雨はしとしとと降り続いていたものの、風は極めて弱く、土を濡らしていたその水はもう窓ガラスを叩かなくなっていた。
これくらいの雨なら運航に支障はないだろうと、船頭の方からこの家に「船を出そうか?」と連絡を入れてくれた。
ゲンは少し、いやかなり迷っていた。彼女を再び外に連れ出して、前のような悲惨なことが起きてしまうことを恐れていたのだ。
それは当然の心理だったのだろう。彼が責められるべきいわれなどない。
しかし彼はあの場に居合わせた人間として、彼女をもっと早くに止められなかったことをあれからずっと悔やんでいたのだ。
彼に「貴方のせいではない」と告げてくれる人はいない。故に彼は彼の後悔と自責を、彼の中だけで処理しなければいけなかったのだ。
そして、その作業にはもう少し長い時間を要する筈であった。
「……お願いしよう。いつでも来てくれて構わない。準備しておくよ」
しかしそうした心理に反して彼の口は、外出の意を示す音を紡いでしまった。
それは他でもない、彼の隣で鞄を抱えていた少女が、彼を見上げて小さく頷いたからであった。それ以上の理由などある筈もなかった。
彼女が外に出たいと、町に行きたいと言っている。外に出て酷い目に遭った彼女は、しかしもう一度外の空気を吸うことを望んでいる。
その意思を無視して彼女をこの家に閉じ込めることは人倫に悖るし、何より彼女の小さな頷きが、ゲンに「大丈夫」と言っているように思われたのだ。
だから彼は了承の意を告げてしまった。自分ではなく、少女を信じたが故の言動だった。
30分後に船を寄越すと告げて電話は切れる。ゲンは振り返り、鞄を抱えた少女に笑いかけた。
「船が来てくれるようだ。ミオシティに買い物に行こう」
彼女はすぐに頷き、コートを取りに自室へと駆け出した。ゲンは息を飲んだ。
ふらふらと宙に足を掬い取られてしまいそうな覚束なさで歩を進めていた彼女らしくない、あまりにもしっかりしたその足取りが、1か月前のあの子に重なった。
あの子、を思い出して思わず目を細めた。笑いたくなって肩を震わせた。
すぐに戻ってきた少女はゲンを見上げて不思議そうに首を傾げた。なんでもないよと告げながら、しかし笑わずにはいられなかった。
この虚ろな目をした少女と過ごした時間は、いつの間にか、「あの子」と過ごした数日間を大きく上回っていた。
最早「あの子」を記憶から引っ張り出すことは困難だった。それ程に長く、自分はこの少女と共に在ったのだと、認めれば混沌とした仄甘い何かが胸を満たした。
玄関で靴を履き、ドアを開ける前に振り返り、少女に手を伸べて「手を繋ごうか」と提案した。
彼女は長い逡巡の後でそっと握り返した。何の確証もないが、こうしていればきっと大丈夫だと思えた。
「これで君と私は一心同体だ。君が海に落ちる時は私も一緒だよ」
「……」
「もっとも、その前に私がちゃんと引っ張り上げてみせるさ」
おどけたように言葉を紡いで笑った。
そうした「楽しげな表情」を作れる程の心理的な余裕を自分が持ち合わせていることにゲンは少しばかり驚いたが、
彼の笑みに釣られたように、少女の虚ろな目が三日月形に細められたのを見て、そうした驚きなどなかったことにされてしまった。
この瞬間の彼にとっては、自分のことなどどうだってよかったのだ。
*
ミオシティのデパートに足を踏み入れた。
食品売り場は勿論のこと、家具売り場や衣服のコーナーなども充実しており、ここで大抵のものは揃うのではないかと思わせるだけの便利な空間が広がっていた。
野菜や液体の類は重いということを前回の買い物で思い知っていたため、先ずは衣服の類を買うべきだと判断し、2階へと向かった。
「好きなものを選ぶといいよ」
そう告げて彼は彼女の手を離し、代わりにその後ろをしっかりと付いて回った。
コートや帽子が白やピンクのものであったため、そうした明るい色のものが好きなのかと思っていたのだが、彼女が手に取る衣服にはそうした統一性が全くなかった。
ライトグリーンのパジャマ、黒のリボンブラウス、オレンジのワンピースにワインレッドのフレアスカート、白いセーター……。
とにかくあらゆる色を手に取っては、迷うことなく買い物カゴに加えていた。
レジにて会計を済ませたが、その衣服の量に反して値段は驚く程に安かった。
この店が安さを売りにしているのか、それとも彼女が気を遣って安いものだけを選んだのか。少しだけ迷ったが、ゲンは詮索しないことにした。
爽やかな桜色のカーテンと、茶色とクリーム色の縞模様が特徴的なカーペットを購入して、これは後日、鋼鉄島の家に郵送してもらうことにした。
いよいよ食品売り場に足を踏み入れたのだが、作る料理が決まらなければ野菜を選びようがない。
「何か食べたいものはあるかな?」と尋ねれば、彼女は予め用意していたらしく、鞄からノートを取り出してこちらに掲げてみせた。
『シチュー』
ゲンは思わず心の中でガッツポーズをした。
それは「彼女が食べたいものを告げてくれたことに対する歓喜」と「カレーを作れたのだからシチューはもっと手際よく作れる筈だという安堵」を示すガッツポーズであった。
「任せてくれ、美味しく作ってみせるよ」
得意気に胸を張り、そう告げて野菜のコーナーへと赴く。
ニンジンにジャガイモ、玉ねぎまでをカゴに入れたところで、同じ野菜ばかりでは栄養が偏るかもしれないと思い至り、朝食のサラダ用にレタスとトマトを手に取った。
グリーンピースをシチューに入れてみようかと手を伸べれば、しかしその手が寸でのところで少女に遮られてしまった。
「どうしたんだい?」と尋ねても彼女は首を振るだけで答えない。
しかし考え込むより先に降ってきた一つの可能性があまりにも微笑ましいものであったため、彼はその手をそっと退けてグリーンピースを手に取った。
「好き嫌いをしてはいけないよ、ヒカリ」
困ったように眉を下げるその姿はまさしく「子供」のそれであった。ただそれだけの、当然のことに笑いながらゲンは彼女の頭を撫でた。
買い物の続きを促すように告げて手を伸べれば、彼女はこれまでで一番強い力でゲンの手を握った。
彼女の目はまだ星を映さない。彼女の足取りはまだ少しばかりぎこちない。
それでも今の彼女と1週間前の彼女とは全く別の姿をしていた。1か月前の彼女の面影とも大きく異なっていた。
人は変わっていく。幼い子供は特にその変化が顕著である。瞬きをしたその次にはもう、以前の彼女はそこにはいない。
そんな当然の変化、刹那に変わるその姿が、しかし大人になってしまったゲンにはひどく眩しかった。この眩しさだけは、1か月前の彼女に見出したそれと全く、変わらない。
*
購入したカーペットやカーテンの類は、昼過ぎに鋼鉄島へと届けられた。
ルカリオと協力してそれらを彼女の自室へと運びこみ、カーペットを広げて部屋の中央に敷いた。
外したカーテンを少女に「持っていてくれないか」と軽い気持ちで渡したのだが、彼女にとっては布製のカーテンというのは殊の外重い代物であったらしく、
しかしカーテンを抱える手は決して離さないまま、ペタンと敷いたばかりのカーペットに座り込んでしまった。
ごめんよ、と謝りながらカーテンを取り上げる。大の男にとってはただの布だが、彼女にとっては鉛のような重さに感じられたのだろう。
古いカーテンを部屋の隅に転がし、窓に新しいカーテンを付けている間、少女は座り込んだ体制のままに、両手をカーペットの上に滑らせていた。
しばらく静かにそうしていたのだが、窓から雨音が聞こえ始めると、彼女は俄かに立ち上がり、こちらへと歩み寄って来た。
どうしたんだいと尋ねるより先に、少女は窓へと手を掛けて勢い良く開け放った。
降り始めたばかりの雨はまだ弱く、霧のように細いものであったため、彼女が手を伸ばしても雨に降れることはできない。それでも彼女は窓を閉めなかった。
窓に手を掛けて、曇天の空をじっと見つめていた。
以前のゲンならその行為を気味悪く思ったのだろう。
雨という、日常に当然の如く染みついたその現象を、まるで奇跡であるかのように凝視する彼女に、恐ろしささえ抱いたのかもしれなかった。
けれど今の彼はそうしない。代わりに彼女のそうした行為に倣うように窓へと手を掛け、ただ沈黙する。
雨音だけが響くこの空間に敷かれた「静寂」のルール、それを守るようにただ、何も言わずに空を見上げている。
雨音が徐々に大きくなり、地面を乱暴に叩くようになるまで、二人はそうしていた。
いよいよ雨が激しく降り始めると、少女はこの間と同じように手を伸べた。小さな掌に叩き付ける雨を、服の袖が吸い込んで僅かに色を変えた。
隣で彼も同じように手を伸べれば、彼の大きな手にも容赦なく雨は降り注いできた。冷たい、と思ったが、手を引っ込めることはしなかった。
手を引くときは、どうせならこの少女と同じタイミングで引こう、などと、彼は当然のようにそう思ったのだ。
「冷たいだろう?」
少女は頷く。
これはそういうものなのだと、告げる代わりに微笑んだ。少女は不思議そうに男を見上げていた。
雨は祈るように降っていた。
2016.6.24