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あれから男は、一度も外に出なかった。少女を外に連れ出した矢先のあの衝撃的な出来事が、彼を臆病にしていたのだろう。
また彼女を外に連れ出して大変なことになってしまったら、今度こそ、自分の心は折れてしまうかもしれないと思っていたのだろう。
幸いにも、そうしたゲンの恐れに建前を与えるかのように、次の日からまた激しく雨が降り始めていた。
窓ガラスを叩く雨をカーテンの隙間から眺めた。外の景色を彼女に見せることすら、今の彼には恐ろしくてできなかったのだ。

そうして2日間、一歩も外に出ずに過ごした。彼女を傷付けないように、彼女が傷付かないように、ただ静かに、あまりにも穏やかに時を流した。
明日はシロナが彼女を迎えに来る日だ。

「ごめんなさい」と彼女は深く頭を下げた。彼女の美しいブロンドは、重力に従ってサラサラとその肩から零れ落ちた。
少女が此処に入れば、その「下に落ちる髪」を見て首を傾げたのだろうか。今は自室にいるのであろう、あの静かな女の子をゲンは思った。
両手を強く握り締め、彼は動いた。

「貴方には荷が重過ぎることだと分かっていたわ。大変な役目を押し付けてしまって、本当にごめんなさい」

長い沈黙の後で彼女は恐る恐るといった風に顔を上げた。そして息を飲んだ。
何故なら彼女の開けた視界の目の前で、たった今彼女が頭を下げた相手である筈の彼が、逆に頭を下げていたからだ。
シロナは彼の行動の意図を読むことができずに沈黙した。ゲンはその沈黙に乗ずるようにやや早口で、急かすように、請うように告げた。

「申し訳なく思ってくれるのなら、まだ彼女を連れて行かないでくれ」

それは、彼が口にするべき文句とは真逆の様相を呈していたのだろう。
1週間はもう過ぎた。この青年があの子と共に生活しなければならない道理など、あのような重荷を背負わなければならない理由など、もう何処にもない。
彼から重すぎるその責務を引き取るためにやってきた筈のシロナは、しかし彼女を引き取るための手を拒まれたことに驚き、そして困惑した。

「ど、どうして?貴方も疲れたでしょう?」

「そうだよ、私は疲れた。でもあの子はそれ以上に苦しんでいる。私はあの子を忘れていつもの、これまで通りの暮らしに戻ることなど、できない」

ゲンは器用な人間ではなかった。少女の声を取り戻す術など、持っている筈がなかった。
彼は一人で気ままに生きることを好む、少しばかり偏屈な、ただの青年にすぎない筈だったのだ。シロナも彼をそのように認識していた。
けれどその認識よりもずっと彼は不器用だったのだろう。彼はあの子との1週間をなかったことにして、以前の日常に戻ることなどできなかったのだろう。
彼はあの少女の虚ろな目を忘れてしまえる程に、器用な人間ではなかったのだろう。

だって、やっと、笑ってくれるようになったのだ。

「あの子が私のところにいたくないと言うのなら、潔く諦めるしかないのだけれどね。
……実を言うと、まだ、あの子と今後のことに付いて話をすることができていないんだ。2日前に手を怪我してしまってから、ペンを持てずにいるから」

「ちょっと待って、あの子と話をしているの?」

驚いたようにそう尋ねた彼女は、信じられないものを見るように、瞬きすら忘れて真っ直ぐにゲンを見つめていた。
彼女が「何」に驚いているのか把握できないまま、彼は尋ねられた言葉の答えを返すために、「筆談だよ、声はまだ出ていない」とだけ紡いだ。シロナの目が益々見開かれた。

「何故?」

「何故って、そうしないと彼女の言葉が分からないじゃないか」

彼女は放心したように肩の力をストンと抜いた。ソファを僅かに軋ませて深く凭れ掛かるように座った彼女は、くたりと眉を下げて困ったように微笑んだ。
「あたしは渡さなかった」と絞り出すように、泣き出しそうな声音で紡がれたその音に、今度はゲンが目を見開く番だった。
彼女はそのまま顔を隠すように伏せ、「渡せなかったの」と訂正し、続けた。

「だって声が出ていなかったんだもの。話したいことがあるなら声を出す筈だって、心が声を枯らしたのは言いたくないことがあるからだって思っていたんだもの。
だからあたしはあの子に言葉を求めなかった。言葉を形にする手段を与えなかった。……いいえ、与えられなかったの。怖かった、だから腫れ物に触るようにあの子に接していた」

酷い女でしょう、と付け足すその声は震えていた。ゲンは瞬きを繰り返し、恣意的に視界を区切りながら、彼女にノートとペンを渡した日のことを思い出していた。
あの子はノートとペンを差し出されたことに驚いていた。虚ろな目は確かに見開かれていた。
これまで誰も、彼女にノートを渡して来なかったのだと、知ればあの驚きにも説明が付く。
彼女のぎこちない字で紡がれた「よろしくおねがいします」というたった一言、あれは彼女にとって、どれほど久しい「言葉」だったのだろうと、
そう思えばくらくらと強い眩暈が、けれどもうこの1週間ですっかり慣れてしまった眩暈が彼を襲った。

「貴方はあたしより、ずっと勇敢なのね」

彼女にノートとペンを差し出して言葉を求めたことを「勇敢」とするのであるならば、確かに彼は勇敢だったのだろう。
けれど自らのことを総合的に見て、そうした評価を下し得る筈がないと確信していたゲンは「そんなことはないよ」と苦笑しながら柔らかく否定した。
君が慎重だっただけの話だ、きっと私は無謀だったのだと、そう紡ごうとして息を飲んだ。顔を上げた彼女は「泣き出しそう」などではなく、本当に泣いていたからだ。

「あたしもできる限り此処に来る。もう逃げない。ちゃんとあの子と向き合うわ。だからお願い、一緒に……」

続きを嗚咽が飲み込んだ。彼女は子供のように何度も何度も両手で目元を拭った。
泣き腫らして赤く腫れた目がその隙間から覗く。赤い目の下には、まだ色濃く隈が残されていた。

荷物を纏めて現れたヒカリに、シロナは再び泣きそうに笑って彼女を強く抱き締めた。
「ゲンのことが嫌い?」「ここでの暮らしは嫌だった?」と尋ね、そのどちらともにはっきりと首を振ったことを確認した後に、彼女はヒカリを置いて出ていった。
呆然と立ち尽くすヒカリの肩を叩き、「夕食にしようか」と声を掛ければ、彼女は幾度も瞬きをした後で、ノートを開いた。
一番新しいページには、おそらくこの家を去る直前に見せるつもりであったのだろう、『おせわになりました。』の文字が、子供らしいぎこちなさを持ってそこに佇んでいた。
その真横に、青いインクが別の文字を綴る。

『まだここにいていいの?』

その言葉にどう答えていいか解らずに、ゲンは玄関に膝を折った。
勿論だよと、そう告げるだけではあまりにも足りない気がして、彼女の見開かれた目を覗き込みながら、そこに音を刻み込むように言葉を紡いだ。

ヒカリ、私はね、君と1週間だけ一緒に暮らすつもりだったんだ。理由は他でもない、シロナが私にくれた期間が1週間だったからだ。
それ以上の期間を私は全く想定していなかった。私には、何もしてあげることもできないだろうって、思っていたから」

ゲンは1週間前のあの日を思い出していた。久し振りに見つけたその小さな身体が海へと投げられたあの日、虚ろな恐ろしい目が自分を見上げたあの日。

最初、シロナが私に頭を下げてきたとき、厄介なことになったと内心うんざりしていた。君が何処かに置き忘れていた声を、私が取り戻すことなどできやしないと思っていた。
以前の面影を殆ど残していない今の君の姿を、不気味だと、空恐ろしいと思ったことだって何度もあった。
1週間、何事もなく終わってくれるだろうかと、頼むからおかしなことをしないでくれと、最初のうちはそんなことばかり、考えていたんだ。
そして、その1週間がようやく終わった。

「でも、私は今日の夜も、明日の朝も、二人分の食事を作ることにしたよ」

けれどおかしなことに、私は君を追い出すことができなかった。
これは君への愛情が故だろうか、それともこうした君を一度引き取ってしまったという義務感からだろうか、あるいは虚ろな目をした君への同情心に過ぎないのだろうか。
解らない、君のことも解らないけれど、私は自分のことすらも解らないんだ。私はそうした、どうしようもない男なんだ。
それでも君を助けたい。できることを見つけたい。その思いに嘘はない。

「私にできることは何もないのかもしれない。けれど私は君に何かしてあげられると信じて、それをこれから探していこうと思う。
その「何か」を見つけることができたなら、私は私の限りを尽くして君を引き上げてみせる。君のためではないんだ。これはきっと私のためなんだ。
だから、ヒカリ。……君は此処で暮らすことが嫌になるまで、私のことを嫌いになるまで、いつまでだって此処に、私と一緒にいていいんだよ」

長い、長すぎる沈黙の後で、彼女は口を開いた。声を出そうとしていたのだ。
しかし、ひゅうとか細く吐き出される息はいつものように音を奏でなかった。けれど何度もその形を取る口が、何を言わんとしているのか解らない筈がなかった。
それはあまりにも簡単で単純な、けれど決して忘れることのできない一言だったからだ。
何度もそう繰り返す少女を抱き締めた。聞こえているよと告げれば、静かな空間を少女の嗚咽が埋めた。

『ありがとう。』

音などなくとも彼女の想いは確かに聞こえていた。

翌日もゲンは7時に目を覚ます。「いつも」のことだ。6時に目が覚めていた1週間以上前の自分のことを、彼はもう「いつも」と指すことができなくなってしまっていた。
1週間が経過したとはいえ、今までずっと一人で気ままに暮らしていたこの空間に赤の他人が、それも彼よりもずっと幼い子供が加わることへの違和感と緊張感は未だ、拭えない。
故に疲労するのは当然のことだと分かっていたから、彼はもう常習化した寝坊に落ち込むことはしなかった。

服を着替え、身支度を整えてから部屋を出た。廊下を歩く彼の足音は、おそらくもう目覚めている筈の少女の耳にも聞こえている。
そう心得ていたから彼はドアをノックしない。彼女が先にドアを開けてくれると、解っているから彼は薄暗い廊下で少女を待っている。
少しだけ開いたドア、その隙間から覗く重たげな目に「おはよう」と同じ挨拶を告げれば、彼女は新しいページをこちらに掲げてくれる。

『おはよう。』

彼等の朝はこうして始まる。今はそれがただ、嬉しいと思えた。


2016.6.22

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