22 (7/7)

昨日は日付が変わる前に眠った筈であった。故に朝の7時に目が覚めると仮定すれば、最低でも7時間は眠っていることになる。
十分だと思ったし、それ以上の睡眠をゲンの意識は望んでいなかった。
しかし彼の意識は望んでいなかったとしても、彼の身体は休息を渇望していたらしい。
コン、コンという扉を叩く音で意識が浮上したゲンは、ベッド脇にある目覚まし時計を手に取り、その瞬間、さっと顔を青ざめさせた。
11時。遅すぎるし、眠り過ぎだ。10時間以上は軽く眠っている計算になる。
この世界ではなかったことにされたあの4時間は、しかしあの場所では感じなかった確かな疲労をゲンに与えていたようである。

ベッドから転がり落ちるように起床し、もつれる足を叱咤してドアへと駆けた。
勢い良く開ければ、ドアの前で待機していたらしい少女は驚いたように目を見開き、慌てて2歩程後ろへ下がって小さく頭を下げた。
困ったように下げられた眉のまま、「おこしてしまってごめんなさい」と書かれたノートをこちらに向けて差し出す。

「いや……、私こそ盛大に寝坊してしまって申し訳ない。お腹が空いただろう?すぐに朝食……という時間でもないね。昼食を用意するから待っていてくれないか」

その言葉に少女は首を振る。振って、そして次のページを捲る。

『ごはん、もう作ったよ。』

それはとても平易な言葉の並びであったにもかかわらず、ゲンはその一文の意味を理解するのに数秒を要した。
食事を作った?この少女が?
唖然とするゲンを見上げ、少女は「食べる?」と問うように口を動かした。勿論、音にはならない。いつものことだ。けれどゲンには聞こえる。彼女の言おうとしていることが、解る。

「……ああ、そうだね。それじゃあ貰おうか」

やっとのことでそう返せば、少女はその言葉を合図としていたかのように、くるりと踵を開けして、冷たい廊下をトントンと駆けていった。
軽快な、しっかりとした足取りで、転ぶことも、倒れることもせずに。
そんな彼女を追い掛ける彼の方が、彼の足の方がどうにも覚束なかった。
昨日の4時間を忘れられずにいたのは、この現実と切り離すことの難しさをこの上なく噛み締めていたのは、今に限っては寧ろ彼の方だったのだ。

けれど彼が廊下でひっくり返ろうとも倒れようとも、少女の細く小さな腕ではゲンを支えることも起こすこともできない。
だからこそ彼は反芻する。ここは「破れていない」世界なのだと。
時間は進み、重力があり、お腹も空くし疲れるし、眠くだってなる世界なのだと。
此処は音を出すことの許される、優しい静けさの漂う世界なのだと、そうした全てを言い聞かせて一歩を踏み出す。

蛇口を捻れば、当然のように冷たい水が上から下へと落ちた。世界の理に、慣れ過ぎたその理に悉く従順な水を、ゲンはその下に手をかざし、長く茫然と受け止めていた。
我に返った頃には手が驚く程に冷え切っていて、苦笑しながらその冷えた水を顔にも浴びせた。タオルを顔に当てれば、水は全てその布に引き取られた。

着替えてからリビングへと向かえば、丁度、少女がレタスとトマトのサラダを冷蔵庫から出しているところだった。
オレンジジュースも2つのグラスに入れられ、並べられている。ゲンのトーストにはバターが、少女のトーストには苺ジャムが塗られている。
料理、と呼ぶには些か簡単すぎる朝食の用意だった。そんなことはよくよく解っていた。
けれど、自分の食べるものはたとえインスタントラーメンであれどトーストであれど、自分で用意しなければならない、という毎日が当然であったゲンの目には、
目の前に出来立ての朝食が、それもゲンと少女のためだけに用意された朝食が仲良く二つ並んでいるという光景は、殊の外、感慨深いものとして映っていた。

「……うん、とても美味しそうだ。今日はレタスやトマトを作ってくれた人にではなく、この食事を作ってくれた君にこそ、いただきますと言わなければいけないね」

そう告げれば少女は、恣意的な瞬きをぱちぱちと繰り返した。
テーブルの脇に置かれていたノートとペンを手に取ってから、スラスラと書き付け始める。

『わたしは、ずっとそうだったよ。』

時が、この世界では決して止まる筈のない時が、止まった気がした。

『いただきます、はいろんな人に言うことばだってしっているけれど、でも、わたしはずっとあなたに言っていたよ。』

「……」

『きこえなかったかもしれないけれど、言っていたよ。』

ゲンは黙って頷いた。何度も何度も首を縦に振ってから、少女の小さな頭に手を置いた。
ああ、どうしてこんなことに気付かなかったのだろう。声がなくとも彼女の思いは届いているなどと、どうして思い上がることができたのだろう。
そんなものは幻想だ。自分は知らないことが多すぎる。だって私は、彼女のようやく形にすることの叶った饒舌な言葉に、こんなにも驚いている。

「うん、そうだね。君はいつも言っていたよね」

少女の口が、食事の度に「いただきます」の形を作っていたことを、ゲンはしっかりと覚えていた。
音などなくとも彼女の「いただきます」は確かに此処に在ったのに、彼はずっと、その挨拶が誰に向けられていたのか気付けていなかったのだ。
情けないと思った。不甲斐ない、と自分を責めた。
けれどそうした、彼に届かなかった挨拶の本当の意味を、こうして伝えてくれようとしている、その彼女の意思が何よりも嬉しかった。

「いただきます」

少女の目をしっかりと見据えて、ゲンは再び挨拶を紡ぐ。少女はその音を喜ぶかのように、目をすっと細めて頷く。
ごまドレッシングのかけられたレタスをフォークで突き刺し、口に運んでシャリシャリと音を立てる。
そのたった一口を、まるで遠くの出来事であるかのように茫然と楽しむ青年の姿がそこには在った。彼は深く俯いた。

解っている。このレタスのサラダと全く同じものを、二人は昨日も食べていたこと。冷蔵庫に残っていたレタスを、彼女は千切って透明な皿に盛り付けただけのものであること。
解っているけれど、美味しい。どうにも泣き出してしまいそうになる。笑うことがとても、とても難しい。

少女は慌てたように席を立ち、ぐるりとテーブルを回ってゲンの傍に駆け寄ると、ひゅう、と声にならない息の音を奏でなが矢継ぎ早に問い掛けた。
「どうしたの?」「美味しくなかった?」「大丈夫?」その口元を見ずとも、そう言っていることが分かっていたので、ゲンは顔を上げてぎこちなく笑った。
みっともない表情をしていることが解っていたし、今、何かしらの声を出したところで、その音はひどく頼りないものになるのだろうということだって心得ていた。
けれど、そうしたありのままの自分を見せることが、この少女への誠意になるように思えたからこそ、彼は時間を置かずに自らの想いを、不格好なままに告げることを選んだのだ。

「両親以外の誰かが、私のための料理を作ってくれたのは初めてだ」

「!」

「だからだよ。だから……泣きそうになっているんだ。君の作ってくれたサラダは美味しいよ。美味しすぎて、泣いてしまいそうな程に」

おどけたように肩を竦めれば、少女はいつもの瞬きすら忘れたかのように、その夜色の目を見開いたまま沈黙した。
長い静寂、あの破れた世界を思い出させるような無音の時間さえも、この少女とならもう、恐ろしくはなかった。
『貴方はあの子を忘れられるの?』
シロナの言葉がゲンの脳裏を過ぎる。忘れられない。忘れられる筈がない。

その、不思議な心地良さを持った沈黙は、しかし少女が次のページを捲る、乾いた紙の音によって遮られた。
『昨日、あなたが作ってくれたものと同じだよ。』そんな言葉に思わず声を上げて笑い出してしまったゲンに、少女は驚きながらも、もう狼狽えたりはしなかった。

「そうだね、同じだ。けれど美味しいんだよ。今まで食べてきたどんなものよりも、ずっと」

少女は小さく肩を震わせて笑った。
その声、その音を、聞こえずとも構わないとこれまで思えていたにもかかわらず、その瞬間、暴力的な衝動がゲンを襲った。

聞きたい。この少女の笑い声を聞きたい。君の音が空気を震わせる瞬間の、あの幸福な温度が、欲しい。そしてその音で君は私に別れを告げて、ここから去るべきだ。

君は、こんな寂しく狭量な人間である私のことなど忘れるべきだ。

ぐるぐると回るそうした思考をやわらかく咎めるように、少女は再びテーブルに着き、フォークをサラダの皿に差し入れた。カラン、という食器のぶつかる音がゲンの目を覚まさせた。
ゲンの一口よりもずっと小さく切り分けられたレタスが少女の口に運ばれる。彼女はそれをゆっくりと咀嚼して笑い、再びペンを取る。

『やっぱり、いつもと同じ味だよ。』

ヒカリ、君は上手く私を忘れることができるよね?どうか私の代わりに、私の分まで、忘れてほしい。


2016.8.23

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