わりに頼んでみた。ギラティナは当然のように頭を下げて、小さな子供でも背中まで上れるような姿勢を取ってくれた。
ボーマンダの背に乗る時は、ゲンの方が先に乗り彼女の方へと手を伸べたが、ギラティナのトレーナーは他でもないこの少女なのだからと、その身体を抱き上げて背中へと誘導した。
銀と赤を散りばめた、無機質のような禍々しい色をした体躯を、しかし少女は慈しむように何度も撫でた。
声のない少女であることを、重力を忘れていた少女であることを、ゲン自身が忘れてしまう程に、完成されすぎたポケモントレーナーとしての眼差しがそこには在った。

伸べられた手を取ってゲンもその背中に乗った。ボーマンダよりもずっと大きなその背には、少女とゲンの二人が乗ってもまだ余裕があるように思えた。
夜に溶ける翼を大きく羽ばたかせ、ギラティナは音もなく舞い上がり、泳ぐように夕闇を飛んだ。

「こちらの世界でも、ギラティナはとても静かに飛ぶんだね」

そう告げれば少女は振り返り、大きく頷いた。その笑顔は自らのポケモンを自慢するような、誇りと歓喜に満ちた表情であると知っていた。
夜色の髪を強い風にはためかせる少女は、しかしもう、夜の暗さを恐れたりはしなかった。

その夜色をした帳が、夜色の少女と過ごしたこの時の帳が下りようとしていることくらい、解っていた。
彼女がポケモントレーナーであることを思い出した今、彼女が彼女で在るための何もかもが揃った今、残るたった一つの落し物が見つかるのも時間の問題であると心得ていた。
せめて、と思った。この少女に何もかもを教えてもらった身でこんなことを願うのはおこがましいかもしれないが、彼女の声が戻る時を見届けたいと思ってしまった。
もしそれを口に出せば、少女は容易くゲンのそうした我が儘を許しただろう。だからこそ彼は何も言わなかった。何も言わずに少女の髪に触れた。

彼女の髪は少し伸びた。来た時よりもよく食べるようになった。足取りもしっかりとしたものになった。水が下に落ちることを思い出した。ポケモントレーナーを、思い出した。
そうした彼女の変化に、まさかこの自分が寄り添えるなんて思ってもいなかった。
あの時確かに自分は「無理だ」と思ったのではなかったか。声を取り戻す術などないと諦めていたのではなかったか。
何事もなく一週間が終わってほしいと、ただそればかりを願っていたのではなかったか。

……けれどこの、ゲンにとっての物語が終わろうとしている今、彼はただ名残惜しいと思った。けれどそれだけだった。
彼女をあの家に引き留めたところで、ゲンが得られるものなど何もないのだと知っていたからだ。
それよりも、少女から学んだ何もかもを見に纏い、もう少し多くの人と関わりながら、言葉を尽くしながら、生きるために誠意を示すことが重要であると弁えていた。

忘れることができないと思っていた。そうした不甲斐ない自分をずっと責めていた。
けれど忘れる必要などなかったのだ。忘れることができない自分を嘆くべきではなかった。この少女から貰ったあらゆるものを、寧ろ決して忘れてはいけなかったのだ。
それがゲンの学んだ誠意であり、この少女に示し得る最大の感謝の形であった。そのことにようやく気付けたのだ。

昼に仕掛けておいた炊き込みご飯がよく炊けていたので、今日はそれと野菜炒めを夕食に用意した。
予め、何を作るかを綿密に決めずとも、冷蔵庫にあるもので「適当に作る」というニュアンスのことを、この3週間の間で、いつの間にか彼はできるようになっていたのだ。
ただし調味料の量は未だに計り兼ねているようで、野菜炒めは塩辛く、逆に炊き込みご飯はやや味気なかった。
申し訳ないと頭を下げるゲンに、少女は何度も首を横に振った。
『カレーの方がからかったからだいじょうぶだよ。』という昔の失敗を引き出して楽しそうに笑った。笑い声はゲンのものしか聞こえなかったが、それでも二人ともが笑っていた。

鞄を置いて、少女が先に風呂へと入った。
その後でゲンがシャワーを浴び、濡れた髪のままでリビングに戻ると、少女があのマスターボールをハンカチで磨いているところだった。
『ずっとガムテープでぐるぐるまきにしていたから、テープのベトベトしたものがのこっているの。』と、そう書かれたページを掲げて困ったように笑った。
ゲンも隣に座って、交代でボールを磨く作業を行った。ガムテープの跡は思いの外、濃く残っていて、大人の力でも全てを拭い取るのにかなりの力を要した。

「エンペルトやレントラーの入っているボールも磨いてあげたらどうかな」と提案すれば、少女はすぐさま頷いて彼等のボールをポケットから取り出した。
ボールの中から、エンペルトやレントラー、そしてギラティナが少女を見上げていた。少女は彼等全員にボールの外から笑いかけた。
当然のこと、けれど少女が長い間忘れてしまっていたこと、そしてゲンの目には眩しすぎること、それらを今の彼女は息をするように行う。彼女の目には星が降りている。

そうして時計が10時を回った。
この世界に時が流れていることをもうすっかり思い出している少女は、そして夜の10時というのが子供に取って比較的遅い時間帯であることを把握している少女は、
いけない、というようにさっと立ち上がり、ソファの上に散らかしていたボールやハンカチを片付け始めた。
眠ろうかと促さずとも、少女は自ら『おやすみなさい』と書かれたノートをこちらに向けてから、自室へとしっかりとした足取りで歩いていく。

彼もそれを見届けてから、自室に戻り、溜まった仕事のチェックをする。
そろそろ梅雨が明けそうだから、土砂崩れの危険があった地域の地質調査を再開してほしいとのメールが届いていて、これは忙しくなりそうだ、と一人笑った。

時計の針が12時を指した頃、ゲンの部屋のドアが再びノックされた。
どうしたのかと慌てて向かえば、パジャマ姿の少女はその小さな眉を下げ、ノートをこちらに掲げてみせる。

『ねむれないから、ここでおきていてもいい?おしごとのじゃまはしないよ。』

遠慮がちな、それでいて不安そうな文字がゲンの目を穿ち、参ったな、と彼は苦笑した。
自室に彼女を招き入れること、仕事中に彼女が傍にいること、この二つに関しては何の支障もないのだが、預かっている子供をこんなにも遅くまで寝かせないことは些か問題である。
何とかして眠ってもらえないだろうかと考えたゲンは、したことのない初めての提案をするべく口を開く。

「それじゃあ君の部屋に行こう。眠くなければ話をして過ごせばいいし、眠りたいなら眠れるまで傍にいるから」

思いもよらない提案であったのは少女の側でも同じことであったらしく、その目が大きく見開かれたが、やがて何度も頷いてくれた。
少女の自室は相変わらず片付けられていた。小さなテーブルの上にはノートが2冊積まれている。少女の手元にも1冊、同じデザインの新しいノートが抱かれている。
これまで彼女と交わした言葉の記録は、今日の夜で3冊目になった。

椅子を抱え上げてベッドの傍へと運び、それに腰掛けた。少女はベッドへと潜り込んだ。
しばらく他愛のない話をしていた。少女はベッドに伏せて眠り、肩から上だけを起こして枕元に広げたノートに言葉を綴った。
ポケモンのこと、夕食のこと、ゲンの仕事のこと、少女のこれまでの旅のこと……。
自らへと戻って来た何もかもを誇らしげに、楽しそうに語る少女は眩しかった。ゲンはノートに綴られる眩しい文字を見ながら、何度も頷いて続きを促した。

『あなたはとても上手におはしを持つから、うらやましいな。』

食事の話題になったところで、少女が眠そうな目を擦りながらそんなことを言うものだから、ゲンは眠りなさいと促すことすら忘れて笑ってしまった。
鋼鉄島の洞窟でカップラーメンを食べたあの時、この少女の箸の持ち方がやや歪んでいることに気付き、その子供っぽさを微笑ましく思ったのだ。
そのことを、彼はまだ、昨日のことのように覚えていた。

「私も、君と初めて会った時に同じことを思ったよ。でも大丈夫、箸の持ち方くらい意識すればすぐに直せるさ」

本当?と確認を取るようにその小さな口が動いたので、ゲンは勿論、と即答して笑った。
欠伸をした少女から「そろそろ寝なさい」とノートとペンを取り上げ、枕を少女の頭の下へと敷き込んだ。
手持ち無沙汰になった少女が不満そうに手を伸べてきたので、ノートとペンの代わりに自らの手を差し出させば、驚く程に大人しくなり、ふわりと笑って握り返してきた。
ゲンが指を畳めば、少女の小さな手はその中にすっぽりと収まった。
何故だか泣き出したくなったが、それより先にささやかな寝息が聞こえ始めたため、彼の下に落ちる水は誰にも見られず、それはあの4時間と同様に「なかったもの」となった。

私の物語はもうすぐ終わるだろう。この子の物語はいよいよ始まるだろう。そして、それでいい。

窓から差し込む日差しの眩しさで目が覚めた。真っ青な空に彼は驚く。
この3週間、決して見ることの叶わなかった美しい青空だった。長く続いていた梅雨がようやく明けたのだとすぐに分かった。

身体の倦怠感をいつもより強く感じたため、どうしたのだろうと怪訝に思ったが、しかしその疑問はすぐに氷解した。
あの後、椅子に深く腰掛けたまま眠ってしまっていたのだ。これではろくに疲れも取れない筈だと思いながら、慌てて目を擦り、時計を探した。
ベッドの脇に置かれた時計は7時を指していた。いつもと同じ時間だ。
そのことにほっと安堵の息を吐くのと、ベッドの上の布団が動いて少女がゆっくりと身体を起こすのとがほぼ、同時だった。

「おはよう、ヒカリ。驚かせてすまない。昨日は私もあのまま此処で眠ってしまったみたいでね。すぐに朝食を作るから、待っていてくれ」

少女はぱちぱちと瞬きを繰り返し、ふわりと笑った。


「おはよう」


2016.8.24

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