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バトルリゾートに向かう連絡船、タイドリップ号の2号室。そのベッドに身体を沈め、私は夢と現との境を泳いでいた。
僅かな揺れが、海を泳いでいることを伝えてくる。早くあの海の中で泳ぎたいと思った。宝石のように綺麗な青に飛び込んで、水底のきめ細やかな砂浜を掬い上げたい。
泳ぎ疲れたら浜辺に座って、夏の日差しに肌を乾かしてもらおう。日焼けなど気にしていたら外で泳ぐことなどできない。軽い火傷で肌が痛むかもしれないけれど、構わなかった。

『私が思うに、きっとミツルに再びポケモンの声が聞こえるようになることは、二度とないんだ。
だって彼は、君のような優しい人に会えた。ポケモンを通じて、友達も沢山できた。ミツルはもう、ポケモンの声を聞く必要がなくなったんだよ。』

目を閉じれば、あの人の言葉が脳裏にこだまする。
彼はあの瞬間に、ミツル君に必要な真実を即座に導き出すことができた。
きっと私に任せるよりも、彼がミツル君に直接そう言った方が、効果があったのではないかとさえ思えた。
全てが終わった今でも、私では力不足だったのではないかという疑念は、ぐるぐると私の中で渦を巻いていた。

『あの子に掛けるべき言葉を、君に任せたい。』
『君でなければいけないんだ。』

おじさん、私はそうは思わない。
心の中でそう繰り返し、自分を責めることは簡単にできた。けれど、泣くことはしなかった。
元来の気質として、人のために涙を流せる程、私は優しくなどなかったし、何より私に泣く資格など無いように思えたからだ。
だって私は、この饒舌な口が紡いだ虚言で彼を救えると思い上がった、愚かな人間なのだから。
彼にとって最も優しい真実をでっち上げ、彼を騙すようにして彼を救った、狡くて、どうしようもない人間なのだから。

あの時、私の手は震えていた。その手の温度には彼に掛けるべき適切な言葉を選び取れたのだという高揚と歓喜、そして紛れもない安堵が含まれていた。
だって、初めてだったのだ。誰かのための言葉をあんなに悩んで捻り出したのも、誰かの心の憂いを取り払いたいと強く願ったことも、全て。

「君でなければいけない」と言われたことは、今回が初めてではなかった。
ルネシティの目覚めのほこらに入る時も、レックウザの背中に乗って宇宙に向かう時も、私は同じようなことを言われ、高揚に胸を躍らせながら歩を進めたのだ。
あの時と同じように、今回のことだって造作もないことだと思っていた。
失敗が許されないのはあの時も先日の件も同じであったし、世界に対する重要性なら、宇宙に向かったあの時の方が遥かに上だったからだ。
ポケモンリーグのチャンピオンになることより簡単な、隕石を壊すことよりも容易な、造作もないこと。そう思い上がって、私は彼の言葉に耳を傾けた。そして、後悔した。

元々、私は誰かの思いに共感したり、誰かに情を寄せたりすることが苦手な人間だった。
苦手……というよりも、そうした、人の心に共感することを嫌う人間だった。情に絆されることが大嫌いだった。私はそうした冷たい人間だった。
そんな私には、世界を救うなどという大きなことに立ち向かうことよりも、彼という、たった一人の唯一無二の存在に対峙することの方が余程、難しかった。
私は、彼の父親のような優しい言葉を用意できなかった。彼の絶望に共鳴し、その苦しみに寄り添うことなど不可能だった。
だから私は、彼を強引に引っ張り上げた。私らしい言葉で彼に相応しい真実を創り上げ、悲しむことなど何もないのだと言い聞かせることを選んだのだ。

私はこんな狡いやり方でしか、彼の心の陰りを取り払えない。
それでも、これが私だ。ミツル君はこんな私に、真実を話してくれた。私はそんな彼にどうしても報いたかった。


誰かを大切に想うことって、こんなに難しいんだ。


ベッドに寝返りを打ち、小さく溜め息を吐いた。
連絡船がバトルリゾートへの到着を告げ、私は起き上がり、髪を整えて部屋を出る。
ミツル君とはあの日以来、もう1週間ほど会っていない。彼は今日も此処に来ているのだろうか。
彼のバトルをする姿は嫌いではなかった。だって彼はとても真摯な目でポケモン達の後ろ姿を見ているのだ。
そのアッシュグレーの目から、焦燥の色が取り除かれればいいと願っていた。私は軽率にも彼の過去に踏み入り、そして、でっち上げた真実で彼を引き上げた。
ごめんね、ミツル君、こんな私でごめんね。そう脳内で紡いだ瞬間だった、私の名前が大きな声で呼ばれたのは。

トキさん!」

バトルリゾートから南に伸びる桟橋から、彼が大きく手を振っていた。
先程までベッドでまどろんでいた筈の私の身体は、翼を生やしたかのように素早く動いた。彼も桟橋から走って来てくれた。
息を切らせた私に彼は「やっと会えました!」と満面の笑顔で紡いだのだ。

「最近、この船で会えないから、何かあったのかなって心配していたんです」

「心配かけてごめんね。図鑑を埋めるためにムロタウンに言っていたの」

挨拶代わりに、息をするように嘘を吐く。ムロタウン周辺のポケモン図鑑など、もうとっくに埋まっていた。
本当は彼に合わせる顔がなかったから、この船に乗ることを今まで避けてきていたのだ。
けれどこの少年には勘付かれてはいけない。だって私はお姉さんなのだから。この少年の憂いを取り払うと誓った、狡くて嘘吐きな人間なのだから。

「その花冠、綺麗だね」と、彼の鞄に付けられた、彼岸花で作られた冠を指差せば、彼は嬉々としてそれを掲げて私に見せてくれた。
葉を殆ど見せない彼岸花は、こうした茎を編んで作る花冠には向いているのかもしれない。
彼岸花の元々の豪華さも相まって、それは驚く程の鮮やかさで周りの人間の目を惹きつけていた。
恐れすら抱かせる程の、暴力的とも、幻想的とも言えそうな、あまりにも眩しい赤だった。

「ロズレイドが作ってくれたんです。ボクよりもずっと器用で、驚きました」

「綺麗だね、本当に綺麗。……でも生花だから、直ぐに枯れちゃうね」

「いいんです。だって生き物はそういうものですから。だからこそ花は綺麗なんだって、ボク、教わりましたから」

その笑顔に陰りがないと感じたのは、私の願望がそう見せただけだったのだろうか。それとも、彼の真実だったのだろうか。
私は「そっかあ」と相槌を打った。彼にそうした、死の概念と生の素晴らしさを教えたロズレイドは、今日もその鞄の中でミツル君と一緒にいるのだろう。

トキさん、今日は泳がないんですか?」

そんなことを尋ねてきた彼に少しばかり驚きながら、私は少し考えた後で口を開いた。
まさかその次に、とんでもない言葉が飛んでくることになるとも知らずに。

「勿論泳ぐよ。ただ、さっきまで船のベッドで寝ていたから、もう少し目が覚めるまでビーチを散歩してからにするつもり」

「それじゃあ、その後でいいので、ボクに泳ぎ方を教えてくれませんか?」

心地良い潮風が吹いていた。日差しが沈黙を焦がすように激しく照り付けていた。
時が止まったような気がしたけれど、私の心臓は張り裂けそうな程に大きく揺れていた。この感情の正体を、私は知らない。知る筈がない。
こんな思い、知らない。

「急にこんなこと、頼んでごめんなさい。海を渡るポケモン達が、とても気持ちよさそうだったので」

「……今やろう!すぐやろう!私、水着に着替えてくるから!」

「え、でも、目が覚めてからの方が、」

「いいの、今、覚めたから!私が今すぐに泳ぎたいから!そこで待っていてね!」

ねえ、ミツル君。私は君の世界を変えられたのかしら。君の焦燥を取り払うことができたのかしら。
君は、ポケモンと一緒に居られる時間を心から楽しめるようになったのかしら。
けれどそんな全てのことを考える余裕など、もうなくなっていた。だって心臓はこんなにも煩く揺れていて、私は泣きそうになっていたのだから。

私はポケモンセンターの影で服を脱いだ。もう既に水着はその下に着込んであったから、後はこれを脱ぎ捨てるだけでよかったのだ。
脱いだタンクトップの裾で、私は目元を乱暴に拭った。けれど目が赤く腫れてしまう前に嗚咽を止めた。
私に泣く資格などありはしない。だって私は、この饒舌な口が紡いだでまかせの言葉で彼を救えると思い上がった、愚かな人間なのだから。
彼を騙すように彼を救ったことに、歓喜しているような狡い人間なのだから。
そして何より、私は年上のお姉さんなのだから。

彼と、この澄み切った海を泳ごう。慣れたらもっと深いところにも潜ってみよう。疲れたら浜辺に上がって、サイコソーダを一緒に飲もう。
その後で、彼が望むならポケモンバトルをしよう。今度こそ負けてしまうかもしれない。けれどもう、彼に負けることが怖くない。

「お待たせ、ミツル君!」

既に水着に着替えていたミツル君の手を強く引く。もしかしたらこの少年も、水着を下に着ていたのかしら。そんなことを思いながら熱い砂浜を駆けた。
彼は小さな悲鳴を上げたけれど、やがてクスクスと笑いながら私の後に続いた。この手は絶対に離さない。私が、離したくない。
振り返れば、彼が浜辺に放り投げた鞄の影から、燃えるように赤い色をした花が顔を覗かせていた。


2015.7.6

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