執筆:2021.2.11(ゲーム本編5章終了後)
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「トリックスター、問おう!」
妙な面が些か目立つものの、副寮長としての仕事と美への探求心においては誰よりも信用に値する男、ルークは、監督生への挨拶代わりにこのような声掛けをした。オンボロ寮へと続く道に落ちた枯葉を箒で掃き集めていた彼女は、ルークの「トリックスター」という奇怪な呼び名にも動じることなく顔を上げる。昨夜振った雪のせいで今朝は随分と冷えており、普通に呼吸をしているだけでも息が凍る有様であったために、その目にルークとヴィルの二人を認めてにっこり微笑む彼女の顔は、吐かれた息の白にほんの一瞬、ふわりと覆い尽くされた。
「おはようございます、どうぞ!」
「君にとって美とは何か?」
彼女はその特殊すぎる出自故に、また身寄りがない境遇故に、女性でありながら学園の温情でこの男子校へ留め置かれている。そんな事情が彼女をそうしたのか、あるいは生まれ持っての性であるのかは分からないが、その立ち振る舞いは無謀なまでに勇敢で、少々危なっかしいところがある。今だって、ルークとヴィルに切れの良い滑舌で大きく挨拶を返してから、箒を強く握り締めつつニヤリと口角を吊り上げて、こんなことを言う有様なのだ。
「寝起きの頭には難しい質問ですね。食堂でとても美味しい朝ご飯にありついてからでないと、ろくな答えを出せそうにありません」
ポムフィオーレの上級生、しかもあらゆる意味で一目置かれているこの副寮長、ルークにあろうことか朝食を奢ってくれとせびるなんて、と、ヴィルは彼女の図々しさ、度胸、危うさ、その全てに心底呆れた。けれどもルークは彼女のそうした返答をいたく気に入ったようで、いつもの「ウィ! 勿論ご馳走しよう」という軽快な返事と共にマジカルペンを取り出し、さっと一振りすることでオンボロ寮の前に散らばった枯葉たちをあっという間にゴミ袋の中へと集めてしまった。
掃除を手伝ってもらえたことと、朝食代が浮いたことにこの上なく喜んだ監督生は、ルークに感謝の言葉を何度も告げた。その後、寮の玄関に箒を仕舞い、変わりに鞄を手に取り戻ってきた。お待たせしましたと告げてルークとヴィルの少し後ろを歩く彼女は、傍目にも分かる程にご機嫌だった。
今日のトーストにはたっぷりのジャムを塗ってみよう、玉ねぎとベーコンが少し入っているだけのコンソメスープをやめて、ずっと気になっていたクラムチャウダーを頼んでみよう……。そうした独り言は声をある程度抑えて発せられているものの、すぐ前を歩いているルークやヴィルには丸聞こえである。自らの気紛れで此処まで喜んでもらえることが想定外だったのか、ルークは僅かに顔を赤らめつつ嬉しそうに微笑んでいた。アンタが楽しいならそれでいいけれど、とヴィルは内心で独り言ち、後ろをそっと振り返った。注文するメニューを決め終えたらしい彼女は更に機嫌よく鼻歌まで歌い出していたのだが、視線が合ってしまったことにより、その、ヴィルの知らないメロディはぴたりと止んでしまった。何故だか僅かに心苦しさを感じながら、ヴィルは苦笑した。
「糖質のパンに糖質のジャムを塗って食べると早くお腹が空くわ、バターの方がいいわね。ジャムを塗りたいならサラダを合わせて食べなさい」
「……あっ、もしかしてグリセミック指数の話ですか?」
「あら、知っているならいいの。余計なお世話だったみたい」
グリセミック指数。食べ物に含まれる糖質の量と質を評価するための値だ。体調管理の一環として、あるいはダイエットのためとして、この値を参考に料理を選ぶ人も少なくない。ただカロリーや脂質量のようにメジャーな値ではないため、名前だけは知っているが活用したことがないという人の方が圧倒的に多かった。話題に出しても首を捻られることが多かったために、たった二秒足らずでその単語を引き出してきた監督生の知識にヴィルは少々驚かされてしまった。失礼な……本当に失礼なことに、そういうことを気にして食事を摂るような人間ではないと思っていたから、尚の事。
「いいえ、失念していたので助かりました。ありがとうございます。じゃあサラダもお願いしていいですか、ルーク先輩!」
「ふむ、想定より多い出費だが美のためなら致し方ない。喜んで出そう!」
グリセミック指数の知識が既にある人間に余計なアドバイスをした。この少女に対して失礼な偏見を抱いていた。更には腹心であるルークの財布に追い打ちをかけるような真似をした。この一連の流れはヴィルを後悔と反省の渦へと引き込んでいくに十分な、彼にしては珍しい「失敗」であった。けれどもそうした一瞬の心の陰りを、ルークと監督生の至極楽しそうな笑顔がすぐさまなかったことにしていくので、この朗らかな空気の中にあっては、ヴィルはゆっくり落ち込むこともできやしない。
身寄りのない身であるが故に毎日の出費を少しでも抑えたいという当然の思い、そこから来る彼女のこうした、やや小狡い言動を目にするのは、実はこれが初めてではない。あらゆる場所で、あらゆる人物とのやり取りで、彼女はこうした立ち回りを行ってきていた。
「ルーク先輩に奢ってもらって、ヴィル先輩に指導をしてもらって……いや、今日は本当にいい朝ですね! ポムフィオーレのクラスメイトたちが知ったら羨ましがるだろうなあ。いつ自慢しよう……」
「こら、喧嘩を売るような真似はやめなさい、決闘に持ち込まれても魔法を使えないアンタじゃ勝ち目がないわよ」
「あはは、ポムフィオーレの皆さんはそんなリンチみたいなこと、しませんって! この間、手袋を投げつけられた時だって、私にも勝ち目のある公平なルールで戦ってくれましたよ」
彼女のそうした行動はヴィルとは縁遠いものであり、ある種生き汚いとも取れるそれは勿論美しいなどと評せるものではない。けれども、不快なものという訳でもなかった。
「へえ、どんな?」
「腕相撲です。負けた方が一つ雑用を引き受けるって約束のもと、三人と正々堂々、決闘させていただきました」
適切な敬意を躊躇いなく示せる礼儀正しい人は好ましい。必要以上にへりくだらずはっきりと物を言える人は好ましい。悲惨な境遇に置かれても毎日を楽しそうに生きている人は好ましい。向上心と挑戦心をいつ何時たりとも忘れない人は、好ましい。
「結果は一勝二敗、労働のための時間をお金に換算するならギリギリ赤字といったところです。でもその後、みんなで一緒に飲んだジュースの味は格別だったんですよ! 是非またやりたいですね」
ヴィルの求める美的要素には大きく欠くものの、それらの好ましさが生む彼女の妙な愛嬌は彼の心地を穏やかにした。ポムフィオーレ寮の生徒は文化部に属する者が多く、運動面では平均よりやや劣る者が多いとはいえ、誰もが育ち盛り、成長期の男である。そんな男子生徒に一勝をもぎ取ったという彼女の優秀な細腕を見ながら、ふと「アタシが申し込んでも、この子はその決闘とやらを引き受けてくれるのかしら」などと絶妙に馬鹿馬鹿しくて絶妙に面白いことを考えたりもしたのだった。
「アンタ、意外に筋力はあるのね」
「いやそれほどでも、と謙遜すべきところですが、此処は敢えて……当然です、と言わせてもらってもいいですか?」
前を歩いていたヴィルの足が思わずぴた、と止まった。反応しきれなかった彼女は立ち止まりきれずヴィルの背中に飛び込んでしまう。けれども彼女の「当然」の言葉に違わず、その体は日頃から随分と鍛えられているらしく、彼女自身よりも大柄な相手にぶつかったにもかかわらず彼女の体がぐらりとふらつくようなことはなかった。ただそれだけの落ち着いた姿勢にも体幹の良さがとてもよく表れていて、同じく体幹を鍛えているヴィルもまた微動だにせずその場で感心する。
ごめんなさい、と白い息で顔を隠しつつヴィルから離れた監督生は、少しだけ赤くなった照れ笑いの顔を、初冬の涼しい風に当てるようにして上を向いた。何となく面映ゆく思われたため、ヴィルもその行動に倣って空を見上げた。
「私の夢……元の世界で目指していた仕事は、体力と筋肉と根性がなければ到底なることの叶わないような過酷なものでしたから」
成る程、とヴィルは思った。どうやら彼女の好ましさにもう一つ、付け加えなければならないらしい。
自らの矜持のもとに奮励し、何かを強く志せる人は、やはり好ましい。
「じゃあアタシと一緒ね」
そう告げてから監督生の方を見遣ったヴィルは、息を飲んだ。彼女の唐突な「空を見る」という行為が、赤くなった顔を冷やすためのものでも、少しばかり面映ゆくなった空気を誤魔化すためのものでもないことに気が付いたからだ。
彼女は空に、元の世界を見ている。すなわち彼女はきっと悲しんでいる。
元気に明るく快活に、時に小狡い真似までしてしたたかに、美しいとは言えないがどこまでも好ましいこの少女は、自らの体力と筋肉と根性をありったけ注ぎ込めるだけの夢がこちらの世界にないことを「口惜しい」と思っているに違いないのだということが、もうその横顔だけではっきりと、分かってしまう。