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「あの子は、貴方があの世界に留まり続けていると、ギラティナに閉じ込められてしまったのだと思ったようだ。
あの世界の底へと身を投げた貴方のことを探し出さなければいけないと、私が救わなければいけないと、優しいあの子はそう考えたのだろうね。
同時に、責任を感じてもいたのだろう。貴方の邪魔をしてその野望を砕いたのは他でもない、あの子だから」

沈黙を貫く男の前で、ゲンは淡々と語り始めた。

「信じられないかもしれないが、彼女はあまりにも長い時間、あの場所を彷徨っていたんだよ。
こちらの世界の重力を忘れてしまう程に、睡眠や食事が必要なことを忘れてしまう程に、お気に入りのキーホルダーウォッチが壊れてしまう程に、長く」

彼女が永遠ともとれる時間の中で、延々と繰り返していた試行の一部を彼は体験していた。
どこまでも広がっているかのように思われたあの世界は、実は驚く程に狭い範囲で閉じていたのだ。彼女はその閉じた世界を永遠に巡り続けていた。
そのことに気付いてしまった時の衝撃と恐怖を、ゲンはどう表現すればいいのか決めかねていた。

それは、例えば7の目まであると信じて振り続けたサイコロが、実は6までの目しか持っていなかったと気付いた瞬間のような、
そうした虚しさと空恐ろしさを秘めた、悉く常軌を逸した行為であったように思う。

その、6面しかないサイコロのような世界で、彼女は閉じた道の外側へ、下へ落ちていったというアカギの元へ行こうと足掻いていた。
6つまでの目しかないサイコロを彼女はひたすらに振り続けた。「7」が出ると信じて、無限とも思える試行をずっと、あの静寂の中で繰り返していたのだ。
疲れないし、空腹も感じない、眠くもならない。彼女の試行に制止をかける何もかもがあの場にはなかった。
だからこそ彼女の一瞬は永遠になり、その永遠の中で彼女は時を忘れた。

「……こうしたことからも分かるように、彼女は貴方やギンガ団のことを嫌っていたから、貴方達の邪魔をした訳では決してないんだ。
あの子は少し、大事なものが多すぎた。その中にギンガ団も、そして貴方も含まれていた。それだけのことだったのだと思うよ」

あの子はきっと、アカギやギンガ団がよからぬことを企んでいることに、早いうちから気付いていた筈だ。
幼さに似合わない力を持ち合わせた彼女は、一人でギンガ団の行動を止められると本気で思っていたのだろう。
そうした思い上がりがなかったとしても、勝てないかもしれない、と考える余裕など当時の彼女にはなかったのだろう。
あの小さな手で全ての人を守れると、信じていたから彼女はあの世界に残りアカギを探した。「7」の目が出ると、言い聞かせて閉じた世界を巡り続けた。

その「大事なものを想う心」のせいで、彼女はあの破れた世界を延々と彷徨うことになったのだから、やはり人の心というものはなべて下らないものでしかないのだと、
仮にそう、アカギがその能面のような感情を感じさせない顔の下で思っていたとして、そうしたゲンや少女に辟易していたとして、
彼等のことを、少女のあのノートを通してしか知り得なかったゲンには、そんな彼の「心」を読むことなどできやしなかったのだけれど。
にもかかわらず、ゲンが努めて平静な調子を保ち、淡々と音を連ねていたのは、決して、この男のためではなかったのだけれど。

「貴方のしたことを責める人間はきっと沢山いるだろうから、私からは何も言わないよ。……いや、言えない、と言った方が正しいかな」

笑ってくれて構わない、と付け足してから、ゲンは重い口をゆっくりと開く。

「だって私はもう、貴方がいなければよかったのにと思うことができないんだ」

ギンガ団という組織がなければ、このような騒動が起こることもなかった。
ギラティナが現れなければ、少女が黒いものや暗いところを極端に恐れることだってなかった。
この男があの世界で身を投げなければ、少女がこの世界の何もかもを忘れることなどなかった。
もしそれら全てがなかったなら、あの子は今頃、ポケモンリーグの頂点でシロナと熱いバトルを繰り広げていた筈なのだ。
あの、出会った頃と変わらない朗らかな笑顔のままに、今も元気に旅を続けていた筈なのだ。そうして彼女はゲンの望み通り、彼を忘れてくれていた筈なのだ。
そして、それが耐えられなかった。そうであればいいと、心から思うことができなかった。

「貴方のような聡い人には、私のような人間は愚かに見えるのかもしれないけれど、」

きっと私は貴方よりもずっと、貴方とは別の意味で最低な人間なのだろう。解っていた。弁えていた。
だからこそゲンはこの男を責めることができなかった。何故なら彼は、そうした残酷な存在に成り下がった自分のことが、彼女に寄り添い続けた自分のことが。

「私は今の自分を愚かだと解っているし、その上で、自分のことを誇りに思っているよ」

そう告げながら振り返った。少女をあやすように抱き締めていたシロナは、その腕をぴたりと止めてゲンを見据えた。

シロナ、申し訳ない。君の言葉は正しかった。私はやはりあの子を忘れられそうにない。
あれ程、私と彼女は違う世界に生きる存在だと言い聞かせてきたのに、あの子は私を忘れるべきだと、戒めのように繰り返してきたのに、やはり私は不甲斐ない男だ。
けれど、それだけだ。彼女を引き留めるような発言は決してしない。彼女の声が戻らなければいいのに、などとは絶対に思うまい。
私はあの子をあの子のまま、必ず元の場所に帰すと約束しよう。
だからもう少し、もう少しだけ、あの子の声が戻って来るまで、あの子を支えることを許してほしい。

ありがとう、私にあの子を託してくれて。
私はあの子がやって来なければ、トーストを綺麗に焼くことさえできなかった。

「……」

驚きに目を見開いたシロナの顔から、更に視線を下に移せば、泣き腫らした目を真っ直ぐにこちらへと向ける少女と、目が合った。

ヒカリ、私は君のことを誇りに思っている。優しく強く生きた君のことが、どうしようもない程に誇らしい。
そして、君がいてくれたからこそ、私も私自身を誇りに思える。
たった一人に対してどこまでも愚直に、誠実に生きることの叶った自分がただ、誇らしい。

ヒカリ

夜色の目が見開かれる。

「今日の夕食は何にしようか?」

そう、笑顔で尋ねられる自分で在れて本当によかったと、心の底から、そう思えるのだ。

ゲンのその言葉を合図としていたかのように、シロナは少女の肩からぱっと手を離して立ち上がり、そのままアカギの方へと歩み寄った。
見た目に似合わず怪力であるらしい彼女は、自分よりも背の高い大の男の腕をぐいと掴み、荷物でも引きずるかのようにぐいと引っ張って来た。

「あたし達はこれからまだ話すことがあるから、もう行くわね。
……ヒカリ、このおじさんと話をしたくなったら、いつでもあたしに言ってね。すぐにヒカリのところへ連れて行ってあげるから」

完全に泣き止んだ少女が、シロナの目を見て大きく頷いたことを確認してから、彼女はゲンに向けてヒラヒラと手を振り、その手で再びアカギの腕を掴んだ。
まるで親しい友人と出掛けるかのような陽気さで、あっという間に二人の背中は遠くなっていった。
「まだ話すことがある」というシロナの言葉を思い出しながら、ゲンは数歩進んでは振り返って笑うシロナに手を振った。シロナとあの男は一体、どんな話をするのだろう。

彼等を完全に見送ってから振り返れば、少女が自らの鞄から、もうすっかり使い慣れてしまったノートとペンを取り出しているところだった。
何を伝えようとしているのだろうと思い、そのページを覗き込めば、共に暮らし始めた頃の覚束ない文字を忘れさせる程に、毅然とした美しい一文がゲンの視界を深く穿った。

『ギラティナをあのせかいにかえしてあげたい。』

「……どうしてだい?」

何も考えないまま発された、やや上擦った彼の声音を受けて、少女は不思議そうにぱちぱちと恣意的な瞬きを繰り返してからスラスラと続きを綴った。

『わたしはもう、あのせかいに行かなくていいから。わたしがギラティナのせかいに入らなくなれば、ギラティナも、おこるのをやめてくれるとおもうから。』

少女は、この一連の出来事に区切りを付けようとしている。そう理解した瞬間、彼は、笑った。
心から「よかった」と思えたのだ。そのことにこそ彼は心底安堵していた。

「そうだね、それじゃあ一緒に行こう」と頷いて、ボーマンダを再びボールから出した。
先に飛び乗ってから少女に手を伸べた。躊躇いなく握り返された小さな手をそっと引いて、自分の前に乗せた。
ボーマンダに指示を出せば、大きな体躯はたった一度の羽ばたきで花弁のようにふわりと浮き上がった。

徐々に速度を増すボーマンダの背に乗るゲンは、ふと、少女の後ろ姿に視線を向けた。曇天の空が強い風を運び、少女の夜色の髪をはためかせていた。
それは彼女の、……いや、「彼の」物語を象る歪な幕が、下りる準備をするためにひらひらと、舞台の隅で揺れているような、そうした光景に思えた。

そう、終わろうとしているのは「彼の」物語だ。
「彼女の」物語はきっと、これから再び始まるのだから。それが、正しい姿であるのだから。
「そこに私がいないこと」が正しい姿であると、解っていたから彼は笑った。心は彼の予想に反してただ、穏やかだった。
そんな彼の心を映したかのように、西の空が赤く染まり始めていた。雲は去った。梅雨が明けようとしているのだ。


2016.8.23

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