立ち上がり、下を覗き込んだ。闇の中に無数の島が、でたらめな方向を向いて浮かんでいる。枯れた草木は伸びたり縮んだりしており、水は音も泣く上に流れ落ちている。
その空間を自由に泳ぐギラティナさえも、果たして本当に「生き物」であるのかどうか疑わしくなってくる。そんなこの空間に在る生き物など、それも人など、いる筈がない。
けれど彼女は首を振って「いる」と告げる。迷いのない瞳はただ虚ろであった。
この世界のルールを知り尽くした彼女の言葉は絶対だ。しかし一抹の不安がゲンの心をくすぐっていた。彼はそうかと快く相槌を打つことができなかった。
『何処に?』と書けば、間髪入れずに少女がペンを取り上げる。
『ずっと下にアカギさんがいるの。ギラティナはきっと、わるいことをしたアカギさんにおこっていて、だから、とじこめてしまっているんだと思う。
わたしが行かなきゃいけない。わたしはアカギさんをこんなところにとじこめるために、アカギさんとたたかったわけじゃない。』
アカギという男がギンガ団を束ねるボスであることをゲンは知っていた。彼は崖から飛び降りて姿を消したのだと、ノートにはそう書かれていた。
確かに彼の行方は知れないのかもしれない。しかし彼は、今回に限っては、彼女の「アカギさんが下にいる」という言葉を信じることができなかったのだ。
何故なら彼がいくら下を覗き込んでも、いくら背伸びをしてこの世界を見渡しても、人影らしきものを見つけることができなかったからだ。
やはり此処に来たことには意味があったのだろう。一人の狂気も二人の狂気も大差ないけれど、一人の幻想なら、もう一人が砕くことができる。
何もかもを忘れて「消す」ことを選び続けた彼女が唯一、自らを追い詰めたが故に「現す」ことを選んだ、幻覚の形をした彼の姿を、もう一人いれば、砕くことができるのだ。
『君がアカギさんのこと、ギンガ団のことに責任を感じていることは知っている。君は彼を探し出したいんだね。彼のところへ行きたいんだよね。
でもそれはきっと不可能なんだ。彼は此処にはいない。ないものを探し出せる筈がない。君が見ているアカギさんは、君の優しい心が生んだ幻だ。』
少女の口が「でも」という抗議の形を取る。それを遮るようにゲンは首を振る。少女の眉がくたり、と絶望の形を取る。
『……それに君は「下」に行きたいと言っていたけれど、そんなこと、できないんだ。だって私達は先程からずっと、同じところをぐるぐると回っているだけなんだよ?』
この空間は広大だ。果てがない。しかしその果てがない全てを飛び回れるのはギラティナだけだ。
私達は無作為に破かれた地面と地面の間を、飛び跳ねて不格好に移動していくことしかできない。変化する重力が味方してくれなければ、すぐ隣の地面に移ることさえできない。
どこまでも開けた空間だと思われていたこの場所は、しかし悉く閉じられていたのだ。
1時間ほどあれば全てを回ることができるだろうと思える程の狭いところを、二人は何度も巡っていたに過ぎなかったのだ。
『この世界は破れている。繋がることなく個々に閉じている。それは君だって解っている筈だ。私達に新しい道は開かれない。この世界を自由に行き来できるのはギラティナだけだ。』
でも、とやはり繰り返して少女はペンをひったくる。
『でも、もういちどこのせかいを回れば、べつの道が見つかるかもしれない。アカギさんのところへ行ける道が見つかるかもしれない。せかいが、かわるかも、』
『この世界が「変わらない」ことは、君が一番よく知っている筈なのに?』
この閉じた世界で新しい道を探し出すことは、6までの目しかない1つのサイコロで7の目を出すようなものだ。
そう思った瞬間、甘い果物の香りがゲンの脳裏に呼び起こされた。
『無理だ、こんなものがメレンゲ状になる筈がないよ。』
シロナと少女の3人でクレープを作った日の、あの泡立て器の感触が脳裏でチカチカと点滅を始めていた。
ああ、あの不毛な作業に似ているのだと、認めれば益々、遣る瀬無くなった。
幾ら試行を重ねたところで、サイコロは7以上の目を出さない。この無人の世界を幾ら歩いたところで、いない筈のアカギを見つけることなどできやしない。
そうした実りのない不毛な試行を、少女は「破れていない世界」の全てを忘れるまで延々と繰り返していたのだ。それを止める者など、この静かな世界にいる筈もなかった。
だからこそ彼女はここで生きるためにあらゆるものを手放し、下に落ちる水のことを忘れたのだ。
けれど、今は違う。今は私がいる。
そう心中で唱えながら、彼は再び少女からペンを引き取った。
『ヒカリ、戻ろう。ここは私達の居場所じゃない。』
ゲンは少し、いやかなり焦っていた。
これ以上長く此処にいてしまうと、自分もこの少女と同じように、下に落ちる水や流れる時間や、雨や太陽や声のことを忘れてしまうのではないかと思ったからだ。
彼女が見ていたアカギという人の幻覚を、共有できてしまうのではないかと恐れたからだ。
『でも、おいていくの?』
縋るような文字、という表現が存在するのかどうか疑わしいが、彼女の覚束ない平仮名は正にそうした様相を呈していた。
『わたしがとりこぼしたものをぜんぶここにおき捨てて、そうしてわたしに、何がのこるの?』
そうだよヒカリ、私も、つい先程までそう思っていた。
困ったように笑いながらゲンはもう一度ペンを奪い取る。少女の虚ろな目は不安と焦りに揺れている。
『私も、君がここにいろんなものを落としてきたのだと思っていた。それを取り戻しに行かなければならないと思った。思っていたんだ、今までは。』
「……」
『でも、違うんだ。だって私達は何も見つけることができなかった。君の時間も、声も、記憶も、笑顔も、この場所を幾ら彷徨ったところで見つからなかっただろう?
けれどそれは、君の失った全てが、君の手の届かないところへ行ってしまったことを意味しているのではないんだよ。
君は手の届かないところへ何もかもを落としたんじゃない、何も落としていなかったんだ。だから、こんなところを探しても見つかる筈がなかったんだよ。』
冷たいと、最早感じなくなってしまった彼女の手に触れる。そっと握り締めても、やはり温かくなどならなかった。
正しい温度を彼は忘れかけていた。もう時間がないと焦り始めた彼はやはり正しかったのだろう。
ここには時間がないけれど、何も変わらないと少女は言ったけれど、確実に何かが変わり始めている。だからこれで正しかったのだろう。
いつまでも、いつまでも、時間の進みようがないこの場所に留まるべきではなかったのだろう。彼はまだそれが解っている。少女にそう、思い出させることができる。
君はもう、雨が下に降るものであることを知っているだろう?それはこの、何もかもの破れた世界で手に入れたものではないだろう?
風が吹き、花が咲き、雨が降るあの世界で、君自身が思い出したことだろう?君は何も、奪われてなんかいなかっただろう?
『君の時間も声も記憶も、君の中にちゃんとあるよ。ただ、此処では動いていないだけで。』
揺れていた目がぴたりと止まる。ある筈のない星が瞬く。幻想を見始めているのは何も少女だけではない。一人の狂気が二人の狂気になったところで何も変わらない。
さあ、帰らなければ。
『うごく?わたしの声も、時間も、もどってくる?』
『ああ、必ず。』
間髪入れずにペンを引き取って、たった一言を書き記せば、少女はぱちぱちと恣意的に瞬きを繰り返し、深く俯き沈黙した。
どうしたんだいと尋ねるように顔を覗き込めば、急に目を強く擦り始めた。
そうして顔を上げた少女は、彼がもう忘れかけていた「あの頃」のような顔で笑ってみせる。それは何の笑顔だったのだろう。ゲンにはよく解らなかった。
『あなたはまぶしい。』
少女の笑顔の理由さえ分からないような彼が、その不思議な言葉の意味するところに辿り着ける筈もない。
だからその言葉を字面通りに受け取って、笑ってみせた。
『当然だよ、私が君の手を引かなければならないのだからね。君が私を見失うと困るだろう?』
書きながら、変だと思った。これではあべこべだと笑った。
おかしい。星を見ていたのは、眩しいと思っていたのは、いつだって、自分の方であった筈なのに。眩しいのは、彼女の方であった筈なのに。
この不思議な世界で、手を引いていたのは彼ではなく彼女であった筈なのに、今、自分はその事実を棚上げするかのように、君の手を引くのは私だと豪語している。
悉くおかしな二人だと思った。けれど何故か、仄甘い心地が彼を満たした。一人の狂気も二人の狂気も変わらないと思っていたのだが、どうやら、そうではなかったらしい。
そんな奇跡の共鳴が意味する「仄甘さ」以上のことに、やはり、この不器用な男が辿り着ける筈がなかったのだけれど。
少女は大きく頷き、ノートとペンを鞄に仕舞った。
その手はそのまま鞄の奥を更に探り、紫色のボールを取り出す。重力に任せるように手を離れ、落ちるように投げられたそのボールを、しかし遠くのギラティナは見ていたらしい。
この世界を割るかのような、鋭い咆哮を上げてこちらへと飛んでくる。思わず背中に少女を庇う。身体が鉛のように重くなる。
風が吹く。
2016.8.16