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214番道路から隠れ泉の道へと向かい、ボーマンダの背を下りた。少女は右手でノートとペンを持ち、左手でゲンの手を引いた。
昨日と同じ光景である筈なのに、草むらを掻き分けて進む彼女の足取りは、この世界の重力に馴染んだ、驚く程にしっかりとしたものへと変わっていた。

いつから彼女がこのように、しっかりとした足取りで地を踏むようになったのかを、彼は覚えている。今日の朝のことだ。
朝食を自分の代わりに作った、と誇らしげにその字を掲げる少女が、準備をするためにリビングへと歩いていった、その頼もしい後ろ姿を彼は覚えている。
寧ろ自分の方が、昨夜のでたらめな重力を思い出して覚束ない足取りになっていたこと、そんな逆転の事実に苦笑したこと、その全てを覚えている。
忘れない。忘れられる筈がない。少女が忘れてしまっても、きっと彼はいつまでも覚えている。

送りの泉の最奥、戻りの洞窟へと続く道で、少女はボールを取り出した。落とすような投げ方で彼女の手を離れたボールの、紫色の真っ直ぐな軌道が青く透き通った泉を割いた。
地面に落ちてバウンドする前にそのボールは開き、中から巨大な体躯が現れて空の夕焼けを隠した。
少女はやはりこの大きすぎる、恐ろしい姿をしたポケモンに恐怖心を抱かずにはいられないらしく、
目を合わせるまいと深く俯いたまま、地面に転がったマスターボールを拾い上げてゲンに渡した。
彼女の代わりに言葉を紡ぐ役目を任されているのだと、心得ていたからこそ彼は躊躇いなくボールを受け取った。

「貴方の力を借りて、この子はずっと貴方の世界に入っていた。彼女は貴方の世界に自分が何度も長く立ち入ったことを、貴方が憤っているのではないかと考えている」

射るような赤い目がこちらを見下ろしていた。禍々しい翼は夕闇を吸い込むかのようにどこまでも広がっていた。
あの破れた世界の主は、しかしこちら側の世界に佇んでも尚、有り余る程の威厳と貫禄をその身から放っていた。
仮にこのポケモンを恐れなくなったとして、それでもきっと「畏れ」を抱かずにはいられないのだろうと、そんなことを漠然と思いながら再びゲンは口を開く。

「今日は貴方の世界に無断で侵入したことを謝ると共に、貴方をあの、貴方が住んでいた世界に帰そうということで、貴方の世界に繋がるこの場所へとやって来たんだ」

ギラティナは何の反応も示さない。少女は顔を上げることができない。ゲンはこのポケモンから目を逸らすことができない。

「けれどその前に、私からお礼を言わせてほしい」

少女が驚いたようにはっと顔を上げてこちらを見る。
しかしすぐにその小さな視界にギラティナを収めてしまったらしく、より強い力でゲンの腕に縋り付き、彼の背中に回り込み、顔を伏せる。

この、何もかもを忘れてしまった彼女は、しかしこの数週間を経て様々なものを少しずつ思い出していった。
食べることを思い出した。眠らなければいけないことを思い出した。時計は止まらずに動き続けること、重量の変化など訪れ得ないことを思い出した。
そうしてこの世界に敷かれたルールの何もかもを取り戻した少女が、これ以上求めるものなど何もないように思われた。
ここが「ゴール」なのだと考えても差し支えない程に、少女は回復していた。彼女の足取りはもう覚束なくはない。彼女の目はもう虚ろではない。

けれど、ここがゴールではいけないのだと彼は知っていた。何故なら彼女がその身に思い出さなければならないものが、あと二つだけ、残っているからだ。
そのうちの一つを今、このギラティナとの対峙で取り戻せる筈だと信じていた。そのために自分がいるのだと、思い上がりに似たそれを心中で言い聞かせる。もう躊躇えない。

「この子をあの世界でずっと見守っていてくれてありがとう。貴方が彼女を見ていてくれたから、この子は無事にこちらの世界へと戻ってくることができた」

振り返らずとも少女が驚いていることが解っていたので、ゲンは苦笑しつつ更に続けた。

「破れた世界を延々と回り続けるこの子を、貴方は元の世界へと返さなければと思った。だから彼女の意向に反して、彼女をあの世界から追い出した。違ったかな?」

ギラティナは何も言わなかった。少女は微動だにせず、彼の背中で彼の言葉を聞いていた。

『……それに君は「下」に行きたいと言っていたけれど、そんなこと、できないんだ。だって私達は先程からずっと、同じところをぐるぐると回っているだけなんだよ?』
「それ」は、例えば7の目まであると信じて振り続けたサイコロが、実は6までの目しか持っていなかったと気付いた瞬間のような、
そうした虚しさと空恐ろしさを秘めた、悉く常軌を逸した行為であったように思う。

6つまでの目しかないサイコロを彼女はひたすらに振り続けた。「7」が出ると信じて、無限とも思える試行をずっと、あの静寂の中で繰り返していた。
彼女の試行に歯止めをかける何もかもがあの世界にはなかった。
唯一、その永遠を破けた相手というのが、あの世界の主であるギラティナであったのだ。ギラティナこそが彼女の振り続けたサイコロを壊したのだ。
彼女が錯乱する程に恐れたあのポケモンに、実は彼女は救われていたのだ。それをこの子は知らなければいけなかった。

恐怖に目が眩むのは当然のことだ。このポケモンを最初に見た時、彼もまた心から恐れていた。
けれど彼は大人として、少女を支える者として、彼女が見ることの叶わなかった、ギラティナというこの大きな体躯の中に隠れた真実を紐解かなければならなかった。

「それにしても、不思議だね。貴方のような大きなポケモンでも、こんなに小さなボールの中に収まってしまうなんて」

「!」

「マスターボールの中は窮屈だったかい?貴方がこの子に憤ることがあるとすればおそらく、その一点くらいだと思うのだけれど」

ギラティナは彼の言葉に同意するように大きく咆哮した。少女は身を震わせたが、ゲンは苦笑して肩を竦めた。
それは、自らの手持ちであるルカリオやボーマンダが、トレーナーであるゲンに抗議をする時の鳴き声に似ているのだと、このポケモンはヒカリに抗議をしているのだと、
解っていたからこそ彼はルカリオに示すような反応をこのポケモンにも呈し、「すまなかったね」と少女の代わりに謝ったのだ。

「これらを踏まえて貴方に尋ねよう。貴方はこの子のポケモンであることを、やめたい?」

ギラティナは首を振る代わりに、ゆっくりとその大きすぎる首を垂れた。
それが自らの「トレーナー」である少女に示すべき敬意の顕れであると、解っていたからこそ彼は背中に隠れた少女の手を引いた。
頑なにゲンから離れようとしなかった少女は、顔を真っ青にして震えていた少女は、
けれどこちらに全く危害を加えようとしないギラティナをその目に映し、蒼白であった顔に困惑の色を灯して狼狽した。
「どうして」と、その小さな唇は音のない言葉を綴っていた。ゲンは苦笑しながら当然のように告げた。

「君と一緒にいたいのだと思うよ。だって君はとても素敵なポケモントレーナーだからね」

ギラティナはポケモンであった。彼女はポケモントレーナーであった。
たったそれだけのことさえも少女は忘れていた。それ故に、ギラティナの存在は彼女にとって恐怖の対象でしかなかったのだ。
けれど、今の彼女は自分が何者であるか、そしてギラティナがどういった生き物であるのか、そしてこの両者がどういった関係にあるのか、その全てをもう、解っている筈だ。

「たまには外に出して、一緒に遊んであげるといい。きっと喜んでくれるだろうから」

少女の踏み出した足は震えていた。ギラティナを真っ直ぐに見据えた目は恐怖に震えていたけれど、それでも彼女はもう、歩みを止めなかった。
恭しく頭を下げたギラティナの前に立ち、そっとその頭に触れれば、ギラティナの赤い目は僅かに細められた。
はっと息を飲む音が聞こえた。彼女はもう一度頭を撫でた。
何もしてこないことを、危害を加えて来ないことを、このポケモンが自らの仲間であることを、確かめるように両手を伸べて何度も何度も彼に触れた。
やがてその手がぴたりと止まった。そして肩が震え始めた。ぽろぽろと頬を伝うそれは下に落ちた。当然のその理を、ギラティナは驚いたようにじっと見ていた。

「貴方のトレーナーが暮らすこの世界では、水は下に落ちるんだよ。覚えておくといい。貴方はこれから先、ずっとこの子と一緒にいられるのだから」

ギラティナが少女を食べようとしていたこと、危害を加えようとしていたこと、彼の世界に無断で入った彼女に憤りの感情を抱いていたこと。
それらは全て、彼女のこのポケモンへの恐怖が見せた幻想だったのだ。
どんなに恐ろしい姿をしていようとも、どんなにその咆哮が禍々しくとも、ギラティナはポケモンだ。少女はポケモントレーナーだ。
だからこう在るのが最も正しい形であるのだと、知っていたからこそ彼は少女の代わりに言葉を尽くした。そしてその言葉はギラティナに、そして少女に届いた。

長い時間をかけて少女は泣き止んだ。その横顔はまだぎこちなかったが、僅かな微笑みを湛えていた。
頬に乾き始めている涙がどのような類の水であったのか、ゲンにはそれを読み解く術がない。
ずっとギラティナのことを誤解していた申し訳なさから来る涙だったのか、また危害を加えられないことへの安堵の涙であったのか、
それともこの大きなポケモンと心を通わせることのできた喜びのそれだったのか、あるいはその全てであったのか、彼は推し量ることはできても、読み解くことなどできやしない。
彼は本来そうした、不器用な男であった筈なのだ。自分が彼女のために取り戻してあげられるものなど何もないのだと、自分は悉く無力なのだと、本気で思っていた。

『わたしはことばがないとあなたに何も伝えられないけれど、あなたはことばにしなくても、いつもたくさんのことをわたしにくれるね。』
彼女の言葉を思い出して、ゲンは一人と一匹から少しばかり離れたところで苦笑し、首を振る。
違うよヒカリ、私だって君と同じだ。私も言葉がなければ君に大事なことを何も伝えられない。
言葉を尽くして初めて伝わるものがあるのだ。逃げていては手に入らない何もかもが言葉の世界には散りばめられているのだ。
そんなことさえも、私は、君と出会わなければ気付くことができなかった。

私は、君ではない誰かにもこう在れるだろうか。私が君にしたように、君が私にしてくれたように、言葉を尽くせるだろうか。
解らない。その時になってみなければ何とも言えない。けれどそうするための勇気なら、数え切れない程に君から貰った。だからきっと『だいじょうぶ』なのだろうと思うことにした。
子供らしいあの文字が脳裏に呼び起される。その拙く温かい文字を綴った本人である少女は、ギラティナの頭を撫でながら笑っている。

この日、彼女はようやく、自分がポケモントレーナーであることを思い出した。


2016.8.24

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