「貴方でも、そんな人の器を超えたものを望む時があるんですね、シアさん」
プラズマフリゲートの甲板には、強い潮風が吹き付けていた。
彼は手際よく全てのポケモンに傷薬を与えながら、私の話を規則正しい相槌と共に聞いていてくれた。
彼はバトルで疲弊した私のポケモン達の分まで傷薬を用意していてくれたらしく、「これを使ってください」と言って、薬が入っているらしい小箱をこちらに投げてくれた。
こんなに沢山受け取れません、などということは受け取る前に発するべき言葉であり、
つまるところ、私は彼の善意を押し返すだけの言葉を持たないままに、ありがとうございます、という弱々しい言葉と共に、その中身を取り出すより他になかったのだ。
「順調に彼と仲良くしているようで、安心しました。あれから一度も姿を見せてくださらないので、心配していたのですよ?」
あれから、というのは、ヒウンシティで一緒にアイスを食べたあの日のことを指しているのだろう。
あの町で私の愚行を彼に窘められて以来、私はプラズマフリゲートへ足を運ぶことができていなかった。
お世話になったこの人との会話を避け続けていた一番の理由としては、やはり心の何処かで「私はこの人に見限られた」という絶望がくすぶっていたからだろう。
あれ程厳しく忠告されていたのに、彼に文字を教えることを咎められていたのに、それを私はばっさりと切り捨てたのだ。
彼に呆れられても仕方のないことだと諦めていた。……諦めていたけれどやはり彼に裁かれることの恐れはどうしようもなく、私はこの場所を徹底的に避けていたのだ。
「実のところ、わたくしは全く気にしていませんよ。寧ろそれを貴方が気に病んで、此処を訪れてくれなくなったことの方が、わたくしには少々、堪えました」
「す、すみません」
「ふふ、もうわたくしとバトルはして頂けないのですか?」
「そんなことありません!私でよければ、いつだって相手をします」
彼は心から安堵したように、その金色の目を細めて「よかった」と笑ってくれた。この人はいつだって、どこまでも優しい。
そうして私は、もう二度と許されなかった筈の相手と、背を向け合って互いのポケモンの傷を治していく。
この傷薬の箱はいつから用意されていたのだろうと、考えれば罪悪感で息が詰まりそうになった。
「ところでシアさん、「もどかしい」という言葉の本当の意味を知っていますか?」
「え!?」
「……おや、どうしたのです?」
取り落とした傷薬を拾うことすらせずに振り返れば、彼は至極楽しそうに笑っていた。
何故、……何故この人が今、その単語を口にするのだろう。考えられる理由など一つしかなかった。私より先に、この船を訪れた人間がいたのだ。
呆気に取られたように沈黙する私を楽しむように、彼はすらすらと流暢に、まるで初めから用意していたかのように、一度誰かに同じことを告げていたかのように、言葉を連ねる。
「もどかしいという形容詞は、どうやら「もどく」という動詞から派生した言葉であるようです。今では聞き慣れない動詞ですが、一昔前には普通に使われていたようですね」
「……」
「この「もどく」ですが、「逆らって非難する」「従わずに背く」などの意味として用いられていたようです。
そこから転じて「気に食わないことに対して苛立つ」という意味が加わり、今の形になったとされています。
「もどかしい」は謀反を表す言葉だったのですよ、シアさん」
知らない。そんな難しいことを私が知る筈がない。彼だって勿論、知らない筈だ。もどかしい、にそのような深い意味があったことなんて、きっと偶然の一致に過ぎないのだ。
けれどこの人はその「偶然」に意味を与えようとしている。そして私の記憶には、その「偶然」をもっと強い、運命めいた何かに言い換えるだけの何もかもが揃っている。
彼が「もどかしい」のは、ようやく手にすることの叶った自由による当然の産物なのだと、
私が「もどかしい」のは、彼を縛り付けた何もかもに対する謀反の心が生じさせたものなのだと、
まるでその単語こそが、私達の間に降りた自由の証明であるかのように、彼は紡いで優しく笑う。
……この人の語る難しい言葉を、彼はどのように解釈したのだろう。
「またいつでもいらっしゃい、シアさん。
一人や二人では紐解けない言葉も、三人で考えればそこに意味を見ることだってできるかもしれません。今日のように」
「……でも、」
「勿論、ただ単に遊びに来てくださるだけでも構いません、歓迎しますよ。わたくしは貴方をこの船へ導いてしまった者として、貴方の行方を見届けてみたいのです」
鮮やかに私の荷物を奪い取った彼は、私の方へと歩み寄り、私が取り落とした傷薬を拾い上げて手に握らせてくれた。
空いた手で私を立ち上がらせ、背中を強く押す。促されていることが解っていたから、私はクロバットの入ったボールを高く宙に投げる。
*
『私はずっともどかしかった。』
彼には誤解されているかもしれないけれど、私はあの時、彼の口から「もどかしい」という単語が出てきたことが悲しくて泣いていた訳では決してないのだ。
私はあの後、こう続けるべきだったのだ。「私だってもどかしかった」と。「今だってずっともどかしい」と。
同じ景色を見ていても、抱く気持ちや感想は人によって異なる。当然のこと、悲しむべきではないことだ。
けれどどんなに長く彼の隣に立っても、どんなに多くの景色を共有しても、どんなに美味しいものを食べても、結局のところ、彼と私の間には大きすぎる溝があるのだと、
もどかしいのが当たり前なのだと、そう思うのは私だけでいいのだと、諦めていた。だって彼は今まで文字を、自由を、選択を、知らなかったのだから。
だから、抱く想いの共有などされる筈がなかったのだ。それでよかったのだ。昨日の夜、彼があの言葉を口にする前までは。
『このもどかしさを取り払うためにかける時間とするには、人の一生はどうにも短すぎる。』
私も同じことを思っていた。きっと、人に与えられた90年などという短い年月では足りないのだと、だから生まれ変わってもこの人を探さなければいけないのだと。
そんなこと、そんな突飛で夢心地を極めたこと、「理解されない」と思っていたのだ。
もしそんな奇跡の共有が起きたとして、それはもっと、ずっと後のことだと、それこそ、生まれ変わりでもしなければ叶う筈がないのだと。
あれは彼を責める涙ではない。もどかしい、を笑顔で紡いだことに対する悲しみの涙でもない。
私はただ、嬉しかった。驚愕と歓喜とが激しく渦を巻いて、何も言葉が出て来なかったのだ。
貴方といると永遠が一瞬になる。けれど永い時を経なければ得られないと思っていた共有は、あの一瞬ののちに為されたのだ。
永遠が一瞬になったからこそ、私達は永い時がかかるかもしれなかったことを、あの一瞬で為すことが叶ったのだ。
「……遅かったな」
セッカシティに降り立てば、その外れに生える大きな木の下に彼がいる。
昨日、ミズゴロウに引っ掻かれて出来た大きな傷は、しかしいつもの黒いマスクでなかったことにされてしまっている。
けれど昨日のあの時間は確かにあったのだ。あの奇跡のような共有は夢の中のことではなかったのだ。
それを証明するように、彼の足元にはミズゴロウがぴたりと寄り添っている。
「待たせてしまってごめんなさい。喉、乾いていませんか?」
鞄から冷えたサイコソーダを取り出して投げる。彼はそれを受け取り、昨日のことを思い出したように微笑んでから「ありがとう」と口にする。
プルタブにほぼ同時に手を掛ける。隣に並び、木の幹に凭れて座る。さわさわという木の葉の音を聞きながら、口の中で弾ける泡を楽しんで、笑う。
あの木に付けられた二つの文字は、何故か、今も風化されないまま、あの頃の形をそのまま残すに至っている。
私の刻んだ文字が消えない理由は、私だけが知っている。上から私が何度も、誓いを立てるようにその木の幹へと刻み込んでいるからだ。
書き足して、また書き足して、それでも足りないからまた書くのだ。
けれど、風化して然るべきであった彼の文字までそうなっているのは、あの頃の文字が消えないまま此処に在るのは、……きっとそれも、おそらく。
「ダークさん、今日は何処へ行きましょうか?」
昨日は私の希望に従ってくれた。今日は私が彼の希望に従う番だ。私は期待するように彼を見上げたけれど、その実、行き先は何処でもよかった。
何処に行っても、何処にもいかなくても、それが貴方の選択であり自由なのだと、その言葉を甘受する用意ならもうとっくの昔に出来ている。
「……その前に、お前に渡すものがある」
「え?」
彼は足元に隠すように置いていた紙袋から、お洒落な麦わら帽子を取り出した。
その帽子には見覚えがあった。私があの海水浴場で見つめていた、淑女を極めたデザインをした美しい帽子だった。
ああ、これに魅入られていたあの瞬間を見られていたのだと、この帽子を気に入っていたことを彼は見抜いていたのだと、気付いて、言葉にできない何もかもが私の喉を満たす。
「お金は要らない。プレゼント、はお金を取らないものなのだろう?」
そう言われて、私はいよいよ笑い出してしまった。そうだ、それを昨日の彼に告げたのだって他でもない私なのだ。
私のやり方に倣うように、やや強引にそれを私の手に押し付ける。青いリボンの結ばれた美しいそれを、ガラス細工に触れるように優しく何度も撫でる。
込み上げる何もかもを、しかし私は言葉にできない。こうした気持ちを何と表現すべきであるのか、そしてその悔しい感情がどういった意味を持つのか、もう、私は解っている。
私は笑う、彼も笑う。木や風や水の音が、確かな言葉を私達の間に運んでくる。
祝福が私達の手の中に在る。
2013.8.7
2016.8.29(修正)
Thank you for reading their story !