21 (7/6 20:00)

冷たい地面に倒れていた。背の低い草が彼の頬をくすぐる気配で目が覚めた。しかし、すぐには目を開けることができなかった。頭が割れるように痛いのだ。
風が木々をさわさわと揺らす音が聞こえた。僅かに頭を浮かせようとしたのだが、身体が鉛のように重かった。
木霊のように頭痛は少しずつ、少しずつ弱まり、やがて消えた。けれど身体の重さは取り除かれず、訝しみつつ目を開けた。
しかし辺りの様子を窺うことは不可能だった。何故なら、

「……」

夜が、降りていたからだ。

あの、昼か夜かと見紛うような仄暗さも、恐ろしい程の静寂も、やぶれた地面も、でたらめな重力も、上に落ちる水も、ここにはない。
戻ってきた、戻ってきたのだ。身体の鉛のような重さを忘れて彼は起き上がった。温度を取り戻し始めた彼の手は震えていた。

すぐ隣で倒れている少女の名を呼ぼうとして、しかしその喉が酷く掠れた、ひゅうという情けない息の音しか出せていないことに気付き、唖然とした。
……ああ、これでは声など出せない筈だ。たった4時間、4時間程度でこのようになってしまうのだ。あの子の喉が声を忘れたとして、それは至極当然のことだったのだ。
そう理解して、それでも自分まであの世界の余韻に飲まれてしまう訳にはいかないと気を持ち直して、音の出し方を思い出そうと努めた。
やがて少女が僅かに動き始めた頃、ようやく彼の音はこの世界に戻ってくる。

ヒカリ

絞り出すことの叶ったその音に、こちらを見ていた少女の目が、暗闇でも判る程に大きく見開かれた。
ゲンは困ったように笑って、肩を竦める。

「私も君のように、声の出し方を忘れてしまうところだったよ」

「……」

「身体が鉛のように重いね。この世界では立っているだけでも思いの外、力を使うらしい。それに此処は賑やかだね。風のざわめき、ポケモンの声、いろんな音が聞こえる。
ずっと静かだと思っていたけれど、この沈黙はあの破れた世界のように、私達の声を禁じるものではないんだね」

ゆっくりと、重い身体を叱咤して立ち上がった。まだ梅雨の明けていない夜の空気は少しばかり湿っている。頬を撫でる風はやはり冷たい。
上体を起こした少女に手を伸べれば、少しの躊躇いの後に握り返された。手は冷たい。解っていた。けれど人の、生き物の温度だった。そう思わせるに十分な何もかもが揃っていた。
あの世界に在った何もかもが此処にはなく、あの世界になかった何もかもが此処には在った。少女の目に星が降りているのは、ゲンの幻想によるものでは決してない。

「さあ、帰ろう。この世界では時間は止まってはくれないんだよ、ヒカリ

月は沈む、朝が来る。眠くなるし、お腹も空く。たとえ彼女のキーホルダーウォッチが壊れたままであったとしても、この世界の時は破れることなく流れ続けている。
彼女の手を強く引いた。笑いかけてから歩みを進めた。手は握ったままにしておいた。

此処が送りの泉であることを確認してから、確か南西に向かえば214番道路に出られた筈だと、4時間前の……いやこちらではほんの少し前の記憶を頼りに、暗闇を掻き分けた。
段差を見つけたので、何気なく地を蹴った。蹴ったところでしまったと思ったが、その後悔は2秒ほど遅かった。
咄嗟に少女の手を離そうと手を緩めたが、彼女の方が強く手を握って離さなかった。
当然のように彼の体重は少女のそれよりも重く、故に彼を支え切れなくなった彼女諸共、二人して草むらにころころと転がり落ちることとなった。

怪我をしていないかと窺うように顔を上げた少女は、しかし唖然とすることになる。
彼女の下敷きになり、草むらに埋もれるようにして落下した青年が突如、大声で笑い始めたのだ。
驚きと僅かな恐怖をもって彼の上から退き、もう一度窺うように顔を覗き込んだ。縋るようなその視線で我に返ったらしい彼は、それでも笑いながら口を開く。

「君があの橋から身を投げた理由がようやく解ったよ。君が何をしようとしていたのか、今ならちゃんと解るんだ。……あの橋から船着き場まで飛べると思ってしまったんだよね」

「……」

「私をあの世界へ連れて行ってくれてありがとう。きっと私はこれを知るために、君の傍に在ることを許してもらったのだろうと思うよ」

困ったように眉を下げながら、彼より一足先に立ち上がった少女は、今度は先程の彼がしていたようにその眼前へと手を伸べた。
小さすぎるその手を彼が取れば、当然のように引き上げられた。二人が立ち上がってもやはり手は解かぬまま、暗闇を静かに歩き続けた。
しばらく歩いたところで彼は再び笑った。

「ああ、やはり身体が重いね」

少女はその言葉にようやく、ふわりと風を起こすように笑った。

帰宅すると、少女の言葉通りのことが起きていた。家中の時計が狂っていたのだ。
リビングの時計も、ゲンの自室にある目覚まし時計も、少女の部屋の置時計も、全て4時間分、遅れている。テレビの左上に映る時刻さえも遅れている。
「大変だヒカリ、時計が全て狂っている!」と、大袈裟に叫んで駆け寄った。困ったように眉を下げる彼女に釣られて彼も笑った。
どういったトリックで為されたことであるか、解っていたからこそ、そうした大袈裟な冗談を彼女は笑って許してくれた。
家中の時計を4時間進めるのではなく、ゲンの腕時計のみ時刻を4時間遅らせれば、当然のようにその4時間は「なかったこと」になった。

その後、彼は少女の手を引いて、家中のあらゆるところを回った。
キッチンの蛇口を捻れば水は下に落ちた。階段に足をかけて一段ずつ上った。窓を開けて風が肌を撫でる感覚を味わった。どれだけ歩いても重力が変わらないことを確認した。
お腹が空いただろうと、冷蔵庫からプリンを二つ取り出した。行儀よく席に着いてスプーンをぎこちなく握った少女は、しかしその、甘く冷たいデザートをもう残さなかった。

『階段は一段ずつ降りなければいけないよ。踏み外したり飛び出したりすれば、硬い床に叩き付けられてしまうからね。』
『ものは下に落ちるんだよ。上に浮かび上がったり、右や左に飛んでいったりすることはないんだ。』
『人間は食べ物から力を貰って生きているから、ある程度食べておかないと、疲れやすくなったり、力が出なくなったりしてしまうよ。』

彼女の奇行が何に起因するものであるか分からなかった頃、彼はひたすらにこれらの言葉を言い聞かせていた。
解らないなりに、彼女がこの世界の常識を何処かに置き忘れてきているように見えたため、それらを再び教えることが、彼女の奇行を止めることに役立つと信じて疑わなかった。
けれどそれは少しだけ違ったのだろう。この幼く優しい子供に、理屈を解いて聞かせるだけでは、やはり決定的な何かが足りなかったのだろう。
その「何か」を、彼はこの失われた4時間で手に入れたのだ。そうだと信じていた。
彼の傲慢な確信を証明するかのように、少女は美味しそうにプリンを食べている。

「私は最初、君の言う「上に落ちる水の世界」は、君が見ている夢の中の出来事だと思っていたんだ。君はずっと夢を見ているのだと、だから私が覚まさなければいけないのだと」

『重力って、解るかい?ものは全て「下」に落ちるんだ。この世界はそんな風に出来ているんだよ。君はそうした世界で生きているんだよ。
君は確かに空を飛ぶことができるのかもしれない。けれどそれは君の夢の中の話だ。此処は現実なんだよ。夢はもう終わったんだ。』
かつての残酷な言葉を思い出しながら、彼はプラスチック製のスプーンで、空になったプリンの容器を突いて倒した。コトン、と軽く心地良い音が響いた。
その音は木霊になどならず、彼を責めることもなかった。

「でも、少し違ったね。全てのことが少しずつ違ったんだ。そのことに気付かせてくれたのはあの世界だ」

きっと彼女は今でもあの世界のことを恐ろしいと思っているのだろう。
何もかもが歪に破かれたあの世界に彼女は馴染み過ぎていたが、その馴染んでしまうまでの間には、ゲンがもう覗くことの叶わない、混乱と恐怖があったに違いない。
彼もまたあの世界を恐ろしいと思っている。けれど同時に感謝していた。あの世界が「夢」ではなかったからこそ、彼は何もかもを知ることが叶ったのだ。

少女は徐にスプーンを置き、鞄の中からノートを取り出して広げた。

『でもわたしは、ゆめでもいいとおもう。』

「おや、不思議なことを言うね」

『だってわたしとあなたが同じゆめを見られるなんて、すてきなことだとおもうから。』

成る程確かにそうだと彼は声を上げて笑った。少女は困ったように眉を下げつつ、その星の降りた目は三日月の形を取った。
今となってはもう誰も触れることの叶わないその4時間を、彼は決して忘れるまいと心に誓った。


2016.8.16

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