16 (7/6 18:00)

2日後はあっという間にやって来て、二人は曇天の夕空の下へと足を運んだ。
おそらくは彼も少女も緊張していた、恐れていた。二人でなければ、きっとこのような勇敢で無謀な挑戦などできなかった。

コートのポケットからボーマンダを繰り出せば、少女の目が驚きに見開かれた。
「このポケモンを見るのは初めてかい?」と尋ねれば、少女はボーマンダに向けた視線を逸らさないままに大きく頷く。

「ボーマンダというんだ。タツベイというポケモンが2回進化した姿だよ。……そう言えば君はポケモン図鑑を持っていたよね。登録しておいてはどうかな」

しかし少女は視線をゲンの方へと向け、困ったようにその小さな眉を下げてから首を振った。
彼女がこれまで見たことのなかったポケモンが、彼女のポケモン図鑑に登録されている筈がない。
故に彼女が示した拒絶の意思は些か不可解なものに思われたが、ノートにスラスラと書かれた事実が、その理由を克明に示してくれた。

『ポケモンずかん、こわれちゃったから。』

ポケモン図鑑はかなりハイテクな電子機器であるが、それ故に電力をハイスピードで使用する。
継続的に使用するためには定期的な充電が必要となる筈だが、共に暮らし始めてから、彼女が図鑑を充電しているところを見たことがなかった。
単純に、この家での生活だけでは新たなポケモンに出会う機会がないからだろうと思っていたが、まさか故障しているとは思わなかった。

『ポケギアも、ずかんも、時計も、みんなこわれて使えないの。』

彼女の持つ全ての機械は壊れていた。動かなくなっていたのは、お気に入りのキーホルダーウォッチに限ったことではなかったのだ。
それが極めて不自然なことくらい解っていた。けれどその理由を尋ねるには、陽はあまりにも傾き始めていたから、ゲンは小さく相槌を打つだけに留めておいた。
曇天の中でも、西の空は淡く赤い色を放っていた。長い梅雨もそろそろ終盤に差し掛かっているのかもしれなかった。

ボーマンダに少女を乗せ、自分もその背後で彼女が落ちないようしっかりと支えてから、己のポケモンに指示を出した。
『214番道路に飛んで』という彼女の文字に従い、ボーマンダは陽の沈みかけたシンオウ地方を横断した。
強すぎる風が華奢な彼女の呼吸を奪ってしまわないかと少しばかり心配になったが、彼女の肩を支える彼の手は、しっかりと彼女の呼吸のリズムを拾い上げていた。
ボーマンダに乗って空を飛ぶ間、ゲンは一言も言葉を発しなかった。少女も、当然のことながら何も言わなかった。不思議な緊張感が曇天の夕暮れに揺蕩っていた。

214番道路に降りたゲンは、ボーマンダに労いの言葉をかけてからボールへと仕舞った。
するとその動作が終わるのを待っていたかのように、少女はノートを持っていない方の手をこちらに伸べてきたのだ。
「どうしたんだい」と尋ねても、彼女の手は引っ込められることなくこちらに向けられ続けている。
彼女の求めているものに思い至るまでに数秒を要した。そうだった、と笑いながら己の手を伸べれば、そっと、割れ物に触れるかのように僅かな力で握り返された。

『わたしが、あなたの手を引くんだよ。』

あの言葉通り、彼女はゲンの手を引いて、ゲンの一歩前を歩いた。左手にノートを握り、右手は彼の手を握り、少女は淀みない歩幅で214番道路を進んでいた。
やがてその足は214番道路の脇にあった小さな、細い獣道のようなところへと分け入った。東へと進むにつれて、夜の暗さは少しずつ増していった。

「この先に、その世界があるのかい?」

そう尋ねれば、少女は足を止めてこちらを振り返り、手を離した。
空いた右手でポケットからいつものペンを取り出し、左手のノートを開いてスラスラと、見慣れない地名を書き記していく。

『ここはかくれいずみへの道。ずっと歩くと、おくりのいずみが見えてくる。そのおくに、もどりのどうくつ。あとはまっすぐ行けば、だいじょうぶ。』

隠れ泉への道、送りの泉、戻りの洞窟……。
シンオウ地方で暮らした年月は、少女よりもゲンの方が遥かに長い筈であるが、そんな彼が聞いたことさえない場所を、
この少女はまるで自分の庭であるかのように、迷うことなく堂々と歩き続けていた。
彼女はペンをノートのページに挟み、右手でゲンの手を取ってから再び同じ方角へと歩き始める。

小さく華奢である筈のその背中は、しかし彼にあの頃の少女を思い出させた。
エンペルトやレントラーに適切な指示を出し、洞窟に現れる野生ポケモンに悉く勝利していったあの背中。
「私がお兄さんを守ってあげる」という言葉を、余裕さえ見せる笑顔のままに真実へと変えたあの背中。
そうだ、彼女は本来そうした子だったのだ。彼が手を引くことなど、彼が守ることなどおこがましいような、そうした、強く優しい子だったのだ。
虚ろな目をした彼女と長い時間を過ごしたせいで、忘れそうになっていた。あの頃と比べると、今の彼女の所作は随分と頼もしく、そして鮮やかだった。

「……」

この少女はもう、雨が下に降ることを知っている。
翼を持たない人間が空を飛べる筈がないことも、食事を摂らなければ身体に力が入らないことも知っている。
そして何より、彼女の目はもう虚ろではない。

けれど、今から向かおうとしている場所は、彼女が大粒の涙を零しながら向かうことを拒否したこの場所は、そうした彼女の何もかもを奪うだけの強烈な力を持っているのだ。
「不思議な世界」の確固たる情報はまだ何も手に入ってはいなかったが、そうした漠然とした予感が彼の中には既にあった。

彼女は、彼女の目の光や、この世界での常識や、その陽気で快活な声さえも、呆気なく奪い取ってしまった場所に、ゲンを連れて向かおうとしている。
一度は強く拒んだその場所へ足を運ぶことを、ゲンがそう望んだからこそ決意して、こうして向かってくれている。
そこへ向かうことが、彼女の奪われたものを知り、そしてその何もかもを取り戻すために、必要なことであると信じていたからこそ、彼は「連れて行ってほしい」と頼んだのだ。
けれど、これは本当に正しいことなのだろうか?そうした不安がゲンの頭をもたげた。徐々に足元へと下りてきた夜の暗さがその漠然とした不安を煽った。

彼女はまた、下に落ちる水のことを忘れてしまうのではないか?
自分は焦り過ぎていたのではないか?まだ早すぎたのではないか?

……けれど、早すぎたとしても、焦っていたのだとしても、それでも、二人はここまで来てしまった。
男の懇願を少女は聞き入れてくれた。少女に取って何よりも恐ろしいところへと、彼の手を引いて連れて行こうとしてくれた。
もう、戻れない。

「私は、君の言う「不思議な世界」を知らないから、君に手を引かれるより他にないのだけれど、」

少女は足を止めて、男の方を振り返った。その目に星が降りているのかどうかも分からない程に、夜の闇は彼女の首元をも浸し始めていた。

「それでも、君を守るのは私だよ。君がこれ以上、何も失うことのないように、守ってみせる」

彼女にだけではない、それはもっと大きなものに対する誓いだった。彼女が恐れているもの全てに対する、そして、彼女を恐れている全てに対する誓いであったのだ。
彼はこの子を守らなければならなかった。これまで彼女と過ごしたあの時間にかけて、彼女のために紡いだ全ての音にかけて、自分の想いにかけて、必ず。
……そして、きっと守るだけではいけない。彼女の「声」を探さなければ。

私達は、今から向かおうとしている不思議な場所から、逆に奪い返して来なければならない。
そのためなら何だってしよう、できることがないなら一緒に考えよう。だって、そう約束したものね。

声に出さず語られたその言葉を、しかし彼女は音の形ではなく、もっと別の何かとして拾い上げたらしい。男の手を握る力が僅かに弱まった。
小さく、本当に小さく息が吐かれた。消え入りそうなその呼吸は、安堵の音をも、呆れの音をも含んでいるように思われた。
おおよそ10歳の子供が吐く息とはかけ離れ過ぎているその大人びた音に彼が息を飲むのと、少女が再び歩き始めるのとが同時だった。

しばらく歩くと、雲間から覗いている筈の月が2つ見えた。一つは水の上で静かに凪いでおり、ああ、ここが「送りの泉」であるのだと察することができた。
彼女の足取りには一切の迷いがなく、この暗闇の中でも進むべき道が、一筋の光となって見えているかのように、均一な歩幅を保って奥へ奥へと進んだ。
勿論、その光はゲンには見えない。少女しか分け入ることの許されていない場所に、今、自分は彼女の導きで向かおうとしているのだと、改めて認識すれば背を冷たいものが走った。

洞窟の中は冷たい空気が流れていた。不思議なことに、松明もライトもないこの空間は、しかし夜よりも僅かに明るかった。
開けた空間には、二人が入って来た入り口を含めて四方に4つの通路がある。
何が待ち受けているのかと彼は一瞬怯んだが、少女は何ら臆することなく彼の手を引き、真っ直ぐ奥の通路へと足を運んだ。
通路を抜ければ、またしても同じ空間が広がっていた。迷路のような造りをしていることに気付き、迷って出られなくなることを想定して彼は益々青ざめる。
しかし彼女には、この迷路のような空間の「正しい道」が見えているらしい。この空間をまた奥へ、更に奥へと進む。

3回、同じ空間を経て、またしても真っ直ぐ進んだ二人の前に「それ」は現れた。
渦を巻く闇の向こうは全く見えないが、そこに何か、果てなく広がるものがあるということだけは、彼にも確信することができた。
彼女は小さく息を吐き、ぱっと彼の手を離したかと思うと、そのままノートを広げてスラスラと残酷な一文を綴る。

『こわくなったり、あぶなくなったりしたら、わたしを捨ててにげてもいいよ。』

顔を青ざめさせたまま、ゲンは声を荒げて言い返そうとした。しかしそれは叶わなかった。
少女がノートを仕舞ったその手を更に鞄の奥へと差し入れ、あのボールを取り出したからだ。
ガムテープでぐるぐる巻きにされたこのボールの中で眠るポケモンの正体を、ゲンはおぼろげに察し始めていた。


2016.8.14

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